('-'*)オハヨ♪
  ーあるブログに、この本の要約があった。
  以下は、それを更に簡略をした内容であるー
  これで、ほぼ概要を網羅している。
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 ”世間”とは個人からみれば、”準拠集団”=自分の行為・行動・態度・意見、
価値観にもっとも強く影響を与える集団と捉える著者は、 語源から
”世間”の”世”は「時間」を意味し”間”は「空間」を意味するとして、
人々の”世間”に準拠して人々が行動するようになった世間観の原型を
江戸期時代として、井原西鶴世間胸算用』がその象徴とみた。

 村の「オキテ」、武士の「イエ」をその背景として、
明治期に家族生活を統括する基準となる家制度(共同体社会における和合価値と、
武家社会における献身価値の融合)を明治民法で国策化し、
『「せまい世間」は「イエ」と対峙しながら、それに優先し、
 「ひろい世間」は「せまい世間」と対峙しながら、それに優先した。
「ひろい世間」はより「ひろい世間」と対峙しながら、それに優先する。
このように、同心円的に幾重にも重層化「世間」が国家を頂点に整序づけられた』と述べる。

 日本的集団は閉鎖性が強いと言われるのだが、
著者はむしろ「ソト」(=外集団)としての”世間”に準拠して、
自己の行動を律し判断する事が多い事から、
『自分だけがソトを見ていて、ソトからはひとに見られまいとする』
防衛傾向の特徴は ”ホンエ”と”タテマエ”の使い分けが余儀なくなされ、
戦後、家族国家観は崩壊したものの、ソト(=世間)の価値に寄り添う事に
よってウチ(=自己)を見つめると言う準拠集団の構造の本質は不変であるという。

今では、マスコミの発達により”世間”は拡大され
『「タニン」ないし「ヨソノヒト」の世界がタニンのままにとどまらないで、
「セケン」となりうる機会が大はばにふえている』と。
 体面・体裁を内面化する躾を通して、「人に笑われないように」と
育てられてきた事から、何事にも中庸=世間並みと言う適応基準を身にまとい、
個人と世間と言う矛盾的な関係を止揚するという。

 著者は”世間体”を一方的に排斥し否定するものではなく、
”世間”に準拠し恥ずかしくない行動の良し悪しを評価し、
”世間”とは何ぞやと問い、”恥”の文化の意義ををあらためて
問いなおさなければならないと。
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以上だが、
家内も世間に関心が無いほうだが、女性という面では世間を気にするのは
仕方がない。特に自分は見るが、見られたくないという意識が垣間見られる。
外と内という家族主義の島国なら世間体を繕うのも仕方がない。
現在の象徴としての天皇家は、ある意味で国民のペットという部分もある。
元々は朝鮮から渡ってきて馬を戦争の武器にして勢力をもった部族の末裔。
その後の彼らは、国家儀式の祭事をおこなう神主の親玉として存続してきた。
その外の価値の包みの頂点としての象徴が、現在の天皇制である。
その意味で、世間体そのものといえる。
だから、何々様は世間体の重圧で重度のノイローゼになったのである。

           (。・_・。)ノ ホナ!
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