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2007年03月01日(木)
2158, 幸福に驚く力 −4
(~Q~;) おはよう〜〜 キョウハ スゴク サム〜
ーまずは、要点の抜粋から
*日常の幸福に驚く力*
何かを買ってもらった喜びと、何処かに連れて行ってもらった喜びを除いた、
子供時代の一番幸福な思い出は何だろうかと考えると、チョッとしたことの中に
喜んだことを多く発見することができる。
つまり日常にあるそういう幸せをしっかり受け取る力が子どもにはあるのです。
しかし、それを放っておくと、イベントや買い物の方にいってしまう。
そういうものに邪魔をされて見えなくなってしまう。
そして、「凡庸で退屈なことは悪だ」という情報社会の空気の中で、
自分たちの日常なんてつまらないものと思い込まされていく。
そういう力が今、私たちに色いろなカタチでのしかかってきている。
そんな中で子どもの文学は、日常の中にある幸福に驚く力を培ってくれるのです。
問題は、そういう物語を手繰りよせる力が弱まっていることですね。
とにかく、いつの時代でも、読み書きはちゃんとしておいて欲しいですね。
読む力が衰えてきますと、先人の残した素敵な日常の物語、幸福物語が、
手元に手繰り寄せることができなくなります。
数々のそういう物語がすぐ傍らで手が伸ばされるのを待っているのに。
そうなると、一人一人がただ孤立していきます。
解)
昔の日記を読んだり思い出など過去を振り返る時、
「そこにある日常に、むしろ面白い深い人生の意味が含まれている。」
という視点で見直すと、過去が違って見えてくるから不思議である。
その時の淡々とした日々のちょっとしたことの積み重ねが人生なのである。
そのことに気がつけば、現在の日常のチョッとしたことや、何でもないことの
中にある幸せに気づくことになる。 何故そのことに気づかないのだろう?
それは「自分が物語の中で生きていることに気づいていない」からである。
もし本人が不幸と思っているある日のことでも、
冷静に振り返れば幸福が背後にあったことに気づくはずである。
−−−
*凡庸や退屈が悪と思わせられる社会*
「これから入っていく情報化社会は、価値観が相対化され、思い軽いがない、
みんなのッぺらして凸凹のない社会になる」
「この社会は、物珍しく刺激的なことが善とされ、凡庸な退屈なことは悪とされる」
と西垣通がいっていた。
解)『「凡庸や退屈が悪と思わされる社会」が悪い!』というのも、
『いや二度とない人生、凡庸は「悪い!」』というのも、
所詮はそれぞれの人の判断で、相対的なことでしかない。
でも、内省してみると、凡庸を悪と思ってきた傾向があったようだ。
「二度とない無い人生!悔いの無いように生きるべし」が人生と信じるなら、
凡庸と退屈な日々を否定する人生になる。
それも相対の世界観でしかないが。
*週に一時間幸せがあれば生きられる*
毎日毎日、円満で幸せな家庭など何処にあるのでしょう。
誰もが「うまくいかないのは私のところだけでないか」そう言うんです。
でも、子どもって、いや大人って、一週間に一時間幸せな時間があったら、
後の6日と何時間は生きられると私は思っています。
一ヶ月に一度「あ~あ生きていてよかったな」と思える日が一日あったら、
残りの日が二十何日間あってもチャンと生きられます。
−−−
解)この辺になると、著者の生き様を感じる。
「週に一時間の幸せがあれば生きられる」
「月に一度、生きていて良かっただと思えれば」
私など毎日、毎日、心の底から実感している。そんなもの、心の持ち方一つである。
生き方、心の持ち方を知らない人が、あまりに多い。
特に若い人は! 一日一日を垂直に生きる!と心がければよい。
好きなTV番組でも音楽でも聴いて、ドップリその世界に入りこむのが
垂直に生きる時間ということ!
その合間に酒飲んで、カミサンの顔を見て、幸せだな〜!!
と自己暗示をかければよいだけ! この自己暗示は難しい、本当に。
ジョークではない、やれば出来る。 いや、やらねばならぬ!
これも一度出来てしまえば、あとは簡単!
金はかからないし、家庭円満、これが日常の幸せ!ということ。
日常の幸せに驚くのも、訓練を要する。
過去の世界にジックリ浸るとそれが見えてくる。
それを内省というのだろう。
ホンジャ、バアアイ ♪♪((((*`・´))ノ ♪♪
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