山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家である岩屋から外へ出てみようとしたのであるが、
 頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。 〜『山椒魚』本文より〜
  岩屋から出られなくなってしまった山椒魚が、孤独のあまり岩屋に迷い込んだ蛙を
  閉じ込めてしまうという、井伏鱒二の「山椒魚」を読んだときの衝撃が、今でも鮮明に残っている。

学生時代に読んだ時の私の解釈は、「岩屋」を自分のつくった固定観念と、因縁に縛られてしまった
現実(生活レベルの環境)ということであった。 
岩屋に入った後に、自分の体が大きくなり、その入り口から出れなくなった悲哀である。 
人生の縮図のようで、何か残酷にさえ思えたものだ。
身近な壮年・老人の一生が山椒魚に重なって見えたのである。
家業に縛られた長男、長女の立場も岩屋にたとえることが出来るが、
ただ誰もそのことにすら気づいてないのが、悲しいといえば悲しい!


しかし考えてみれば、全ての人が同じではないだろうか?
頭が大きくなりすぎて出れなくなったならよいが、腹?(中年太り、出来ちゃった婚の子供)が
大きくなって出れなくなって云々で一生、岩屋で過ごしてしまうのが人生だろう。
といって山椒魚が大河や大海をすいすい泳ぐこともない。
所詮は岩屋から出たり入ったりをしているので、同じことかもしれないが。
 その後人生を重ねて自分を振り返ると、自分も同じである。
  これを読んで、ピンとこないのは鈍い? 
 山椒魚の場合、岩屋に餌が紛れ込んでくるが、最近は岩屋には餌が激減しているようだが。
 
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