2005年05月09日(月)
1497, いま・現在についてー5
  ー「私の」生成ー

[どうせ死んでしまう] の読書日記に戻る。
この著書の中のー[私の]の生成ーという内容の意味と、[いま]を重ねて考えると、面白い。
 
 ーその一部を抜粋してみるー
「この」身体や[この]心の状態を[私の]身体や[私の]心の状態に変形させるのはいったい何であろうか。
[いま]周辺を見回してもらいたい。そこには[私]は登場はしていない。

そこに認められるのは[この]身体の状態であり、[この]心の状態である。
それは[私]の身体の状態・心の状態ではない。だが、一時間前の光景を思い出してもらいたい。
それを見ていたのは誰か。それは、いまこの光景を見ているものである。

この光景を見ている者がさっきあの光景を見ていたものである。
現在と過去という互いに否定的な関係がここに登場する。世界は過去と現在に炸裂する。
そして、同時にそこに[私]がこの炸裂を繋ぐものとして登場してくるのである。
「私」は知覚においては登場してこず(川を眺めているあいだは「私」は登場してこない)
川を眺め終わって帰る時に想起したときに初めて登場してくる。
 
痛みですら、現在と過去との炸裂で了解される。犬が[キャン]と鳴くことと、
[私]が[ウッ!」と呻くのではなく、適切に[痛い]という言葉を使用できるのは、
やがて痛みが治まったときに[痛かった]と言えることでもある。
そのつど刺激に対してのみ[痛い]という事ができ、[痛かった]という過去形を使えない者は、
実は痛いという言葉を理解していないのである。
こうして、「この」痛みが[私]の痛みに「なる」ためには、痛みがさったあとに
なお私が[痛かった]と語れることが必要である。痛かった[あの]痛みが「私」の痛みなのである。

他者とは、[別の私]のことである。それは、知覚においてではなく想起においてはじめて登場する。 
犬は他者ではない。想起能力のない生物は、いかに私と同じような身振りで苦しがっていても、他者ではない。
他者とは、私と同じように、現在と過去という楔を世界に打ち込むことができる存在者なのである。
 ー以上であるー

過去と未来を想起するものが[私]であり、「いま」という時点で前の「いま」を想起しているものが[私]になる。
従って、その想起のできないものは[私]を持ち得ない。
人間以外の動物には、[過去]や[未来]の想起ができないから、[私]はないのである。
このことより考えてみても、「いま」と[私]は非常に深く関連していることになる。
何気なく使っている[私]という言葉は、現在と過去という世界に打ち込むことができる楔である。 
それも現在[いま]、において。

この連休は、「いま」と「私」について、徹底的に考えてみた。
「私」にとって、非常に有意義な「いま(時間)」であった。

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