2006年08月30日(水)
1975, 写真家はインドをめざす
                 \(^▽^*)おは!
              ー読書日記
インドを精通する写真家14人が描いたフォトエッセイが、この1冊に凝縮してあり、読んでいて魂まで吸い込まれるようだ。
この本、この数年で5〜6回は図書館で借りてきては返している。 読めば読むほどに何とも魅力のある本である。
いや本が魅力があるというより、インドの地と、そこに住む人々の混在した多様性にひかれる。
カルカッタマザー・テレサの建てた「死を待つ家」。路傍でまるでゴミのように死んでいく身よりの無い人々が、
せめて屋根のある家で死んでいけるように建てた家の死を待っている老人達の写真を冷静に撮ってあるもの。
 ・物乞いのライ病患者や、駅の隅で転がっている少女の死体?
 ・河の辺で焼かれている燃え上がっている死体。

インドをドック・アイの視線でカメラマンの目は鋭く一瞬を抉り撮っている。
白黒の写真が、むしろピッタリである。一人当たり7〜8頁の文章と、10枚位の白黒写真がその文章の後にある。
画家や写真家のエッセイは何故、ここまで優しく鋭く人の心を捉えるのだろうか?
恐らく、一瞬の被写体の中にある本質を見抜く感性が私たちの心の奥の共感を呼び起こすからだろう。
この本のトップの日比野宏の出だしの文章から、対象を鮮明に表現する。
   ーー
   チャイ屋で一服するのが、インドの楽しみである。土蔵のような店の天井に吊り下げられた扇風機が、
   湿気の無いヒンヤリした風を送ってくる。
   何げなく帳場をみると、ゴキブリが油で揚げた菓子の上を通過し、ネズミが茶碗の周りを這いずり回る。
   隣の男が茶碗にハエが入っていると怒ったら、店の主人が平然とした態度で、スプーンで取り除いた。
   ハエや蚊は空気の成分と同じだという感覚が、この土地で生活する条件の一つかも知れない。
   インドに入国してから一週間も経ってない私だが、その状況に少しずつ慣れていった。
   −−
   という具合で、もう自分がインドの茶屋で、お茶を飲んでいるような錯覚に陥ってしまう。
   また7人目の「インドに想う」−鎌澤久也の写真も、文も素晴らしい。
    −
 カルカッタといわずインドは楽しかった。
 人と動物が一体となり、平等な姿で共存するインド、大通りに牛が寝そべり、交通の妨げになっても、
 決して文句を言わないインド人、ヒンドゥー教においては、牛は神聖視されているからなのだろう。

しかし、乞食に堂々とした態度で、お金をくれといわれたのにはビックリした。
いまだに残っているカースト制度に起因をしているのだろうが、君はお金を持っているのだから、持っていない自分に
お金をくれる義務があり、自分は貰う権利がある。確かに理は通っているが、が、いま一つ納得がいかない。
・・それはそうと、ある夜、デリーの安宿で、屋上から街灯で浮かび上がる街並みや、
華やかな通りを眺めていると、見るからに長期旅行者といった、20代後半の男性から、
[[人生とは何でしょうか?」と、突然話しかけられた。 ウ〜ンと私はうなってしまった。
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「写真家はインドをめざす」青弓社 (共同 著書)
                 (。・ω・)ノ☆゚+.バイ!
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