2002年05月29日(水)
421,世間とはー2

前回では「個人が確立されてない日本では社会が存在し得ないのでないか。
そしてその代わりー世間ー存在している」と書いた。 ある地域に生まれ育って、一歩も外の世界で
住んだことがない人は、世間という枠組みから出ることができないのも仕方がない。神話の世界でいう蛇である。

その対極にある鷲に憧れを持ち、その合体の龍を創りあげた。どういうわけか世界中の神話に龍が出てくる。
縛られた世界からの脱出の希求は人間の本質的欲求なのであろう。
羽仁五郎の「都市の論理」に、両親からの自立が人間としての第一歩と書いてあった。
西洋社会でいう「個人」とは、自立した自己ということになる。

まずは職業である、自分で稼いで生きていくのが第一歩である。次に両親からの影響と環境からの自立である。
自分という意志を持った主体の確立である。世間というものに対し、戦い挑んで勝ち取る意志である。

両親と周辺のせいぜい20人を[濃厚な?世間]という。それを自覚する事である。「短い人生、ただ狂え!」が、
世間様の丁度いい噂の餌になるが。王陽明に「羊になるな、狼になり羊を食い散らす生き方を!」というのも、
世間に縛られた生き方を諌めたものだ。 個人ー個性とは世間との闘いで創っていくものだ。
世間とは、他者とのあいまいな緩衝地帯でもある。
私はそこに生きるそれを『子狐』とよんでいる。 誰にもある要素だ。
もちろん自分にある最も嫌っている影である。その集約が、そうあの人!
誰もがこう言われれば自分と?考えてしまうのが不思議???!!

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