2004年09月17日(金)
1263, 老子孔子

本を読んでいて、時々ハッとする文章に出会うことがある。 以下を書き写してみるが、
儒教道教を対比させることによって、それぞれの本質を、より解りやすく知ることができる。
                         (生き方の研究ー森本哲郎 P・302より)
ー「孔子の教え」はあくまで「厳父の思想」であり、対する「老子の思想」は「慈母の思想」とみることができよう。

老子と目される人物が生きたのはー孔子もそうだがー春秋、それにつづく戦国時代の乱世であった。
誰もが真剣に生き方、というより生き抜くための知恵を求めていた。
それに、応えて、孔子老子に代表される儒教道教が生まれたのである。
対立というより、対照というべきかもしれない。いずれが是で、いずれが非か、などという問いは愚かである。
我われは、ここに二通りの生き方を見、学べばよいのだ。

考えてみれば、この世には「人間なるものは存在しない。
生きつづけてきたのは、男と女である」。人間とは、女と男の総合した抽象概念である。
だとすれば、その「人間」には、当然二通りの生き方が考えられよう。
すなわち、男性原理による哲学と、女性原理につらぬかれた思想である。
中国は孔子老子という祖によって、二元的に、つまり、全人的に生きてきたといってもよい。私たちが学ぶべきことは、
そのような二つの知恵なのだろうか。 中国の作家、林語同は、こう書いている。
ー功なれば儒教孔子ーの徒になり、失意の時は道教老子の徒に奉じるようになる。
 道教自然主義は、中国人の傷ついた魂を和らげる鎮痛剤なのである。
得意と失意で織りなされた人生、それを歩む人間の生き方ー
それは何といっても「父」と「母」に従うことなのではないだろうか。

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以上であるが、
道教儒教を対比させ中国そのものを、いや人間の生き方の知恵を提示している。
学生時代、「諸子百家」を読んだ時に、孔子の教えは堅苦しく思い、むしろ老荘の思想に共鳴をした。
老子の言わんとする要諦は ー小さな私心を捨て去れということだ。
人間存在なんぞは宇宙から見れば砂、いやチリのような存在だ。
それを真に理解すれば、無為自然、母なる自然の道に従うのが一番の近道ということが解ってくる。
人間が生きていくからには、常に挫折と失意が波のように、押し寄せては返していくものだ。
その時、宇宙的視点でその波を見つめる視線が道教の真髄である。
 ー老子の思想の幾つかを書いてみるとー
・道を体得した人は、何事にもとらわれず、言葉を使わず教えを行なう。
・もっとも理想的な生き方は、水のようなものである。
 水は、万物に恵みを与え、相手と争そわず、衆人の嫌がる所へと流れていく。だから道に近いのである。
・実在が意味をなすのは、無が作用しているからである。
・道を体得した者は、行動した跡をのこさない。

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