2007年04月22日(日)
2210, 帰ってきたソクラテス −1
        (*^_^*)I おはよう!

    あのソクラテスを甦し、政治家、学者、評論家、老人福祉係、元左翼、人権擁護団体、
    イエスに釈迦まで登場。プラトンの『ソクラテスの弁明』の問答形式で、彼らと対話をしながら、
    尊厳死から性教育まで身近な難問に大哲人が挑み、知の広場へと誘っている。
    哲学とは自分の頭で考えることだが、それを具体的に示してくれた内容である。
    池田晶子の本は、もう10数冊以上は読んでいるが、読めば読むほど面白い。
    初めは面白くない本を買ってしまったと後悔をしたが、じっくり読むほどに間違いだと気がついた。
    面白い順にランダムに取り上げてみる。

    まずは、イエスと釈迦とソクラテスの対話が面白い。三人の対話の架空の対話の中から、
    一神教と仏教と哲学の考えの違いを面白く浮き立たせているところが良い。
     ーーー
 
  =死後にも差別があるなら救いだ=
       ー登場人物ーソクラテス、イエス、釈迦ー
 ーP・215ー
ソクラテス:「彼と我々」って気持ちの持ち方が、この世の差別の始まりであって、
 けしからんことなのだそうだから。
エス: 全然違う話だぜ。
ソクラテス: 付き合いのよさこそが、君らの身上ってもんだろう。ここは一つ、
 有難い御法話と御説教といこうじゃないか。
釈迦:付き合いということなら、あなたは我々の比じゃないでしょう。
 あなたは実によく付き合う。ものぐさなんて、何をおっしゃる。
 教祖というものは決して付き合わないものなのです。
 付き合わないからこそ教祖は教祖になるのでございます。
 差別はすなわちシャベツとは、本来仏教の言葉なのです。
 たまたま厳しい身分社会の制度が人人を苦しめていた世の中に、万物平等、
 一切衆生悉有仏性を私が説いた。そして、たまたま王子であった私が、その位を捨ててそうした。
 それで、私は画期的に偉いということになっているのでございますよ。
エス:メクラを治し、いざりを癒し、売春婦を赦したから私はえらいことになっている。馬鹿やろうだな!

釈迦:私が申しましたのは、そういうたまたまの現われでしかないこの世の
 肉体や身分やらの差別相に拘泥する心のあり方こそが、
 ない差別をあることにしてしまっているのだということでしたのに。
 こんな当たり前のことに気づかない無知蒙昧なる衆生たちは、
 差別相を実相と信じ込んでは、性懲りもなくすったもんだを繰り返し、
 初めからないものを、ますますすることにしてしまっている。
 ああ色即是空、かくも簡単な真理が何故わからないのでしょう。
エス:いや君ね、いちばん困るものがそれだってこと。
釈迦: あるものをない、ないものをあると言うから易しいが、
 ないものをないという、そしてそれをわからせる、これが実に難しい。
ソクラテス: うふふ。
エス: 何がうふふですか。ほんとうにズルイんだから。
 確かに、執拗な問答という君の戦略こそ、先手必勝だったのかもしれない。
 十字架か毒人参かは対した違いじゃない。
 いずれにしても世間というものは、わからないものが怖いものだよ。
 しかし、君、言い出したものの仕方がない。もはや断言あるのみだ。
 然り、然り、否、否、であるべきだ。私が言った「神の御心を行う者は、誰も私の兄弟である。」
釈迦:それ言ったのが悪かったようですな。
エス: おや、それなら君だってかなりなものだぜ。
 「一切衆生悉有仏性」、言わずもがなだ。しかしね、それを聞いた弟子たちが、
 すかさず付け足すんだ、「一部除く」と。お陰で後世、あれは何を指すんだ、
 女人か、はたまた賎民とかの詮索が絶えないじゃないか。知ってるかい、
 部落の中でも女が差別されているとか、女の中でも部落を差別するのがおるとか、
 互いにせめぎあっているとか。
釈迦: あ〜あ、やだやだ。
ソクラテス: しかし、その点なら、君だって一言多かったんじゃないの。
 「ただし、この言葉を受ける力のある者のみ受けよ」だろ。
 受けられるのは俺だけだ、異教徒他宗派にはわかるまいって、連ちゅうやってるぜ。
 「汝の敵を愛せよ」って言われりゃさ、ない敵もあることになっちゃうことだしね。
エス: 言わなきゃよかったよ。

    −−−
    解)まだまだ、面白会話が続くので、次回に回すとして、
     三人の会話を通して、宗教の好い加減さを鋭く突いている。
     道理からすれば、神は大自然の計らいを抽象化した呼び名でしかない。
     知識を持ってしまった人間が、その知識ゆえに苦しまなければならなくなった、
     その対処として発明した?の呼び名が神である。
     それぞれの解釈があろうが、毒とも薬にもなる神?という発明なるものに、
     人類は多くのエネルギーを注いできた。そして多くが救われ、反対に多くの犠牲を払ってきた。
     どうしようもない人間の業を、どこかで統制しなければならないのだから、
     必要善、かつ必要悪、としての共通の価値観、規範が必要なのである。
     
     確かに差別という大問題が、我われ一人一人の前に突きつけられる。
     聖書はマタイの創作のオトギ話である。
     しかし、そのオトギ話が真実の道理なら、奇跡などが事実かどうかは
     問題にしなくてよいだろう。38歳で亡くなったといわれる、キリストが果たして何処まで
     人の苦しみを分かっていたかは疑問であるが、救い主は疑問の対象にしないものである。
     人間たる所以は「言葉」と「道具」を持っているためだ。
     そして「言葉」がつくり上げた最たる精神の「道具」が神なら、
     それも人間の遺伝子として、認めることも必要かもしれない。
     「神よ!罪ある子羊を救いたまえ」と。
                         (~▽~*)/ グッバイ!
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