2005年09月23日(金)
1634, 創造性とは何かー 日野敬三 対談集

今西錦司との対談「創造とは何か」も深い。
もう23年前の対談で二人とも故人になっているが、生々しい肉声がそのまま伝わってくる。
自らを謙虚にして自然の声を聞く姿勢が、創造の原点であるが、個性に対して「自己」と
「自我」の相対の中から、その意味を導き出しているのも、鋭い指摘である。
 対談者ー今西錦司ー創造とは何か?

ー父性原理と母性原理ー
 ー今西
西洋では神を一番上において、次に人間を据える。そしてその間が切れている。
そこからもう一つ切りよって、その他の生き物は全部が人間の下に置かれている。
デカルトですけど、「我思う、故に我あり」に当たらん。こいつらは何も考えよらん、
で切られている。縦割りのヒラルキーが厳然と決まっている。
我われは幸か不幸か、そういう絶対的な神はいない。天照大神が一番偉いのだろうが。
ホカに八百万の神というて、さまざまな神様がいるが、これは欧米の縦の系列でなく、
横の系列なのである。ほかの生物に対しても、やはり同じ平面においている。
西欧が父性原理できるところを、こっちは母性原理でつないでいる。
 ー日野
私自身も自分を氷山のようなイメージで考えるんです。氷山は水面に出ている一角でね。水面下の方が大きい。
自分が意識している『自我』は、氷山の一角。まあ、ちょっと光ってるように見えますけど、それだけのもの。
本来の自己は海面下の氷山のように、暗く無限にずうっと広がっていて、その中には自分の過去の経験、父祖の経験、
民族の経験、全生物の三十数億年の経験が詰まっているような気がするのです。
それが更に宇宙までつながっているという感覚をこのごろ持ちます。
 ー今西
それは表現を変えたら、意識の世界に住んでいる以上は井戸の中の蛙と同じで、
なんぼ教わっても世界のことはわからない。この文明は、人類の歴史から言うても意識過剰な時代ですね。
 ー今西
個性というのはどこにあります? 「自己」と「自我」の相対から言うたら個性はどこにあります?
 ー日野
「自己」の中には本来あるべきものが潜在してあるはずだけど、
それをほとんどの人が抑えている、あるいはそれと通じないようにしている。
一種、気味悪いせかいですからね。そのうちのどの部分をどこまで意識化して、
現実化しているかによって、それぞれの個人の個性が出てくるんだと思います。
より深く「自己」を生かして、自分の掘っている井戸の深いところから汲み上げている
個性は強い個性、豊かな個性。貧しい個性、平均的な個性はあまり掘っていないじゃないですか。
その時代、その社会の最も最大公約数的な面で生きている。
 ー今西
個性が浅いということですね。
 ー日野
そうですね。優秀な個性、劣等な個性はぼくは考えない。
「自我」を突っぱねるのではなく本来の「自己」をより広く深く生かしている
個性と、浅くしか生かしてない個性の差だろうと思います。
そこで、じゃあ、どのようにすれば、「自我」を越えて「自己」のひろがりまで
達するかというとことで、先生が「私は山に生きて、山で別世界に触れることが
私の想像の根源だ」とおっしゃったのは、そういう意味だと思います。
別社会が何も外にある別社会だけじゃないですね。
自分の中にある別社会でもある。それは山に行くことで、日常から離れられて、
非日常の次元で直感がさえる、はたらくということでしょう。
以下は字数の関係でカットしています
 分類のコーナーの検索に「父性原理と母性原理」と入れて下さい。
(2007年9月23日)

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