ホモ・ルーデンス −1


ホモ・ルーデンス』 ヨハン・ホイジンガ(オランダの歴史家)
                    、1938年著。
 「文化は遊びとして、もしくは遊びから始まったのではない。
              言うならば、遊びの中で始まったのだ」
  ーすべては遊なりー
  ー文化は遊びの中にはじまるー
ホイジンガーの言いたいことは、この二つに尽きる。
 
まずは 
 −すべては遊びなりー(遊びの考察と定義とは) について考察してみよう。

ホイジンガの遊びに対する考察は、プラトンの言葉から始まる。
「真面目にすべきことは真面目にやり、真面目でなくてもよいことはそうしないでもよいのです。
 最高の真面目さを以て、事を行うだけの価値があるのは、ただ神に関する事柄だけなのです。
 これに対して、人間は、ただ神の遊戯の玩具になるように、というので創られた。
 これこそが、人間の部分です。だから人はみな、男も女もそういうあり方に従って、
 最も美しい遊戯を遊戯しながら、今ちょうど心に抱いているのとは正反対の考えで
 生きてゆかなければならない。(プラトン対話集『法律』)」

著者は、この真面目と遊びの対立において、
「真面目は遊びを閉め出そうと努めるが、遊びは喜んで真面目さを自己の中に抱き込むことが出来る」
と、遊びの優位性を説いている。
そして、遊びの定義として、
「遊びは自発的な行為もしくは業務であって、それはあるきちんと決まった時間と場所の限界の中で、
自ら進んで受け入れ、かつ絶対的に義務づけられた規則に従って遂行され、そのこと自体に目的をもち、
緊張と歓喜の感情に満たされ、しかも『ありきたりの生活』とは『違うものである』という意識を伴っている」
「遊びは人間がさまざまの事象の中に認めて言いあらわすことのできる性質のうち、
 最も高貴な二つの性質によって充たされている。リズムとハーモニーがそれである」

遊びの定義から、世俗に対して離れているという点で、「聖なるもの」と「遊なるもの」は同一であると。
最後の文章に
「人間的思考が精神のあらゆる価値を見渡し、自らの能力の輝かしさをためしてみると、必ずや常に、
 真面目な判断の底になお問題が残されているのを見出す。
 どんなに決定的判断を述べても、自分の意識の底では完全に結論づけられはしないことがわかっている。
 この判断の揺らぎ出す限界点において、絶対的真面目さの信念は破れ去る。
 古くからの『すべては空なり』に代わって、おそらく少し積極的な響きを持つ『すべては遊なり』が
 のし上がろうと構えている。これは安っぽい比喩で、ただ精神の無力を思わせるかのようだ。
 しかし、これこそプラトンが人間は神の玩具であると名付けた時に達した知恵なのだ」
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一流は、その芸を遊びの領域まで到達している。遊びは自由への飛躍ということだ。
   次回はー文化は遊びのなかにはじまるーを考えてみる。
梁塵秘抄 巻第二 四句神歌 に以下のような歌がある。
「 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
  遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」
子供達が純真に遊ぶ心を忘れずに、健やかに育って欲しいと願う気持ちが、
 そして、自らもまた、子供の頃の気持ちを持ち続けていたいと願う心がこもっている歌だが。


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