つれづれに

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あと9日で「平成」が終わる。この30年でネット社会が
現実社会を覆ってしまい。現実社会を変えようとしている。
便利だが、少しでも隙を見せられない情報社会。



・・・・・・
4786,自分の頭で考えるための哲学講義
2014年04月22日(火)
         「道徳」を疑え! ~自分の頭で考えるための哲学講義~
  * 価値教育とは?
 20歳から30歳までは、変化の連続になる。社会人、結婚、早ければ父親、
と、色いろと変化をしていく。そして、年々、就職先、結婚相手の選定など、
人生を大きく左右する決断が突きつけられる。その中で、大きは危機が
体質の変化時の24歳頃にやってくる。それが人生の大きな分岐点になる。
ここで悩み、基礎を固めておかないと、長い実社会の中で、大きな落とし穴
に落ち込んでしまう。精神的には鬱病、分裂症など。社会的には突然の失業
とか大病とか・・ そこで直面するのが、人生の意味と、価値感である。
その辺りを「アメリカ道徳教育からわかること」の小項目で取り上げている。
   ーまずは、その辺りを抜粋するー
《 価値教育とは、子どもの全人的尊重と、その自主的な全人的な働きによる
 価値の明確化を援助する方式をとる。従って確定した知識を権威として教師
中心に教え込む指導方式とは根本的に違う。・・ アメリカの教育学には、
二つの大きな流れとして本質主義進歩主義がある。
・前者は、歴史の試練に耐えてきた文化遺産の教育的価値を重視し、学校には
それを次世代に伝達するという、社会から依託された任務があることを強調
するのに対して、
・後者は、子どもの興味・関心・成長欲求を受けとめ、自発性・主体性を尊重
して活動意欲を引き出すことを重視する」と。 そして、本質主義に基づき
価値の伝達に主眼を置く教育が、価値の押しつけにすぎないとして批判される
につれ、進歩主義に基づいて子どもの価値表現や価値判断を重視する教育が
主張されるようになったといいます。そして現在では、両者の統合が課題に
なっているそうです。私が注目したいのは、もちろん後者です。
つまり、子どもたちの価値判断を重視する進歩主義的な教育です。たとえば、
ラス、ハーミン、サイモンらが『道徳教育の革新』のなかで主張した
「価値の明確化」という概念があります。彼らは、すべての人が同じ価値観
をもつことはないという前提のもと、それぞれの人が自分なりの価値観を
確立する手法を明確化しようとしました。 それが次の7つのステップです。
選択すること:①自由に選択する ②複数の選択肢の中から選択する、
     ③各々の選択肢の結果についての十分な考慮の後で選択すること
尊重すること:④尊重し、大切にする、⑤肯定すること、
行為すること:⑥選択に基づいて行為すること、⑦繰り返すこと。
 これらの七つを満たしたものを「価値」と呼ぶそうです。 》
▼ アメリカ的価値観が、そのまま現れ出ている。「神の前で、それぞれが
 経典に従い、自主独立で、前向きに生きなさい」という事だが、更にマトメル
と、【自由に、複数の選択肢の中で、充分考慮した上に、大切に、肯定的に、
選択した行為を、繰り返すこと、を満たしたのが『価値』】ということになる。 
価値観は、それぞれの年齢で変転していくため、人生は、何時も学び続け
なければならないことになる。まずは両親など家族からの価値観から脱皮する
には、この7つのステップは有効にはたらくだろう! そのためには、教養が
必要条件になる!三年前の【3679, 自己を見つめる-6 2011年04月22日
「自己を見つめる 」渡邊二郎 (著) 】が、続きになる!


・・・・・・
3679, 自己を見つめる -6
2011年04月22日(金)
        「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
自己を見つめる、その自己とは? そもそも何だろうか? その自己は「少なくとも、この世で、自己と
して瞬時の光芒を放って輝いた」のである。 この世に表れでたのは、その存在理由があったのである。
 ー 第五章 自己 ー
【 およそ、あらゆる芸術家、学者、政治家、実業家などの、人類社会に貢献した人々はみな、その生涯に
 おいて、自己決定の稀な瞬間を生きとおして、それぞれ個性ある一生を築いて、この世を去った。もちろん、
そうした際立った、選り抜きの人々以外でも、考え直してみれば、あらゆる人間がみな、それぞれなりに
自己の人生と運命を生き抜き、そのかけがえのない人生の軌跡を描いて、自己の人生を全うしようとして、
一生を走りとおしたと見なければならない。
 むろん、この世の人生においては、不運や事故、挫折や失敗が付き物であり、多くの人々は、志半ばで、
不幸のうちで倒れ、意に満たない、悲運のなかで一生を終えた。けれども、人間はすべて、最後には、
自分らしい生き方を、運命として肯定しながら、この世に別れを告げる覚悟で人生を生きるものである。
そこに、ほかならぬ、掛け替えない当の自己自身の人生が、一回限りの形で生起し、代りの不可能な、
それなりの個性と必然性をもったものとして刻まれ、こうして、永遠の闇から闇へかき消え、あるいは
不減の魂のなかに久遠の記憶として残され、少なくとも、この世で、自己として瞬時の光芒を放って
輝いたのである。】
【 大切なのは、人間の存在の必要条件と十分条件とを峻別することにある、と。人間が生物としての
 機能を果たして生きるということは、人間の存在の必要条件を満たして生きるということにほかならない。 
また、人間が社会的存在として、なんらかの環境や境遇のなかに置かれて生存を営むということも、
人間の存在の必要条件を満たして生きるということのうちに入る。けれども、それだけでは、真に人間的
な自己自身として生きるということの十分条件が満たされたということにはならない。衣食住の欲求を
満たし、胃腸や呼吸が正常に機能し、なんらかの社会的環境のなかに置かれて生きるということならば、
誰もがやっていることである。むろん、そこに、胃腸の丈夫な人とそうでない人、あるいは比較的恵まれた
 環境に生きる人とそうでない人との差異はあるであろう。けれども、そうした所与の心身の資質や社会的
環境のなかにただ置き入れられて、それにまったく受動的となり、なんら奮起することがないのならば、
その人は、ほんとうには、まだ自己自身に目覚めてはいないと言わなければならない。 】
 ― 自己の存在の十分条件を満たしたかどうか、それも充分かどうか、それぞれあろう。
   それは個性を発揮できたか、どうか。

・・・・・・
4045, 末っ子はつらい ー3
2012年04月22日(日)
 私は10人家族の末っ子。 家が商家だったので誰も自分のことで手一杯、
互いのプライベートを見せないのが暗黙のルール。4~10歳までは1Fが店舗、
2Fが倉庫と事務所、3Fが住居、4Fには住込みの女子従業員7~8人が住む。 
食事は、何時も従業員と一緒。 小学校5年になって、7~8分離れたところに
住居部分が移動した。雑然とした商家では独りで遊ぶしかなかった。末っ子は
親の目が行き届かない分、姉や兄の虐めから自らを守らなければならなく、常に
周囲の顔色を窺がう性格になっていた。特に父親が店と家族と親戚を束ねていた
絶対的存在で、父に媚びるのが効果的であるのを知っていた。そのため?末っ子
の私に甘かった。数年前、新幹線の乗客の会話で、「私は多人数兄弟の末っ子で、
常に親や兄弟から許されてきた。それが今でも直らず、失敗をしても許される
だろうという思い込みの性格が身について、大きな壁になっている」というのを
聞いて、「まさに自分そのもの!」と、驚いたことがあった。家族間では絶対に
互いの陰口はタブーで、兄や姉が他人の噂話をしたのを殆んど聞いたことがない。 
児童心理学では、家族は5人以上が必要という。一人っ子は同年代の心の内を知る
機会が少なく、孤独になりがちになる。 さらに親のかまい過ぎと、兄弟がいない
ため自己中心になってしまう。 家族の立ち位置で、性格が形成されるのは自然
の摂理。数年先が、それぞれの姉、兄の姿から見え、学ぶことが多い。
7歳年上の姉が勉強の仕方とか、自分の夢をイメージ化する重要性などを、
節目ごとに教えてくれた。ある意味で、一番、世話になった人である。末っ子は、
末っ子の欠点と利点がある。冷静にみて、やはり大家族は利点が多い。  
両親の要素もあるが。
  * 末っ子はつらい ー2 2002/05/08
 末っ子は辛いと、姉が聞いたら、「なにをいっているか!」と怒鳴られそうだ。
「両親に、兄姉にみんなに可愛がられて!」と。確かにそうだ。特に両親にとって、
ペットみたいな存在で、亡くなる時もしかり、傍にいた。そして遺言も財産に
関しても、不利にならないようにして亡くなった。 家は両親が死ぬまで常に
お手伝いがいて何時もチヤホヤされてきた。末っ子の特権を充分享受した。 
それと大家族は逆に孤独に強くなる。一人でいつも遊んでいた。後年になって
長姉がいうには、いつも一人で三輪車で遊んでいたとか。今も一人遊びが好きだ。
ノイローゼになる人は一人遊びの出来ない人。 幼児期・少年期は事業の立ち
上げ時で非常に刺激的な環境。 そういう意味で「三つ子の魂百までも」である。
それぞれの性格はその時代の背景と、血液型と家族関係と両親の年齢などによって、
微妙に変わってくる。 長男には長男の立場、末娘ならその立場で決まってくる。 
すぐ上の兄は、私の影的存在で?大人しい性格。「積み木崩し」というタレント
手記があった。長女、次女の次に男が生まれると、その次女がひねて非行に走る
ケースが多いという。  兄妹の立ち位置で、性格が決められる。
  * 末っ子はつらい ー1 2002/05/07
 8人兄弟の末っ子である立場の自分を書いてみる。少年期まで、末っ子は
上からの虐めがきつい。特にすぐ上の兄のそれがきつい。常に気を張って
いなくてはならないのがその宿命。食事も早く食べないと食べ分がなくなる為、
早食いが癖になっていた。多くの兄弟で育った末っ子は社長に向いているそうだ。 
他人の気持ちを読む習性が、それに向くのだろう。それと結婚の相手は長女が
いいとも最近聞いた。たまたま家内がそうだった。そういえば過去に惹かれた
女性は長女で、A 型で、おっとりタイプが多かった。また末っ子は口が堅くなく
てはならない。立場上、それぞれの兄姉の秘密を知る機会が多い。しかし万一
告げ口をしたら、袋たたきにあってしまう。家族はまず出会う初めての社会。

・・・・・・・
3314, 聞きしに勝る3D/TV
2010年04月22日(木)
 最近、昼飯は外食を週一にして、サンドイッチを通勤途中に買ってきて食べているが、昨日は、新潟駅
の中華店でランチ。その後、ジュンク堂書店に向かう途中、ビックカメラの前を歩いていると、話題の
3D/TVが店頭にあった。昨日の新聞で一部の店舗でデモ展示を始めた記事を読んだ直後だった。
ところで、現在のTVは7年半になるパイオニアの50インチのプラズマ。当たり外れの、当たり。
しかし、地デジには特殊のマシーンを入れなければならないので、替えときにきている。先週の土・日に
家電を見て周り、一度頭を冷やした今週末に、シャープの60インチのLED・TVを発注と決めていたが、
「3D/TVが700万台の新規需要の創造」とかいう週刊誌の広告が気になっていた。 そこで早速、
見たところ、その決心を覆すほどの画面。映画のアバターを3Dでみて驚いたが、TVは大したことは
ないと思っていた。 ところが実際は映画より良い。映画もそうだが、画面と自分の間に空間ができ、
更に画面の奥行きができたイメージで立体感を出している。デモ用の3D/TVはメガネが固定してある
ので、メガネをした時と、しないで見たときの差が比べることが容易。そこで、比べた結果は格段の違い。 
これで大相撲や野球を見たら、迫力は数倍は違ってくる。デモ用のソフトは石川遼のゴルフだった。 
なるほど週刊誌の見出しの「新規700万台の市場の創造」の意味が分かった。 
 十数年前に初めてハイビジョンが店頭に出たとき、ソニーの画像を見たときの驚きと同じである。その
時は、暗い舞台にバレリーナーが白鳥の湖を踊っていたが、立体的な画面に感動したことを憶えている。
それまでのTVとハイビジョンTVの格差と、3Dの映像の差は同じ位はある。数年後には多くの
3D番組が出るだろう。急遽、買い替えは数ヶ月待ってから、3D/TVにすることにした。 
ますます、お宅か! 21世紀とは、ツイッター、3D/TVにしろ、iPadにしろ、こういう時代
だったのか! 驚きの連続である。「明治は遠く、なりにけり」から「昭和は遠く、なりにけり」か~。
  ・・・・・・・・・
2939,マネー資本主義“暴走
2009年04月22日(水)
4月19日(日)の 午後9時00分から 総合テレビで
「マネー資本主義 第1回“暴走”はなぜ止められなかったのかーアメリ投資銀行の興亡ー」が面白い。
  *まずはーNHKのHPの番組紹介からー
【 金融危機はなぜ起きたのか。巨大マネーはどのように膨張していったのか。
 マネー資本主義の主役として批判の的となっているのが、リーマンショックを起こした
当事者でもある「投資銀行」。
     (中間カット 字数の関係で 2011年4月22日)
  ――
 非常にシニカルな内容であった。 一番のターニング・ポイントは、ソロモン・ブラザーズが債券市場で、
次々と新手の金融商品を編み出し、利益を生み出した時に、若いトレーダー数人がトップと利益に見合った
収入確保を要求。「もし通らなければ 他社のスカウトで移動する」と談判したことから始る。当初は
拒否をしようとしたが、ノウハウごと他社に持っていかれることを恐れ歩合制度を認めた。このことで
他社も、こぞって同じ制度を取り入れた。それが「超レバレッジ」など、バブル経済を大きく膨張させる
起爆となったのである。デモ隊が、そのトップたちが高級車から出てくるところを待ちかまえ、罵倒する
映像は何ともいえないアメリカの現在の姿を現していた。次から次へと、アメリカのマネー投資の暴走の
実態が暴かれているが、記事が映像として写しだされるのも生々しくリアルである。ところで日本の
証券会社は手を染めてなかったのか? 答えは簡単、染めてないわけない! 銀行は?毒餃子
冷蔵庫の奥に隠されてないの? ???
 ・・・・・・・
2575, フロー体験 ー1
2008年04月22日(火)
 先日「好き」という言葉を取り上げた。好きな状態、好きなことをしていると時間を忘れ、あっと
いう間に時間が過ぎ去ってしまう。最適経験をしている状態をチクセントミハイは「フロー」と呼んだ。 
好きなことをしていれば創造的になる。だから一流の人は「好き」になるまで、対象に集中する。
その為には、成功体験の味を知らなければならない。当たり前のことといえば当たり前のことだが。
一流の人の持っている雰囲気は、フローが滲み出ている空気をいう。
 ーー
 面白そうなところを、まずは抜粋してみる。
  「フロー体験 ー喜びの現象学」 ミハイ.チクセントミハイ
「なぜ幸福になるのはこんなに難しいのか?」 「人生の意味は?」人はみなこの大問題に思いを巡らす。
あえて答えを示す者は多くはないし、それだけの素養のある者はさらに少ない。著者のミハイ.チクセント
ミハイは、最初の問いに答えることに全力で挑んだ結果、それが第二の問いと切り離して考えることは
できないことを見出した。
(字数制限のためカット 2010年4月22日)
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2007年04月22日(日)
2210, 帰ってきたソクラテス ー1         (*^_^*)I おはよう!
 あのソクラテスを甦し、政治家、学者、評論家、老人福祉係、元左翼、人権擁護団体、イエスに釈迦
まで登場。プラトンの『ソクラテスの弁明』の問答形式で、彼らと対話をしながら、尊厳死から性教育
まで身近な難問に大哲人が挑み、知の広場へと誘っている。哲学とは自分の頭で考えることだが、
それを具体的に示してくれた内容である。池田晶子の本は、もう10数冊以上は読んでいるが、読めば
読むほど面白い。初めは面白くない本を買ってしまったと後悔をしたが、じっくり読むほどに間違い
だと気がついた。面白い順にランダムに取り上げてみる。まずは、イエスと釈迦とソクラテスの対話
が面白い。三人の対話の架空の対話の中から、一神教と仏教と哲学の考えの違いを面白く浮き立たせて
いるところが良い。
     ーーー
=死後にも差別があるなら救いだ=
 ー登場人物ーソクラテス、イエス、釈迦ー
                        ーP・215ー
ソクラテス:「彼と我々」って気持ちの持ち方が、この世の差別の始まりであって、
 けしからんことなのだそうだから。
エス: 全然違う話だぜ。
ソクラテス:付き合いのよさこそが、君らの身上ってもんだろう。ここは一つ、
 有り難い御法話と御説教といこうじゃないか。
釈迦:付き合いということなら、あなたは我々の比じゃないでしょう。あなたは実によく付き合う。
 ものぐさなんて、何をおっしゃる。教祖というものは決して付き合わないものなのです。付き合わ
 ないからこそ教祖は教祖になるのです。差別はすなわちシャベツとは、本来仏教の言葉なのです。
 たまたま厳しい身分社会の制度が人人を苦しめていた世の中に、万物平等、一切衆生悉有
 仏性を私が説いた。たまたま王子であった私が、その位を捨ててそうした。
 それで、私は画期的に偉いということになっているのでございますよ。
エス:メクラを治し、いざりを癒し、売春婦を赦したから私はえらいことになっている。
 馬鹿やろうだな!
釈迦:私が申しましたのは、そういうたまたまの現われでしかないこの世の肉体や身分やらの
 差別相に拘泥する心のあり方こそが、ない差別をあることにしてしまっているのだ ということ
 でしたのに。こんな当たり前のことに気づかない無知蒙昧なる衆生たちは、差別相を実相と
 信じ込んでは、性懲りもなくすったもんだを繰り返し、初めからないものを、ますますする
 ことにしてしまっている。ああ色即是空、かくも簡単な真理が何故わからないのでしょう。
エス:いや君ね、いちばん困るものがそれだってこと。
釈迦: あるものをない、ないものをあると言うから易しいが、ないものをないという、それを
 わからせる、これが実に難しい。
ソクラテス: うふふ。
エス: 何がうふふですか。ほんとうにズルイんだから。確かに、執拗な問答という君の戦略こそ、
 先手必勝だったのかもしれない。十字架か毒人参かは対した違いじゃない。いずれにしても世間と
 いうものは、わからないものが怖いものだよ。 しかし、君、言い出したものの仕方がない。
 もはや断言あるのみだ。然り、然り、否、否、であるべきだ。私が言った「神の御心を行う者は、
 誰も私の兄弟である。」
釈迦:それ言ったのが悪かったようですな。
エス: おや、それなら君だってかなりなものだぜ。「一切衆生悉有仏性」、言わずもがなだ。
 しかしね、それを聞いた弟子たちが、すかさず付け足すんだ、「一部除く」と。お陰で後世、あれは
 何を指すんだ、女人か、はたまた賎民とかの詮索が絶えないじゃないか。知ってるかい、部落の中
 でも女が差別されているとか、 女の中でも部落を差別するのがおるとか、互いにせめぎあって
 いるとか。
    (カット 字数の関係で 2011年4月22日)
 ーーーーーーー
2006年04月22日(土)
1845, あちら側の世界 ー10
             おっ w(゚Д゚)w ハァョ?
ー狭い世界,6次の隔たりウェブ進化論」の中に「6次の隔たり」について書いてあった。
 「地球上の任意の二人を選んだとき、その二人は、6人以内の人間関係に結ばれている」というもの。 
 早速、グーグルの検索で調べてみた。
ー以下は、その中の一つのコピーであるー
6人の知人の連鎖を介せば世界中のどんな人にもたどり着けるという理論。もとは心理学者 Stanley Milgram
博士が唱えた、"米国民全員は、6人程度の知人の連鎖を介してつながっているという"説。 これから,
ネットワーク効果という科学分野が生まれた。イェール大学の故 Stanley Milgram 博士(社会学者)が
1967年に行なった実験から生まれた。博士は全米から無作為に選んだ300人に対し,彼らが直接知らない受取人
に重要な手紙を送るよう指示。送り主に人々には,受取人のおおまかな居場所や職業といった手がかりが
与えられ,彼らはそをもとに,目当ての受取人に「より近い」かもしれないと思われる誰かに手紙を転送
するよう指示され,最終的な受取人に手紙が届くまで,これが繰り返された。この結果を Milgram 博士は
サイコロジー・トゥデイ誌に発表,
(以下字数の関係でカット2008・40・22)
・・・・・・
2005年04月22日(金)
 480, 桜咲くーつれづれに
昨日か今日あたりが長岡の平地では満開であり、もう散りかけてもきている所もある。近くの山は大よそ
一週間おくれになる。何でも咲きがけか蕾のころがよいものだ。満開で散りかけも良いが、何か心さびしい
ものがある。近くに福島江という桜の名所があり、この時期の楽しみになっている。車で10分ほどの
悠久山の桜も良い。特に豪雪の年は良い桜が咲く。家内は如何いうわけか桜が好きでない。「どうして?」
と聞いても解らないと言う。「すぐ散るからじゃないか」と言ったら「恐らくそうじゃない」と答えた。
私は、すぐ散るから気にいっているのだが。10年に一度位は大当たりになる。悠久山などで早朝に見ると、
思わず息を呑むような神秘的な光景を目にすることが何度かあった。一瞬の艶めかしい雰囲気が漂っている。
全国的にみたら、無数に名所があるのだろう。サロンに、時々訪ねてくれる井上さんの桜の写真も楽しみだ。
現場で見る桜は、写真では表現できない濃艶な妖精が無数に漂っているのだろう。
先日の日経新聞の最後のページの「文化欄」に作家の山本一力氏が、吹かずともと言う文章を書いていた。
桜の花と、人の引退時を重ねて書いていた。 ー引き時に迷ったら、桜に教わればよいー
今週の長岡は、桜の週である。 庭の梅の花も散り始めてきた。
近くの川に鴨の姿がチラホラ見えてきた。本格的な散歩が、この時期から始まる。
・・・・・・・・
2004年04月22日(木)
1115, 中年期の「八つの危機」
 思春期妄想症、青年期神経症をやっと乗り越えて、中年期から老年期になると一番恐ろしい中年期の危機
が大きく口を開いて待っている。中年から老年に向かっている身にとって一つ間違えれば、とんでもない
危機に陥ってしまう年齢になってきた。アルフォンス・デーケンは、この中年期の危機を「八つの危機」
にまとめている。バランスを崩せば、何時でもこの鬱の世界に転げ落ちてしまう。この「危機」に対して、
上手に対応することが必要になってくる。以下は、アルフォンス・デーケンの本に書いてあった内容。
いくつかは誰もが心の奥で感じたことであろう。どういうわけか私の場合、ほとんどない?? 
常にコントロールしてきた為だろうが。今まではそうであったが、今後は解らないのが人生というものだ。
このすべてを背負って、万年鬱になり自殺未遂を繰り返している人がいるが、ある日突然、
こころの芯棒が折れてしまって、この幾つかの穴にはまり込まないとは限らないことばかりである。
   ーその一部をまとめて抜粋をしてみるー
「気がついたら人生の折り返し地点を過ぎてしまった・・・」「仕事がサッパリ面白くない」
「同僚と付き合うのが億劫だし、妻や子供との時間が楽しくない」「何の為に生きているかわからない」
「ちょっとしたことでも、くよくよ考え込んでしまう」「若い頃のように、やる気が出てこない」
「上司や同期の葬式に出ることが多くなったな・・・」「コメディ映画をみても、素直に笑えないよ」
よく聞くぼやきであるし、身に覚えのあることである。以上のことは中年期に忍び寄ってくる特有な
「八つの危機」の典型的な現れである。それぞれを説明してみると--以下は字数の関係上カットしました。
 後は、HPの同日分を開いて見てください。(2008年04・22)
・・・・・・・
2003年04月22日(火)
748, 思い込み
 中学の頃、血液検査でB型といわれて30年経った10数年前に、自分が実はA型ということが解った。
その時の驚きは天地が引っくり返る位であった。「自分はB型で、その性格は努力型で、独創型のマイウエー
タイプ! 部下や友人にはO型が適正、女性はA型が(^_-)-☆?大好き!男の相性の悪いタイプはAとAB型
と信じて生きてきたのに!」 そのA型が自分自身だと!!「今まで信じてきたことは何じゃい、これは!」
が、その時の実感である。逆に考えてみると、条件を設定をして、その中でパーツをたてればいろいろな
自分を創れるということだ! 暗示をかければ、その通りになってしまう実例でもある。それにしても、
こんなバカみたいな事が実際にあるのだ。実の親と思っていたが、実は違っていたという感じである。
面白いものでBの対極のA型といわれてみると、自分は本来はA型タイプに思えてくるから面白く、かつ
単純なものである。それからはA型類型の性格の自己暗示にいつの間にかかかっている? 金沢の会社
にいたころ、誰かの手術で緊急に寮生のA型が集められた。全く自分とは正反対な性格の連中であった。
その時やはり血液型は性格形成の基礎になっているのだと実感したのに、あれは何だったのだ? 
人間なんてものは全て言葉による刷り込みを、言葉によって剥がしていく動物でしかないのだろう。
そこに不条理が発生してくるのだ。イスラム教とキリスト教の対立も、その思い込み?が起因している!
宗教ー経典は刷り込みの典型である。地方にいれば地方の、都会にいれば都会の思い込みがそれにあたる。
思い込んでるのが愚か者、それを冷笑しているのがバカ、というのが何かに書いてあった。
・・・・・・・・
2002年04月22日(月)
384, 我が内なる無能性?2
 以前も「我が内なる無能性?後まわし」という題で書いたが、その続編。そういう人が反面教師として
多くいる。といってそれを云うだけの資格があるのかといわれれば、ない。それでも書き出してみる。
・自己責任がない ーーー人のせいにする。全て人が悪い、よく言うよという位人のせいにする。
 その点で狡猾そのものだ、その芸術家だ。誰もがその要素を持っているから書いては駄目なことだが。 
 人間それほど強いものでない。
・過去の記憶だけは、よーく憶えている、特にマイナスの記憶を。その壁を自分の周りに作り上げ、
 その中から出れない状態。 芥川龍之介の「山椒魚」はこれを揶揄したのだろう。
・本を読まない、人の話しを聞かない、変化を嫌う、議論をしないーいや出来ない。
・長期的視点ーグランドデザインが全くない。ー人生でも、家族の事でも、仕事でも。
 したがって準備という意味が解らない。
・人の付きあいが小さい枠。 両親の呪縛から抜け出る事が出来ないーとっくに死んで
 しまっていても。
・人の欠点を探す事で、凝視する事で自分の影をカバーしようとする。考えてみたら、大部分の人が
 ほぼこれに当たる。もちろん私もである。少し濃いか薄いかの差でしかない。それを「子狐」という
 象徴でその無能性を書いている。時々「子狐」とあったら、上記の象徴と思ってほしい。