2006年04月21日(金)
1844, ローマから日本が見える−4
             ォ'`ョ━━(。・∀・)ノ゙━━ゥ★
第二章 かくしてローマは誕生した。

 以下は、ウィキペデェア百科辞書から「ローマ誕生」について抜粋したものだ。
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ー建国伝承ー

 狼の乳を吸うロムルスとレムスの像ローマ建国までの伝説は、次のようになっている。
    トロイア戦争で敗走したトロイ人の末裔(アエネイアスの息子アスカニウス)が、
    イタリア半島に住みついた。この都市をアルバ・ロンガという。
    時代がくだり、王の息子アムリウスは兄ヌミトルから王位を簒奪する。
    ヌミトルの男子は殺され、娘レア・シルウィアは処女が義務付けられたウェスタの巫女とされる。
ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マルスが降りてきて彼女と交わった。
シルウィアは双子を産み落とすが、怒った叔父の王は双子を川に流した。
双子は狼に、その後羊飼いに育てられ、ロムルスとレムスと名づけられた。
成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して大叔父を討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力する。

    兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとする。
    しかし兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺される。この丘に築かれた都市がローマであった。

ー王政ローマの制度ー

初代ロムルス王以来、多くの一族を抱える有力者は「貴族(パトリキ)」
として終身の「元老院」を構成させ、王の「助言機関」とした。
人類の社会史上ローマにのみ見られる特徴として、他国から一族郎党を引き連れて移民してきた者や、
戦争で破った敵国の有力者も一族ごとローマに強制移住させ、
代表者を元老院議員にすることで味方に取り込み勢力基盤とした。

    これは、エトルリア人都市国家やアルバ・ロンガなどのラテン族都市国家に囲まれた
    小さな「寒村」ほどの規模から出発した新生ローマでは、最大・喫緊の課題は「人口増加策」
    であり、人口が増えないことには、自衛のための兵力すら維持できないからであった。

さらに、奴隷や一時居住者以外のこれら自由市民は「ローマ市民」として
王の選出を含む国家最高議決機関である民会で投票する権利を与えられた。
もっとも、この市民による王の選出は共和政期に共和政の歴史を古くに求めるために
作られた伝説とする説もある。

    ローマ建国の王であったロムルスも治世の途中で、この民会の選挙で選出
   (この場合信任)され、改めて選挙で選ばれた王となった。
    王の任期は終身。しかし原則として世襲制はとらない。
    王の最大の責務はローマの防衛であり、そのため自由市民が「輪番」で
    兵役を勤めるローマ軍全軍の指揮を担当した。
   (全軍とはいっても草創当時は2,000名程度であったと推測される)
                  (。・・)_且~~ お茶どうぞ
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以上だが、面白いのはロムスルは王になっても権力を独占しようとしなかったことだ。
彼は国政を、王、元老院、市民集会の三本柱で支えるという制度を定めた。
ローマの王は市民全員が参加する市民集会での投票で決められる。
王は終身制であったが、他国と違って王の子孫や血縁者が自動的に王になるのではない。
あくまでもローマ市民の同意がなければいけないということにした。
さらに、市民集会は王の政策に承認を与えるという権能も持っていた。

    このように王の権利はかなり制限されたものになっていた。
    その王の政策の助言として元老院が創設された。
    現代の民主政体では国家権力を司法、行政、立法の三権にわけ、
    それらがお互いにチェックしあうことで、権力の暴走を防ごうとしている。
    ローマの制度は現代式の民主制度ではないにしても、
    国家権力の三分割という点で似ている。

形式上は王政であっても、その王は市民集会によって選出されるので、
ローマ市民の意識は「王の国」ではなくて「我らが国」であった。
だからこそ、彼らは戦争の連続にも耐えられたし,戦意も衰えなかった。
現在の日本より政治体制と大して変わりはないでないか?
いや、皇族ー王政が選挙という面でローマのほうが?
人間性という面で、千年経っても変わっていない?
              ー つづく
                    ☆~~ヾ・ェ・)o尸~ マタネ~♪
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