2007年09月01日(土)
2342, 「ある」ことと「あった」こと
                   お|* ̄O ̄|は
『狂人三歩手前』 ー中島義道
ー「ある」ことと「あった」ことー

理屈っぽくなるが、「ある」とは「あった」があるからあるから「ある」のである。
「あった」があるから、その想起で現在が「ある」のである。
「私」も現在から過去を振り返ったとき、「私」が発生するのと似ている。
現在は過去にかこまれているのである。かって旅先で暴漢に襲われて記憶を無くしてホームレスになって、
そして立ち直っていく男の物語の映画をみたことがある。
これこそ自己喪失である。そこに記憶も生活基盤を無くすことの恐ろしさを見た。
それは「あった」があるから「ある」という説明に、解りやすい物語であった。
その映画を見て、人生は「ある」ということと、「あった」ということで成り立っており、
その両者を大事にしなくてはならない!と実感をした。過去は消せないのである。

以下は『狂人三歩手前』から・・・
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世界についてでも、私自身についてでもいい、物体についてでも、心についてでもいい、
われわれは現在の知覚を基準にして、何らかの客観的対象が「ある」とみなしがちである。
書い換えれぱ、それを客観的認識としがちである。
だが、これはまったくの錯覚ではなかろうか? むしろ、物や心が客観的に「ある」ということの基準は、
過去において「あった」ということと現在「ある」ことの両立不可能な二重のあり方のうちにあるのではなかろうか? 
確かに、過去の出来事は「うっすらと」しかないのに対して、眼前の光景は、「がっしりと」そこにある。
だが、あり方の強度と「ある」ことの原型とは別である。 現に見えているとか現に触れるということが、
ただちには何かが(客観的に「ある」ことの条件でないことはすぐにわかる。

第一に、世界のほとんどの客観的な事物や出来事を、私は現に見ていないし、現に触れていない。
第二に、動物でも赤ん坊でも知覚はしているが、ただちに何かを(客観的に)「ある」とみなしているとは言えない。
では、何かが「ある」と言えるためには知覚に加えて何が必要なのだろうか?
何かが「あった」ということをとらえる能力としての「想起」である。

過去とは過ぎ去った擬似(薄まった)知覚的世界ではないのだ。
それは、ープラトンイデア界のようにーわれわれの知覚世界とはまるで異なった意味世界なのだ。
だから、そこには「戻れない」。戻れるのは、何らかの知覚的世界だからであり、意味の世界に「戻る」ことは
原理的にできないからである。われわれはいかにも現在の知覚的世界だけに
生きているように見えるが、じつは刻々と過去世界に取りかこまれて、いや浸されて生きているのである。

過去の事象を(客観的に)「あった」ものとして認識することは、
言語の意味としての過去世界を眼前の知覚風景にうまく関連づけてとらえることである。
現在の事象を(客観的に)「ある」ものとして認識することは、眼前の知覚風景を
言語の意味としての過去世界にうまく関連づけてとらえることである。
ということは、われわれは、常に現在に生きているのではない。常に現在と過去に生きているのである。
過去に生きることができる者のみが、現在に生きることができる。現在にのみ生きている、と言われる動物や赤ん坊は、
過去に生きることができないが故に、実は現在にも生きていないのである。
これを言い換えれば、「あった」ということがわからない者は「ある」こともわからない。
あなたが自分のからだを観察しても、心の状態を観察しても「私」をとらえることができない理由もここにある。
「私」とは、現在と過去という両立不可能な二重の世界に生きることが出来るような者なのであるから。
そして、我々は現在と過去とを一挙に対象的にとらえることはできないのだから。
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非常に解りやすい、深い内容である。これを歴史に当てはめてみても、成り立つことである。
遡れば、ビッグバンがあったから、現在があるのである。
(その説が正しければだが)ありえない事が起こったのである。そして、現在、私が世界を生きている!
これは偶然か、必然か?そしてビッグバン以前は何だったのか? これを考えるのが哲学の一歩である。
            バ━━ヾ(′ω`●)ノ━━イ
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