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2007年03月17日(土)
2174, 14歳からの哲学ー 2
オッ(*^○^*)ハ〜ヨウサン!
今回は池田晶子の真骨頂の部分といってよい「死について」考えてみよう。
以前に「あたりまえことばかり」という著書の中でも、死について述べている。
(いや、彼女のあらゆる著書の中で述べているが・・)
最近、「死」について考えると心地良いのはどういうことだろう。
死を考えることは、生を考えること、人生そのものを考えることだからである。
いや、歳をとったということか。
「あたりまえのことばかり」の中の、
?章 生きているとはどういうことかーの一節から・・
ー死を知らないくせに、そのくせ知ったつもりでいる。
普通、死は恐い、恐怖、不安であり、いずれは死ぬという前提で人生を送っている。
他人の死ぬのをみて自分に当てはめて類推しているに過ぎない。
自分が死ぬという経験は絶対にありえない。もう一つの勘違いは、死体を見て、
それで死を見たと思う。ここが大事なことですが、死体は死ではないことに気づくと色いろなことが
わかってくる。死体は物質ですが、死そのものは物質ではない。
それでは「死とは何か」の一般的な答えは、「無になる」ことです。
無というものは無いから無なわけです。無は存在しない。存在しか存在しない。
したがって、「死ぬことは無になること」という言い方によって、言われている
無というものは無い。すなわち死はない、ということになります。
にもかかわらず、なぜ無い死を在ると思って人は生きていくのか。
その視点を手に入れると、死があると思って生きているこの世の光景が、
可笑しく見えてくる。無いものを在ると思っているのですから。
思い込みですね。世の中のすべてが、錯覚の上で動いている、これは面白い。
ですから、死が存在しないと気がつきますと「人生」という言葉の意味するところが
まるっきし変わってくる。やがて死ぬ、どうせ死ぬとは言えなくなる。
なぜなら死は無いのだから、人生の意味はまるっきし変わってくる。
「あたりまえのことばかり」よりー
しかし、この[14歳からの哲学」の中の死についての説明も、なかなか含蓄が深い。
まずは、その部分を抜粋してみよう。
ー7、死をどう考えるかー P51
生死の不思議とは、実は「ある」と「ない」の不思議なんだ。
人は、「死」という言い方で、「無」ということを言いたいんだ。
でも、これは本当におかしなことなんだ。「無」ということは、「ない」ということなんだね。
無は、ないから、無なんだね。それなら、死は、「ある」のだろうか。
「ない」が、「ある」のだろうか。死は、どこに、あるのだろうか。死とはいったい何なのだろうか。
君はたぶん、死ぬことを恐ろしいと思っているだろう。
死んだら何もなくなるんじゃないかって。でも、何もなくなることは「ない」はずだ。
なぜって、「ない」ということは、「ない」からだ。
じゃあ、なぜ、「ない」ものが怖いのだろう。
ないものを怖がって生きるなんて、何か変じゃないかと思わないか。
逆に、死んでしまいたいという気持ちになることもあるだろう。
死んだら何もなくなって、すっきりするだろうなって。
でも、やっぱり、それも「ない」よね。死んだって、「ない」ということは
「ない」のだから、それなら、死ななくたって同じじゃないか。
あるいは、他人を死なせたい、殺したいという気持ちがよぎることがある。
でも、もしも、殺しても実は人は死なないとしたら、どうする?
行きている人が死のことを知らないのは当たり前なんだ。
なのに、世の中の人はほとんど、この知らないことを知っていると思って
生きているんだ。じゃあ、誰もが知っていると思っているこの「生きている」
ということは、死を知らないとしたら、何を言っていることになるのだろう。
ーー
評)「存在と無」の論証ということになるが、これは難しいといえば難しい。
死は生前に戻ること!という、道理が好きだが、生は生前と死後を取り巻いている無に
浮かぶ一点という、小さな球状のイメージである。
それは誰にも取って変えることができない自分だけの宇宙の一点である。
そう思うと、自分の人生をもっと大切にしなくてはと、おもうのだが。
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