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2005年07月31日(日)
1580, パンセについて
昨日の随想日記の昨年の同日分に、パスカルについて書いてあった。
その中の格言を読み返してみて、現時点の考えを書きたくなった。
学生時代に感じたこととは自ずから違ってくる。
・人間は一つの極端にあるからといって、その偉大さを示しはしない。
むしろ同時に二つの極端に達し、その中間を全て満たすことによって、それを示すものである。
ーー
二つの極端とは、善と悪・神と野獣・観念と実践、等々あるが、中庸こそ偉大さがあるということか。
偉大さも所詮は人間の価値観の判断でしかない。
・人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない。 自分自身においても、また他人に対しても
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偽装・虚偽・偽善と気づくかどうかだ。
・もしクレオパトラの鼻がもっと低かったなら、世界の歴史は変わっていただろう。
人間のむなしさを知ろうとするなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めるがよい。
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恋愛の原因と結果とを眺めてみて、男とは他愛のないものである。 それだけ若き性欲は昇華して恋愛を促進する。
その障壁が高ければ高いほど燃え上がり、お互いが見えなくなるから困ったものだ。
・人間はつねに、自分に理解できない事柄はなんでも否定したがるものである。
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それが、親から・環境からの植えつけられた強固な先入観であれば、養老猛のいうバカの壁になってしまう。
・人間相互の尊敬を結ぶ綱は、一般的に必要から生じたものである。
というのは、全ての人間が支配者になりたがるが、みながそれになるわけにはいかないし、
種種の階級が存在せねばならないのだから。
ーー
お互いの尊敬か〜
・悲しみは知識である。多く知る者は恐ろしき真実を深く嘆かざるをえない。
知識の木は生命の木ではない。
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軽く、いや生命の木でもある!といえないところが、この格言の深いところである。
不条理が何事にもついてまわるし、無知の涙と同じくらい知識は涙をともなう。
・好奇心というものは、実は虚栄心にすぎない。
たいていの場合、何かを知ろうとする人は、ただそれについて他人に語りたいからだ。
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実をいうと、これがあるから、この「随想日記」が続いている。
これが無かったら、これだけ毎日本や雑誌などこれほど読まない。
といって、その時点時点の好奇心を書き残すのは、自分のためのメルクマールである。
パスカルもそうだったのだろう。
・人からよく言われたいと思ったら、自分のよいところをあまり並べ立てないことである。
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このHPを閉鎖して方がよいと、忠告されてはいるが。
人に良く思われたいと全く思わないから自分のことを並べ立てることができるのだが。。
・この無限の空間の永遠の沈黙は私に恐怖を起こさせる。
・人間は考えるために生まれている。
ゆえに人間は、ひとときも考えないではいられない。
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一日、6〜7万位のことを考えるというが。人は本当に考えるために生まれてきたのかどうか?
・ひとつの事柄についてすべてを知るより、すべての事柄について何らかのことを知るほうが、ずっとよい。
・我々は現在についてほとんど考えない。たまに考えることがあっても、
それはただ未来を処理するために、そこから光をえようとするに過ぎない。
現在は決して我々の目的ではない。過去と現在は我々の手段であって、未来のみが目的である。
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若いうちは、そうだとしても未来がだんだん少なくなってくると、
現在と過去に光を与えようと必死になる。 それも必要ではないのか?
・習慣は第二の自然だといわれているが、人は、自然が第一の習慣だということを知らない。
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自然体を基礎においた習慣を意識してないと、習慣そのものが続かない。
・誤った法律を改正する法律くらい誤ったものはない。
法律は正義であるがゆえに従うといって服従している者は、
自分の想像する正義に服従しているのであって、法律の本質に服従しているのではない
・偉人が我々より偉いのは頭が少しばかり高くでているだけのことで、足のほうが我々と同じくらい低いところにある
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足の位置が同じとみて、同じ気になってしまうから困ったものだ。
しかし、少し頭の位置が高く出るということは大変なことである。
・実物には一向に感心しないくせに、それが絵になると、似ていると言って感心する。
絵とはなんとむなしいものだろう。
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実物も移り変わるものだから。関心をもつチャンスになることも確かだ。
画家の意図を見てくれる人が必ずいるものだが。
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