2006年09月23日(土)
1999, 「私」のための現代思想  −3
   (。^0^。)ノ オッ (*^○^*) ハ〜 ヨウ
第一章 「私」を縛るものは何か ー?
  ー《価値》についてー

<価値>とは、何が良いか何が悪いかという時の価値基準をいう。
良い・悪いの規範のことを「道徳」という。
道徳は私たちに本来セットされている「感じ方」や「考え方」ではありません。
私たちが社会から学ぶものです。 多くの場合、道徳は「規範の内在化」という過程を経過して
私たちの中に形成される。道徳そのものに本来は論理性は内在していない、と考える方が妥当です。
   ニーチェは『道徳の系譜』において、キリスト教の価値観の問題点を指摘した。
    その論理展開を箇条書きにすると
   ?、先ずは「力あるものは悪である」と考えた。
   ?、その逆として、「弱いもの=善」と考えた。
   ?、?により「力を自分のために使うこと=利己的な行為」は「悪」とされた。
   ?、?により「利他的・非利己的な行為」が善とされるようになった。
 ニーチェは、キリスト教においてこのような論理展開が行われたのは「ルサンチマン(怨恨・反感)」に求めている。
 人間は幸福を求める存在である。しかし、自己の幸福を(直接的には)もとめては
 ならないとキリスト教は説きます。こうした命令には従うことは普通はできません。
 しかし、この宇宙に絶対者が存在し、その絶対者の意志としてそれが命令であれば、
 人間は従うしかありません。 従って?^?に続いて、次のような論理の展開が行われるようになりました。
   ?、利己を求めることは「力の発露」であるから、利己を求める人間という生命体は罪深いものである。
   ?、「利他的・非利己的」行動こそが、「神の意志」である。
    「僧侶的な善悪の判断基準」と対になるのが、「貴族的・騎士的な判断基準」。
    ニーチェによると、この判断基準は、「力を持つこと」「生を楽しむこと」「創造的であること」が、
    基本的な「善」とされます。これはつまり、自己を肯定することが「善」であるということです。
これを実現するためには、不断の厳しい努力が必要とされる。たとえば、戦争や格闘、冒険や探検、狩猟などのように、
「鍛えられた力が発露されることによって、その成否が明確に表現されるもの」においては、「勝利すること」
「克服すること」「成し遂げる」が「善」であり「高貴」であるとされる。当然負けること、諦めること、
弱いことは「悪」とされる。これは、「能力あるものが、さらにその能力を鍛え上げ、力を行使することによって
自己を何がしかのものにしていく」という生きかたで、「ローマ的な生きかた」と呼ぶこともできる。
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  ー感想ー
    「意味」の意味の一つに、「価値」がある。逆に「価値の意味」の中に「意味」があるともいえる。
    何かこんがりそうな話だが、「価値」を「意味」とみるのも面白い。
    自分が家庭や社会などから知らないうちに形成された価値観、これが一番、その人そのものを束縛する正体。
    その価値観からの自由こそ、真の自由なのだろう。
    しかし、その価値観は手の平と指の関係のように切り離すのは難しい。
    だから若い時に色いろな伝記を読む必要があるのだろう。それと、よい学校に行くことも。
    そこでは良い同僚と、良い先輩と、よい教授に出会えるからだ。
                      (。^0^。)ノホンジャ、マタ!
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