2007年02月06日(火)
2135, 時間についての一考察 −2

        b(^o^)dおっ W(^O^)Wはようー♪
    前回につづき「今ここ」について、「哲学はこんなふうに」(スポン)の中の
   『第10章 時間』から更に書き出しながら考えてみよう。
    時間は「自分」を考える上で意味が深い。
    直感としての瞬間としての、「今ここ」の垂直に立ち上がる、
    永遠を考えると奥行が深い!

  ーーーーー
現在がすべてだというのに、我々は現在の外に出ることが出来るのだろうか?
精神でさえも現在に属しているというのに、どうして我々がそんなことを望むのだろう?
人生は、我われを脅かす運命や猛獣のように、未来の中に潜んでいるわけではない。
天国や約束のように天空の中に隠されているわけでもなく、
牢や檻の中にあるような過去の中に閉じ込められているわけではない。

    我われの人生はいまここにあるのであり、いま現にあなたが生き、
    おこなっている当のものであり、
    存在のただ中にー現実として生きていることの果てしない嵐の中にーあるのだ。
    セネカによれば、
    「生きることにとっての最大の障害は、期待を持つことだ。
    ・・将来のことすべては、不確実の領分に属している。いますぐに生きるべきだ」

今日を楽しめ!ということなのだろうか?それだけでは足りない。
日々は過ぎていき、一日たりとも残りはしないのだから。
むしろ現在を楽しむことだ。現在は変わりながらも連続しているのだから。
だから、永遠を楽しめ!
それは瞬間を生きるということなのか?そんなことはない。
瞬間のうちで、試験の準備をしたり、休日の計画をたてたり、約束を守ったり、
友情や愛情を築きあげることはことなどできるわけがない。

    では、現在を生きるということなのか?それがただ一つの道なのだ。
    未来において、はたらいたり、楽しんだり、やりくりしたり、
    愛したりできるはずもない。現在だけが行為の唯一の場であり、
    思考の唯一の場であり、記憶と期待との唯一の場である。
    それがカイロス(好機、行為すべき時)であり、
    あるいはカイロスとしての世界である。

存在が時間の中にあるのではない。存在が持続するからこと時間があるのだ。
現在を生きるということは、どういうことなのだろう?
たんに真実に生きるということだ。 我われはすでにその王国中にいる。
   永遠、それがいまなのだ。
  ーー
  
 「いま・ここ、それ以外何もない、そして、たんに現在を真実に生きること」ということだ。
 そうすると、誠実に純粋に生きるということが最も大事なことになる。
 それが永遠の命を得るということだ。
 「亡くなった人に会えなくなる!というが、それは未来の期待である。
 確かに会えなくなるのは事実だが、しかし亡くなる前よりいま・ここでは、
 自分の心の中では深くなっている」と、以前書いたが、
 いま・ここ、という時間を考えると、その意味が理解できるようだ。
 
  我われの生きている数十年など、宇宙時間から考えれば一瞬でしかない。
  それなら、50年前の一瞬と、いま・ここの一瞬と同じことではないか!
  もし30年前の「いま・ここ」に大きな感動をしていた時と、
  いま・現在にボ〜ッとしていたら、どちらの時間として存在しているのだろう。
  永遠へつながる瞬間をやはり求め続けなくてはならない!ということ。
  それがカラオケで遊んでいる瞬間としても!
  誠実にその時間を楽しんでいるという意味で、
  何ごとも一期一会である。それぞれの時が永遠である!

  「現在だけが、存在している」だから、その時間を濃くしなくては!
    現在は永遠の旅人である。
     で、出来ちゃった婚で、その結果  離婚?  アフォ!
       次元の低い事例を出すな、まったくもう!
                   (゚∇^*)ホンジャ、バイバイ! ♪〜
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