2005年03月26日(土)
1453, おどろき、そして感動

「考えるにはどうしたらよいですか?」という純朴な問いかけがある。
この問いかけに対して、いずれの哲学書にも「おどろき」が「考える」突破口になると書いてある。
何でもないことの中にも、新しい発見を見つけ驚くことがその出発点になる。
驚きは、そのまま感動につながる。その感動が人生を動かす。

仏教の教えの中に「驚きをたてよ」という言葉がある。
この言葉は、考える、生きるという面で深い意味がある。
歳を重ねると、あまりにも多くのことを経験しすぎて驚きが少なくなる。
しかし、歳をとって解ったことは「驚きが桁違いに多くなった」ことである。
知れば知るほど、その周辺に知らない発見が増えるからだ。

驚くということは、未知・無知の分野に果敢に挑戦して新しい何かに衝撃を覚えるということだ。
それと未知なるが故の不意打ちが驚きになる。 そして、それが考えにつながっていく。
無能の人は、何を見ても聞いても驚かない。驚く素養がないのだ。
いや思い込みというバカの壁が取り囲んでいる。
破れている太鼓が音が共鳴しないのと同じである。
隣の太鼓の音にもよい太鼓は響くが、破れ太鼓は実際に叩いても音が響かない。
驚きには、その皮の張りが必要である。

世界を旅をすると、驚きに満ちている。そして、その深い世界に感動をする。
こんな世界があったのかと、内面が爆発しそうなほどの感動を数知れず経験する。
そして対象にのめりこんでいく。人間は感情の動物といわれる。 
たしかに理性的な部分が人間たる所以だが。
人間を突き動かすエンジンのはたらきをするのが感情である。

感情は
・おどろき ・愛 ・憎しみ ・喜び ・悲しみ ・欲求の6つから成り立っている。
他の感情は、この6つの感情の組み合わせでしかない。
希望はー>喜び+欲求  ねたみー>愛+悲しみ

この感情の中で「おどろき」は一番の根本にある。
未知なものに不意に直面した時に、こころは変容する。
その変容の状態そのものが「おどろき」である。
おどろいて呆然と立ちすくむ状態である。おどろきは、最も原始的な感動である。

おどろきは未知なものが現われた時、それを説明できない不思議を自分に知らす。
正も反(喜びに対して悲しみ)の感情も越えた「おどろきの対象」に対して、
説明できる必要性が出てくる。おどろきは未知に対する無知に気づき、知的探求を刺激する。

あるイベントの会場で、BOSEのコンポを聴いた時に思わず立ちすくんでしまった。
聴いたことのないような音響におどろき、何回か足を運んで聴きなおした。
こんな小さなコンポから、こんな音が聞こえてくるのか不思議でたまらなかった。
そこで係り員から説明を聞いた。パンフレットを見て、その原理を知って、知人から情報を得て、
インターネットで検索をして、購入に至った。

会場で聴いた音に対する、おどろきと感動が出発点であった。
そして、なぜ、どうして?と、その理由を探していった。
昨日も早速、音楽に対する本を二冊買ってきた。
三枝成彰の「音楽の本」と、「CDクラッシクの名盤」である。

一流なものに接して感動と驚きをシャワーのように浴びなくてはならないのだ。
以前にも書いたが、親は子供に感動とおどろきをシャワーのように与えなくてはならない。

躾と、最高のものを知らしめることが家庭教育の基本である。
おどろきを得るためには、3C-チェンジ、チャレンジ、コンペティションがキーワードになる。
挑戦しろ、変化しろ、そして戦えである。

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