2005年09月16日(金)
1627, 自分の死ー日野敬三 対談集 −1

先年、亡くなった日野敬三の対談集「創造する心」が深い内容である。
癌から脳出血まで、次々と死に至りかねない病の中で書いた文章は、一言一言が胸に刺さるようである。
秘境ツアーの代理店「ユーラシア旅行社」が毎月送ってくるパンフレットの冒頭の旅行のエッセーを彼が書いていた。
これを編集した一冊の本が出ている。それぞれの旅行先のエッセイが深く対象と一体になっている。。
「創造する心」を読んで、生と死の狭間の中で今生の地球を見つめていたのが解った。
著者心の奥行きの深さには敬意を払う。 言葉は、意識化をするはたらきがある。
そして、言語にすることによって第三者に引き継ぐことが可能になる。
「死」を、いや「死の恐怖」の意識を冷徹に言語化をして、第三者に伝えている。
6人の対談者の一人、柄谷行人との対談の中のー自分の死ーという内容が死に直面した心理を深く語っている。
死に直面し、追い詰められた一人の生の声がそのままリアルに響いてくる。ーまずは、その内容を紹介してみよう。

ー柄谷 
死ということについては、どう感じましたか。
ー 日野
凄く理不尽な、確固たる実体だという気がしました。あいまいな現象ではなく。
人間は誰でも、生き物は何物も死ぬんだということは子供の頃から知っているはずです。でも知っているはずのことが、
自分の身として、今、自分の身体に起こって、たぶん三ヶ月か一年とかー意識を持ったまま、毎月毎晩そのことを考えならが、
だんだん取りつくしまのない実体へと押し出されていく。
いったい誰が、何者かがそうきめたのか、とにかく死ななくてはならない絶対の事実を、今、パスしても、
いずれ近くに必ず来るという理不尽さ。ただ物質に帰る、自分というシステムがバラバラになって物質に返る。
この物質的世界の荒涼とした事態。 これは、今まで観念的に頭で考えていたのとは違う、凄みがある。
そういう自然の荒々しい感触のようなものが、じわじわと迫ってくるわけ。
何か、納得できないような、本質的な屈辱感があったね。もうそれに対してこちらは何も、ほんとうに何の知識も役に立たない。
それを、どう理解しようたって、理解しようがない状態が一日何回かあって。
もうこの時だけは、前からもらっていた精神安定剤を飲んだ。まあ、卑怯のようだけど、それしかできなかった。
あとになって、手術後のモルヒネ系の鎮痛剤のおかげだと思うけど、自分の病室の隣の、別の棟の屋上にね、
ぞろぞろ、ぞろぞろ、色んな人間が出てくるのを見た。三晩位続けてね。男ばかりで、全然見知らぬ人たちばかりなんです。 
ただ、その人たちがとっても懐かしかった。 トテモ慰めらた感じがしてね。それは夢とは違う。夢の場合は、
かなり解るよね。あの人この人って。それが全然ない。純粋に他人がいるということ。
この私という私的でしかない次元のことは,意外と重要でなくなって、荒涼と巨大な「自然」に、一人で直面する。 
あなたの言う、単独性ということをリアルに感じました。あくまで単独性という荒涼たる事実の感触である。
ー日野
僕は以前から、キリスト教圏の悪魔という存在がよく解らなかった。 おどろおどろしい魔性のものでなくて、
映画にでてくる「エクソシスト」のような悪魔のイメージね。それが少し解ったような気がする。
                                      ーつづく
ー後記
両親の死を身近でみて、その死へのプロセスの中に、それまで生きてきた全ての人生が凝縮しているようであった。
その重なりの中から、著者の視点を見ることができた。これだけ自分の死をリアルに描写している文章も稀である。
ぎりぎり追い詰められた一人の生々しい姿が目に浮かぶ!誰もが直面する問題であるから、迫ってくる。

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