2005年05月20日(金)
1508, 猛女怪女列伝ー2

藤田小女姫

美人霊能者として一世を風靡し、時の政財界の大物まで占った女性占い師である。
ところが1994年、ハワイで子息と同時に別々の場所で殺され、
その真相は現在も充分明らかになってはいない。
彼女は結婚後3年で離婚(1964年)、1968年には経営していた有楽町のサウナ風呂の店が
焼け従業員3名が焼死した。その責任として、執行猶予つきだが有罪になっている。
その辺りから彼女の霊能者としてのピークは過ぎた。

彼女は政財界との交流が多く、野田醤油がキッコーマンに、産経新聞サンケイ新聞に改名した
背景に彼女のアドバイスがあったと言われている。またワシントン・ホテルを経営する
藤田観光の名前の由来が彼女の名前にあやかって付けられたといわれている。

米誌『ニューズウィーク』のインタヴューに応えて行なった予言は、
韓国の朴正熙大統領の暗殺予言が未遂であったことを除いてすべて一応的中していた。
彼女が小学校の2年生の時(昭和21年)に、ハワイから来た狐が耳元で、「コトドメヒメ」と囁いた夜を境に、
「ものを聞かれると頭の中でタイプを打つような音がして無意識のうちに言葉がヒョイヒョイでるようになった」
という。そして、その素っ頓狂な調子で予言を口はしる美少女は時の人になる。

当時の政治評論家の細川隆元も、彼女の能力を買った一人である。
日米安保条約の改定案成立に、日本中が騒然となった昭和35年、時の総理の岸信介が、
細川に藤田小女姫に会わせてくれと頼んできた。 この時、彼女は22歳である。
岸は、彼女に「安保は通るか通らんか」と訊いたところ、
「断固とおやんなさい。通ります。そのかわり、通ったあとに、内閣は長く持ちませんよ」と答えたという。 
あとで岸は、「彼女がいなかったらいまの自分はなかっただろう」と呟いたという。

最後は殺害されて彼女の人生の幕が閉められたが、自分のこと以外は、彼女には霊感があったようだ。
しかし、実際に霊感があったのは小女姫の母親で、娘は母のプロデュースによってつくられたただの
タレントという話もあったという。しかし余程の霊感がなければ、多くの大物が心酔はしなかっただろう。

新潮45−4月号参照ー

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