2007年07月05日(木)
2284, 10歳の放浪記 −2
                       *ヾ(´∀`o)+。才ノヽ
 この番組の中で、教職員を前に上条さなえさんの講演の一部を放送していた。
    その内容がユニークである。
    「あなた方仲間に年配の口うるさいオバサンがいるでしょう。
     彼女らを嫌わないでください。彼女たちは誰からも愛されなくなってしまったのです。
     誰からも愛されなくなると、人を愛せなくなるのです。
     先生の仕事は子供を愛することです。人を愛することです。
     その為には人に愛されなければなりません。さらにそのために、
     まず自分を愛せなくてはなりません」 という言葉が何とも説得力があった。

一年間のホームレスの後、養護学校に初めて行ったとき、アンパンを食べようとしていた自分に、男の先生が
「自分の弁当と交換してほしい、東京のアンパンが食べたい」と、家庭の味のする弁当を交換してくれた。
その時、「必ず良い人間になる」と自分に誓い、先生になりたいと決心をする。
 教育に無条件の愛情以上に何の能力が必要なのだろうか。

ヤクザが気の毒に思い、10歳の子供にいう。「俺のような人間になっては駄目だ。
人間真っ直ぐに生きなくてはいけない」これも、自己否定からくる良心からの説得力のある言葉である。

「うらやましがられることもあるけど、やっぱり平凡な人生がよかった。
まず親が『幸せ』と感じなければ、子どもも幸せになれない。
それぞれの自分の人生に価値を見いだしてほしい」
「私の書く小説すべてがハッピーエンドに終わるのです。
色いろな経験から、そうしなくてはならなくなったのです」の言葉が重い。

最近、14歳というのがキーワードになっている。
中学二年生、誰もが覚えがあるだろう、あの揺れ動いていた時期の日々を。
誰も周囲から居なくなって、自分ひとりが取り残されてしまったような不安の日々。
ひとつの節目だが、その前の十歳も大きな節目となる。そこで決まってしまう時期でもある。
初めて自分の自我に目覚め、人間としての最初の?壮烈な戦場がある。
そこには虐めと、虐められるギリギリ中で、人間としてのベースがつくられる。

    彼女のような経験は特殊だが、しかし大きく揺れる時期でもある。
    一番問題なのは、親が全て取り仕切り、自主性を刈り取ることである。
    10歳の子供が、ケネディーの「国家が何を自分にしてくれるかより、
    国家のために自分が何ができるかを問え」を「親」に切り替えるとは、驚きである。
                         (* ̄∀ ̄)**SeeYou
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