2005年09月17日(土)
1628, ソウルの富士山ー日野敬三 対談集 −2

また、作家の保坂和志の対談 ーソウルの富士山ーも含蓄がある。
死に直面した日野の心理が二人の対談から、みごとに浮かび上がっている。

保坂和志
今日は日野さんが、脳の手術から回復される過程で体験されたことを、
闘病記というより旅行記のような感じでうかがいたいと思います。
ー日野ー
自分が脳を手術されて、術後に安静状態にあるんだとわりあい客観的に自覚したのは一ヶ月ほどあとでした。
なんとなく現実がわかるようになっても、まだうつらうつら夢を見ている状態がさらに一ヶ月続きました。 
そこには、どうも完全な夢とは違う。 自分がソウルにいて窓の外がソウルの街がみえる。(実際は東京だが)
そして、富士山でなくてカイラス山がみえる。 もしかすると、この人生ではなくて、その前のいつか巡礼に
行ったことがあるのかも、と思い直しました。だとすると、僕の中で辻褄が合うのです。
カイラス山はそれだけの格と威厳がある山ですからね。超意識の神話的空間内だったら、カイラス山も見える。
それだけのリアリティのエネルギーを持ってなかったら、何が聖山ですか。
ー日野ー
僕は実は世の中を楽しんでいる、あるいは生きていること、人間であることが好きなんじゃないかと思い当たったんです。
それを好きでないように思い込んでいきていたのが、いよいよ最後のところに来て、
その思い込みが剥がれ落ちて本当の地が出たんだと気がついた。
もう一つ考えたのは、人生はなにも正しく生きねばならいことはないと。楽しく明るければよい。
正しくありたいと思ってきたが、それは最も大切ではないとベッドの中で声に出して自分に言った覚えがあります。
ー保坂ー
今回の日野さんの体験がものすごく言葉にしにくいのは、死のそばまで行ったはずなのに、
死の遠くに行っちゃって、ずっと夢とも幻覚でもなかった、本人はもう一つの現実だとおっしゃっている。
つまり、死とか、夢とか、現実とかの定義が一般のものとは違っているわけです。
ふつうの人も同じ手術をすればたぶん何割かは似たような経験をするものでしょうけど、
たいていは周囲の目が怖いから、その辺のことを正直に言わないだと思います。
日野さんの場合、職業的な自負なのか、ありのままに語れているところが非常に貴重ですよ。
ー日野ー
僕に言わせれば、やっと退院をしてみたら現実のほうが定義が壊れかけているかの
ように思いました。ちょうど僕の意識が戻ったころに、同じ脳の病気の小渕前首相は亡くなるし、
そのあとを継いだ森首相は妙なことを言い出すし。もっとショックを受けたのは、
社会面では子供達の殺しの記事ばかりですよ。ものすごく異様だった。
ソウルで富士山やカイラス山を幻覚?で見ていて、僕はとてもまともだったんだなと思いました。
僕らは日ごろいとも簡単に現実と夢と言います、全く別のように。
でも本当は、そう分かれる以前のところに生きているんじゃないか。
夢現のあいだ」ということを東洋の人たちは古くから知っていたように思います。
夢現のあいだ」は「無現のあいだ」でもありましょう。
退院をしてから老荘の本、道教関係の古い本を改めて身近に読んでいます。
たとえば、中沢新一さんもチベット密教を修行して幽体離脱を体験した話を書いているでしょう。
もうひとつの微細な分身をこしらえて、肉体から自由に出て動きまわる・・・・・
僕も入院中にいろんなところに行きましたからね。実際に行ける場所ではないにかかわらず、
そこで見たり考えたりしているのは、たしかに自分自身なんです。
この僕の肉体に限定された存在がギリギリ最後のものじゃなくて、そこからまだ先の、
本当のエッセンスのような小さく精妙な自分があるらしいと思うとドンドン自分が怪しくなるから、
まだきちんと考えつめてはいないですけど。 この予感は気味が悪いし、楽しくもあります。
−保坂ー
社会がひとつの現実だけをもって見ることができないのと同じように、
人間もやはり一つの個体のなかにすべてが規定されているのではないかも。
ー日野ー
その個体を離れるというか、さまよい出るというか、叩き出されるとうか、
どうであれ自由になることは楽しいですよ。 無責任ゆえの自由のみたいなものは。

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冷徹な記者あがりの作家が幽体離脱をして、チベットの霊山のカイラス山にいってきた。
それも夢ではないと言い切っている。 また、ー僕らは日ごろいとも簡単に現実と夢と言います、全く別のように。
 でも本当は、そう分かれる以前のところに生きているんじゃないか。
夢現のあいだ」ということを東洋の人たちは古くから知っていたように思います。
夢現のあいだ」は「無現のあいだ」でもありましょう。
という、クダリは、生死の狭間での極限から生じた魂の深い世界を垣間見た体験があるからこそ、言えることだ。
人間の脳には、信じられない能力が隠されている。死の瀬戸際を漂うと、その一部を垣間見ることができるのだろう。
 死ぬ時の楽しみでもある。ー面白いことに、去年の今日老子荘子のことが書いてあった。意味ある偶然の一致である。

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