2007年04月09日(月)
2197, ファンタジー文学の世界へ −3
            ( ^3)〜♪ オハヨウゴザイマス!
 「ファンタジー文学の世界へ」  ー読書日記
 
     P-154 「さいはての島へ」(ゲド戦記?)
   ■目的と存在 −「ある人生とする人生」について

    第三巻は、壮年になったゲドが王子アレンとともに、世界の均衡を取り戻す旅に出る物語です。
    これから本格的に冒険が始まろうとする前夜、ゲドは、以下のようにアレンに語りかけます。

  「よくよく考えるんだぞ、アレン、大きな選択に迫られた時には。
   まだ若かった頃、わしは‘ある人生’と‘する人生’のどちらかを選ばなければ
   ならなくなった。わしはマスがハエに飛びつくように、ぱっと後者に飛びついた。
   だが、わしらは何をしても、その行為のいずれからも自由にはなりえないし、
   その行為の結果からも自由にはなりえないものだ。
   
   ひとつの行為が次の行為を生み、それが、またつぎを生む。
   そうなると、わしらは、ごくたまにしか今みたいな時間が持てなくなる。
   一つの行動と次の行動の間の隙間のような「する」ということをやめて、
   ただ、「ある」という、それだけでいられる時間、あるいは、
   自分とは結局のところ、何者なのだろうと考える時間をね。」

ここでの「ある人生」とは人間の存在を意味し、「する人生」とは
人生の目的を意味する。人間の全体性を哲学的に分析すれば、
この存在と目的という観点は重要な切り口である。
抜粋にあるとおり、若きゲドは「する人生」に飛びついたという。
目的は若者の特権としても、目的だけの人生には、常に、危ないものがつきまとう。

目的を持つことと、それを目指す行為とは一体のものだからである。
目的と行為の一体性には、何ら問題がないように無いように感じるかも知れない。
しかし、往々にして行為のみに追われだすと、行為という活動に実在感を得て、
何もしないことや、何もできないことが自分にとって否定的に感じてしまう。
とにかく「動く」ことのみ専心してしまいがちになる。
活動のみに追われて、その意味を考えることが鬱陶しくなってくる場合が多くなる。

   先の抜粋の中の『一つの行動と次の行動の間の隙間のような「する」
   ということをやめて、ただ、「ある」という、それだけでいられる時間、
   あるいは、自分とは結局のところ、何者なのだろうと考える時間』が
   大きな意味を持つ。この休止時間こそ最も大事な時間である。
   この時間の中で、一に戻って考えることこそ、個々人の心や魂と向き合うことになる。
   ・・・・・・・

 ゲドも、世界の危機を救うさまざまな冒険を成し遂げ、魔法学院の長である大賢人となるが、
本人はそれを喜ばない。 そして曰く
「わしのほうは、うむ、いろんなものになった。いちばん最後が、そして、
 おそらく、いちばんつまらないものが、この大賢人というやつだ」と。

河合隼雄が著書「生と死の接点」の冒頭「ライフサイクル」の中で、
 人生の「後半の問題」を解説する。ユングフロイトへの批判をして、
フロイトは人生の前半の問題(自我の確立といった言葉で表される)しか相手にしていない」としている。
「人生後半の問題とは、自分なりのコスモロジーを完成させることである。
 コスモロジーとは、この世に存在するすべてを、自分もそこに入れ込むことによって、
 ひとつの全体性へと作り上げることである。世界を対象化するのではなく、自分という存在との
 濃密な関係付けの中で、全体性を把握することである。本人のなんらかのパフォーマンスが要請される。」
 
 ・前半の問題とは、平たくいうと「生きるためにすること/壊すこと」、
 ・そして後半の問題とは「死ぬためにすること/創ること」である。
 若い時は攻撃的だったのが、人生の後半になると大人しくなる。
 前半は「する人生」、後半は「ある人生」に転換してしまう。
 
    ーーーー
   解)人生を振り返って一番重要と思えるのは、無駄と思えた『浪人』の時期である。
   一度、リセットをして一より考え、出直す時であった。
   その時は、無駄で意味がなく惨めで、辛く悲しいとしか思えない。
   しかし、その時ほど人生で一番大事なことをしていた時期であった。
   
   水平から、縦に立っているから、水平線の人からみたら無駄飯食にしか見えないし、
   当人も、仕方なく縦に立っているしかない。しかし、「する人生」を振り返り、
   「ある人生」の転換期でもある。水平の彼方の地平線が果たして幻覚かどうか、
   眼を据えて見るときである。
   
   「する」と「ある」という面では、ホテル業も似たところがある。
   立ち上げ(創業の時)という晴れの時と、日々の日銭で借金を返す倹約時(ケの時)と明確に分かれる。
   それをツマラナイとみるか、面白いとみるかは、性格によるだろう。

                 ホンジャ、バアアイ ♪♪((((*`・´))ノ ♪♪
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