2004年02月04日(水)
1036, 一人遊び −2

以前「一人遊び」を書いたことがあるが、再び書いてみる。

一人遊びができれば人生の問題の大部分を解決できるだろう。
自己完結をしたことになるからだ。
一人で散歩をして、読書をし、一人食事をして、一人で考え、一人街を歩き、
一人買い物をして、一人で旅に出て、一人仕事をする。
一人遊びは人生を通して、特に晩年に要求される。
これは訓練と練習で身につけることが可能である。
しかし長い年月の積み重ねが必要である。
その積み上げた一人の楽しみを知ってこそ、人との楽しみも数倍に膨らむものだ。

いま35年前の日記を書き写しているが、一人でよく遊んでいたことに驚く。
若かったことと、遊ばなくては神経のバランスが保たれなかったのだろう。
それが結婚を機にして、一人遊びのカタチが変ってしまった。
本屋まわりや、散歩や、読書や、ホームページの書き込みや、
図書館通い、などなどの一人遊びをしている。大人数の末っ子ということもあって、
あまり人に気をつかうのが嫌なのだ。といって、多くの人の周りにいたいのだ。

ノイローゼとか、精神症は他者に依存をしようとする姿勢から生じる。
群れの中で自分を見失っていくのだろう。
連れ添いに先立たれて、友人も次々に亡くなった時に真の一人遊びになるのだろう。
  以前書いた「一人遊び」の内容をコピーしておきます。
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2002/01/05
一人遊び

孤独に強い人かどうかは、一人遊びができるかどうかにある。
一人で楽しみを見つけ遊ぶ・・・、 それって「お宅」でないか。
似ているがやはり違う。それは一人遊びのできない人が表面を見て、いっているのでは?
結局中途半端のそれをいうのではなかろか?
字のとおり「お宅」は部屋に引きこもって自分の殻にこもった状態をいう。
山登りや釣りなどは、一人遊びの典型である。
別にそれをお宅とはいわない。 読書好きの人もお宅といわない。

ところで私の強みは孤独に強いことだ? 人に何かを求めないこと、
求めてもそこに何もないことを、経験上知っている。結局人間最後は一人だ。
自分をボールに見立て、一人でバウンドさせていくしかない。
そうしていれば、人が面白そうと自然に寄ってくる。

「禅」とは、その修行によって、字のとおり単(一人)を示すことだ
「示単」。これはある有名な禅僧から直接聞いたことだ。
そこで自分の好きのことを見つけ、それを楽しむことから始めなくてはならない。
その積み重ねが個性を作る。ノイローゼになる人をみていると、これができない人だ。
常に人に何かを求めているか、頼っているからだ。
「人は人、我は我、されど仲良く」が、一人遊びの本筋である。

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