H0905 瀬戸物の叩き売り!

 今では大手チェ−ンストアになったJ社に勤めて半年後、四日市より神戸の垂水に転勤になった。
当時の流通業では珍しい学卒を試し、揶渝の為に“瀬戸物の叩き売り”をさせられた。
店頭に瀬戸物の問屋が半端の不良在庫を持ち込む。それを店側のすきな売価で売り、総売上の八割が仕入原価、
二割が粗利益となるのだ。いくら安く売っても痛くも辛くもないが総売上が上がらない。
高くすれば売れない、相手との呼吸でぎりぎり高く売るかがポイントだ。
お客にとっては、その逆である。その掛け合いが面白い。それもギャラリ−が一緒になって楽しむのだ。
 店の開店より閉店までいたギャラリ−もいた。 それ位面白い。商売の原点を身体で覚えさせてもらった。
でもあのフ−テンの寅さんそのものである事も間違いない。

反物をはかる竹尺に新聞紙を紐でまきあげ、腕まくり、頭には手拭いをまきあげ、まさにテキ屋スタイルである。
五日目の最終日には本物のテキ屋の奥さんふうの人に「何処より流れてきたの?」と聞かれる位になっていた。
若き日の1ペ−ジである。

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H0907  養老の瀧1122号店、店長の日々

 両親の創業を幼児の時みていて、その厳しさを知っていたつもりであった。
しかしいざ自分がその立場に立って、その認識の甘さをつくづく思い知らされた。
千葉の新興住宅地(五万人)の十字路に“貸ビルの建築”と“養老の瀧オ−プン”と“結婚”という、
人生の初体験を同時に始めた。

丁度石油ショックにより高度成長期が弾け、ビルの前の数千世帯のマンション計画が中止となり、
最悪の出発となってしまたった。そしてオ−プン...!完全にパニック状態! オ−プン人気も含めお客の列!
しかし、こちらは全くの素人である。
ビル建築等、他に諸々が重なり、地獄のような日になってしまった。 辛くて、恐ろしくて、一日一日が精一杯、
今考えても、よく持ちこたえたと思う。当初の、2〜3ヶ月は朝8時より夜半の1時までの激務であった。
指導員と私とアシスタントの3人の激しい日々であった。

“勤め人”と自営業の立場の大転換がその時おこった。 それまでは8時間プラス2〜3時間、という立場が、
“24時間(休んでいても仕事のうちという)仕事”という立場になった。
サラリ−マンが事業をおこして大部分失敗するのは、前者より脱皮できない為である。
大手ス−パ−の創業期に入社、異常に近い厳しい世界に3年近くいたが..。その厳しさが全く違うのだ。
はじめの数ヶ月は、今日辞めるか明日辞めるかという位、厳しいものであった。
あの空ビルをテナントで埋めなければ、私の立場が無くなる!という前提があった為乗り越えられたと思うが。

でも不思議なもので、真っ正面より立ち向かっていると、いつの間にか辛さが辛さでなくなってくる。
適応能力が自然についてくるのだ。ヤクザ、土方、得体の知れない人間に“気違い水=酒”を飲ませているのだ。
それと兎にも角にも全くの無警察状態に近いのだ。 そこで自分1人で店を衛らなくてはならない。

酒を飲んだ人間の本当の恐ろしさをそれまで、ほとんど知らなかったためだろう。
命が幾つあっても足らない位の事件が月に一度はおきた。
恐怖の中で1人トイレの中で(他の人にはわからないように)震えた事があった。そこで、大きく唸った。
そしてお客に対処したところ腹が据わったのだろう、お客が逆に竦んでしまった。“これだ!”と直感した。

また店の従業員に前もって、うちあわせをしておき、お客に怒鳴る変わりに従業員を怒鳴りつけ竦ませたり、
土壇場に立つと知恵がついてくる。 ただフランチャイズのシステムは今でも素晴らしいものであったと思う。 
標準化、単純化、マニュアル化がきっちりできあがっていた。 創業時の勉強という点で、このシステムは
自らに非常に有効に働いたと、振り返って思えるようになった。 創業は辛い!                                                                ー1973.11.07〜
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