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2007年04月21日(土)
2209, 反時代的毒虫 −4
U(^(ェ)^)U おはようございます! ー読書日記ー
「反時代的毒虫」ー河野多恵子、奥本大三郎との対談ー
『人の悲しみと言葉の命』から
P-153
奥本:お金を恥ずかしがったり、汚がったりするのは、日本独特のことじゃありませんかね。
河野 やっぱり武家社会の影響だと思います。武家社会はお米が給料でしょう。
奥野:武家の負け惜しみ。
河野:武家は、一種の俸給生活者。それでお米をお金に替えたりするわけだけど。
お金というものに縁遠かった。
奥野:商人階級を特に分離して、それを卑しめる。しかも時代とともに苦しくなって、
それに頭を下げなければならない悔しさ。 そこから不浄感が余計に出てきた。
P-156
車谷:「お金がないということが生きることの原動力になっている人と、
それが無気力を呼び込んでしまっている人と、ふた通りありましたね。
前者はなりふりをかまわず、金さえあればっていう考えで生きている。
そういう人たちの顔色は溌剌としていた。ニヒリズムというか、
絶望感というか、そういうものをはっきり意識していた。」
車谷:「(無気力組のほう)つまり金がないということの行き着く先は、
浮浪者というかホームレスという形になっていくと思いますね。
比喩的な意味では、この世での居場所を失うということです。
じゃあ気力がある人はどうなるかと言ったら、
ドストエフスキーの『罪と罰』みたいに人を殺すんです。
ラスコーリニコフみたいに人を殺すとか強盗に入るとか」
奥本:「気力はあるが、判断力がないんじゃない。」
車谷:「判断力のある人は、だいたい水商売に行くんです。
なぜ水商売に行くかといったら、この日本社会では保証人になって
くれる人がない限り、水商売以外では、暮らしていけないからです
私も多分にもれずに、水商売を、9年もやった。
水商売の場合は、タコ部屋というのが用意されていますから。
そこでともかくねどまりをする。 だからそれは判断力のある人。
P-184
車谷;大江健三郎さんは、上品というようなことをいいます。
人間の中の叡智の部分を信じたいということでしょう。
しかし人の偉さは限りがあるけれど、人の愚かさは底なしの沼です。
僕は人間の本質は相当にタチが悪いものだと思うんです。業が深いというか。
文学の原質は、世俗の中の下品な、血みどろの欲望の渦巻く、
煩脳や迷いが流れ出るようなものだと思うんです。
なりふりをかまわないとか、場合によれば人を殺してしまうというか、
そういう世界が流出するのが文学だと思います。
東京の山の手文化というのが、生身の欲望にひと皮きれいなベールを被せたような文化ですね。
ところが、ひと皮めくると、たちの悪い生身の色と欲、迷いがあるわけでしょう。
奥本:その山の手文化の不思議な気取りみたいなもの、腰の弱さ、底の浅さ、
あれが純文学の世界にもあるんだろうと思うんですけれども、ウソがあるんですよ。
そのウソが安っぽいスノビズムみたいな形で西洋文化の理解のほうへ行ったり
上品さを装ったり、いい面もあるんだけれども、やっぱりウソはウソなんです。
車谷:窓辺に花が飾ってあるのを見ると、いつもそれを思う、うその生活をしていると。
車谷:久米正雄が、昭和初年代に、この世のことは金で半分は片がつくって
行っていたらしいけれども、平成7年の今では、8~9割まで金で片付くような
世の中になりましたね。それは物事が金で買えるということですね。
物が買えるのはよいけれど、事が買えるということですね。・・・・
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解)
お金に関しては、ここで多く書いてきたが、また小説の中での
「金に関する扱い」もシビアで面白い。金と女(男)は、人間の煩悩の元である。
車谷の「人の偉さは限りがあるけれど、人の愚かさは底なしの沼です。
僕は人間の本質は相当にタチが悪いものだと思うんです。業が深いというか。
文学の原質は、世俗の中の下品な、血みどろの欲望の渦巻く、煩脳や迷いが
流れ出るようなものだと思うんです。」という言葉が深く染みる。
私自身も父親の影響を受けたため、金に関してシビアの方だ。
父は「人間の金に対する建前と本音」の乖離を冷たくみていた。
特にひ弱な教養人と自認している人間の、腰の弱さ、底の浅さ、
うそと安っぽさを見抜ききっていた。問題は、それを直視するかどうかである。
世の中は、やはり8割は金で解決できるのだろうか?まあ「猫に小判」という言葉もある!
馬鹿に金を持たせても、ただ見ているだけのヤツ多いね、ホント!
m(_ _)m 使い切るヤツよりいいか? どっち?
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