2007年07月26日(木)
2305, ぼくの血となり肉となった500冊・・・
                 ー立花隆
                      ー読書日記ー
   6年の間、毎日一文章を書き上げてきてプロの物書きの凄みが見えてきた。
   特に一流といわれる人の圧倒的読書量と、書き上げてきた多岐にわたる文章の多さに
   唖然とする。問題の在りかを見つける感覚と、それを正確に文章に書きあげる能力は、
   シッカリした下積みの基礎があるのだ。 どの世界でもプロは甘くはない。
   底知れぬ能力ある人たちの中で頭角を現すのは、そう簡単でない。
   しかし、ここまで見せつけられると納得をする・・もの書きの下積みのインプットは尋常ではない!

ーその一部を抜粋するー

私はいちばん真剣にいちばん多くの本を読み、本格的な人格形成を行ったのは、
二十四歳で大学を卒業して文春に入り、三十四歳で「田中角栄研究」を書くにいたるまでの十年間である。
その十年の間に、私はせっかく入った文春を辞めて大学に戻ったり、はたまた大学をやめてもの書きになったり、
もの書き稼業を捨てて、新宿でバーを経営したり、かと思うと、何もかも捨てて、中近東とヨーロッパを放浪する
旅に出たりと、あまり尋常ではない人生の軌跡をたどっていた。その十年の間に、私ははじめての著書
素手でのし上った男たち』を上梓し、つづいて第二の著書『思考の技術』を出版した。

またこの時期にゴーストライターとして、香月泰男名で『私のシベリヤ』を刊行したし、立花隆とは別の
もう一つのペンネームである菊入龍介名義を用いて『日本経済・自壊の構造』という本を出した。
同じ十年聞に、立花隆名で「文藝春秋」「諸君!」「潮」「週刊文春」「週刊現代」に、多数の雑誌記事を書いたが、
実は、全くの匿名で、その何倍もの原稿をさまざまの週刊誌、月刊誌に書いていた。
そのような文筆活動を通して徐々に活字の世界で立花隆の名が知られるように
なっていったが、必ずしも世に広く知られるようになったわけではない。

しかし、三十四歳のときに書いた「田中角栄研究」によって人生が一変した。
ということは、二十四歳から三十四歳にかけての十年間を一言で表現すれば、「田中角栄研究」以前の十年間になる。
その十年聞は若干のアウトプットもしていたが、圧倒的時間をインプ・トにさいていた。
生活環境は次々に変わっていったが、とにかく読書にさく時間がいちばん多かった。
つまり、私の血肉になる読書の大半は、この時期になされたのである。
それがこの時期に焦点をあてようと思った最大の理由だ。

もちろん、それ以前の少年時代から大学生にいたるまでの時期も沢山の本を読んでおり、
それはそれで私の血肉となっていたわけだが、その時期に読んだ本については、
すでに別のところで書いている(『ぼくはこんな本を読んできた』)ので、ここでは省略する。

ぼくの二十代から三十代前半にかけての時期が、どういう時期であったか、
一言で表現すれば、「ぼくの・青春漂流」時代だったといってよい。
人間誰しも・青年時代前半までは、自分の生きるべき、道がなかなか見定まらず、
迷いと惑いを重ねつつ生きているものである。どこかでその漂流が終わり、そのとき流れ着い土地で、
地に足を着けた生活をはじめる。 それが青春漂流期から青春定住期への移行である。

たいていの人は二十代前半で大学を出て就職することによって仮の定住地を定める。
その定住地で職業人として十年が経過すると、たいていの人はそれぞれの領域で
一人前の人間になる。一人前の入間になったときが、青春期の終わりで、
成人期のはじまりである。それは本格定住期のはじまりといってもいい。
たいていの人は、おおむねそれと同じ時期に、伴侶を見つけて、家庭を持つ。
パーソナルな生活においても、漂流をやめて本格的な定住生活をはじめるわけだ。

ぼくの場合は、そのような標準的なライフサイクルとは、いささかずれたサイクルをたどってきた。
なぜかというと、さきほど述べたように大学を出て文藝春秋という出版社につとめたものの、二年半で会社を辞め、
もう一度学生に戻ってしまったからである。ぼくの本格的な青春漂流期はむしろここからはじまる。
つまり、一度は社会に出たものの、もう一回自分で人生双六の「ふり出し」にもどってしまったのである。
なぜそうしたのかは、要するに「もっと本を読みたい」の言葉につきた。
思う存分本を読んでいた学生時代の生活環境から、急に、「本を読んでばかりはいられない」
生活環境に突き落とされたときの精神的飢餓感に耐えられなかったということだ。

文春を辞めたとき、自分のその後の人生設計などなにも考えていなかった。
とりあえず、学士入学で哲学科に入ろうと思っただけだった。哲学科に入ったのは会社勤めをはじめるようになってから、
自分がいちばん飢餓感を感じていたのが、その方面の読書だったからだ。・・・
学士入学にペーパーテストはなく、書類審査と面接だけで選抜されたと記憶するが、
哲学の主任教授から面接でしつこく聞かれたのは卒業後はどうするつもりなのか
ということだった。正直にいうと何も考えていなかったが、あまりしつこく聞かれるので、
いちおう大学院に行くつもりでいたからそう答えた。
面接した教授は、せっかく文春のような有名企業に就職できたのに、それを退職して哲学科に・・・・
 −−
    これを読んだだけでも、この人の圧倒的な知識を思いやられる。
    他人は他人とはいうが、それにしても知識という面で自分を対比すると、
    その貧弱さに呆然とする。外務省の佐藤優も、そうだが・・・

・・・・・・・・