つれづれに

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思いのほか、今回の「イスラム国の日本人殺害予告」に
対するマスコミも、政府も、世論も冷静のようだ。
金額が金額だから、まさか、払うわけがないし、払ったら、
国内外のバッシングで、内閣が倒れることになる。

宗教の残虐性は、こんなものだろうが・・
欧米の無差別攻撃で、アラブ人が残虐に殺戮されて
いる現場を、彼らは見ていることも事実。今週末は暗くなる?


・・・・・・
2484, 「世間体」の構造 -2
2008年01月22日(火)
          ('-'*)オハヨ♪
  ーあるブログに、この本の要約があった。
  以下は、それを更に簡略をした内容であるー
  これで、ほぼ概要を網羅している。
 --
 ”世間”とは個人からみれば、”準拠集団”=自分の行為・行動・態度・意見、
価値観にもっとも強く影響を与える集団と捉える著者は、 語源から
”世間”の”世”は「時間」を意味し”間”は「空間」を意味するとして、
人々の”世間”に準拠して人々が行動するようになった世間観の原型を
江戸期時代として、井原西鶴世間胸算用』がその象徴とみた。

 村の「オキテ」、武士の「イエ」をその背景として、
明治期に家族生活を統括する基準となる家制度(共同体社会における和合価値と、
武家社会における献身価値の融合)を明治民法で国策化し、
『「せまい世間」は「イエ」と対峙しながら、それに優先し、
 「ひろい世間」は「せまい世間」と対峙しながら、それに優先した。
「ひろい世間」はより「ひろい世間」と対峙しながら、それに優先する。
このように、同心円的に幾重にも重層化「世間」が国家を頂点に整序づけられた』と述べる。

 日本的集団は閉鎖性が強いと言われるのだが、
著者はむしろ「ソト」(=外集団)としての”世間”に準拠して、
自己の行動を律し判断する事が多い事から、
『自分だけがソトを見ていて、ソトからはひとに見られまいとする』
防衛傾向の特徴は ”ホンエ”と”タテマエ”の使い分けが余儀なくなされ、
戦後、家族国家観は崩壊したものの、ソト(=世間)の価値に寄り添う事に
よってウチ(=自己)を見つめると言う準拠集団の構造の本質は不変であるという。

今では、マスコミの発達により”世間”は拡大され
『「タニン」ないし「ヨソノヒト」の世界がタニンのままにとどまらないで、
「セケン」となりうる機会が大はばにふえている』と。
 体面・体裁を内面化する躾を通して、「人に笑われないように」と
育てられてきた事から、何事にも中庸=世間並みと言う適応基準を身にまとい、
個人と世間と言う矛盾的な関係を止揚するという。

 著者は”世間体”を一方的に排斥し否定するものではなく、
”世間”に準拠し恥ずかしくない行動の良し悪しを評価し、
”世間”とは何ぞやと問い、”恥”の文化の意義ををあらためて
問いなおさなければならないと。
 --
以上だが、
家内も世間に関心が無いほうだが、女性という面では世間を気にするのは
仕方がない。特に自分は見るが、見られたくないという意識が垣間見られる。
外と内という家族主義の島国なら世間体を繕うのも仕方がない。
現在の象徴としての天皇家は、ある意味で国民のペットという部分もある。
元々は朝鮮から渡ってきて馬を戦争の武器にして勢力をもった部族の末裔。
その後の彼らは、国家儀式の祭事をおこなう神主の親玉として存続してきた。
その外の価値の包みの頂点としての象徴が、現在の天皇制である。
その意味で、世間体そのものといえる。
だから、何々様は世間体の重圧で重度のノイローゼになったのである。

           (。・_・。)ノ ホナ!

ーーーー
2006年01月22日(日)
1755, 道洲制度について
       |(*′口`)ノ||O | ☆.:゚+。おはょ゚+。:.☆
そろそろ道州制度が問題として浮かび上がってきた。
全国を8~11道洲に分割して合衆国制度にすればよい。
これだけ情報化が進んでしまえば、県という存在は必要でなくなる。
イギリスのサッチャーが、首相になったと同時に市のみにしたという。            
           *1ナルホド!!
合併による合理化と、思い切った地方への権限委譲が効率よく出来るようになる。
国の経費を三分の二に縮小するには、思い切った道州制度は避けて通れない。
大阪府京都府などあるのを疑問視していた。
奇異と誰もが思っていたはずだ。京都・大阪・神戸・和歌山・滋賀など合併しても当然と、
遠くから見れば解ること。(c_,0*)(c_,-*)(c_,0*)(c_,-*)ゥンゥン♪
 新潟県は、それぞれの行政単位で中途半端の状態に置かれている。
関東甲信越北陸地方、東北地方)この三案で全て違う組み合わせになっているが、
道路と新幹線を基点に判断すると、関東甲信越の枠組みである。
最悪は北陸地方としてくみこまれることだが、それはないだろう。
             [○´・ω・]ノ  ヂャァ
・・・・・・・
2005年01月22日(土)
1390, 迷ったときは運命を信じなさいー2      
             読書日記
第6章の「あなたの自身の『原型』を知る』の中の
 ー光の領域のレッスンーが面白い。
 
寝る前に「光のイメージ」の実験をした。
アメリカの田舎の並木道から、一軒家に入り、廊下を通って、部屋の
衣装棚の奥へかき分けて入って、地下のトンネルを通って、
大きな川辺に出て、船に乗り、トンネルに入って、出て、船から降りて、
光になって、そして、女神ヘラになり、老王リシになり、救い人になり、
救い人の母のデメテルになり、酒の女神のバアッカスになり、学問の女神アテナになり、
美の女神ビーナスになり、神の子になって,最後は宇宙の錬金術師のクリシュナになる」
以上を、ポストイットに書いて手帳に貼り付けて、酒を飲みながら見ていたら、
2時間ほどで覚えてしまった。そして2日間、ベッドで自分が「風になったイメージ」
をして先ほどの「霊魂ー風」になったつもりで、実験をしてみた。

そうして寝てみると「多くの夢をみる」のに驚いた。
ユングの世界の被験者になっているようで面白い。
自分の内面の深層に、ドンドン降りていくような感じになった。
ーいや実際降りていったのだろうー
そして、それぞれの女神や、救い主になった感覚が面白い。 一種の白昼夢か?
この文章を読んでいる人は、信じられないのではないだろうか?
イメージで、かつ半覚醒で女神や神の錯覚状態をまともに書いてあるからだ。
神様と対話している感覚のようでもある。
ユングは、このような地下への階段をドンドン降りていったのだろう。
『その状態をもっと詳しく書いてみろ!』という声が聞こえてきそうだ。
今度、ミニミニ小説を書いてみようか?それとも、宗親日記に取り入れて
書いてみようか。あまり入り込むのは、この程度でやめておくが・・
 ーーー
驚いた!、去年の今日が『眠りについてのお話』のテーマであった。
ここまでくると、気持ちが悪い!

・・・・・・・
2004年01月22日(木)
1023, 「眠りについてのお話」-2
「経験を盗め」読書日記-2

睡眠は8時間が理想と思い込まされてきた。
しかし、これは統計上の話であって、生物学的な根拠は何もないという。
一般的に、人間に必要な深い眠りは寝入りばなのノンレム睡眠時に集中
して訪れるから、長く眠ればよいというわけではない。
睡眠は非常に多様性に富み、個性的なものである。

10時間続けて寝ればよい人もいれば、2~3時間づつ寝ればよい人もいる。
「いい眠り」というのは、それは「自分にとっての」ということでしかない。
自分が納得した眠りを見出せれば、それが本人にとってよい眠りである。
ようするに、眠りの唯我独尊を手にすればよいだけである。
草食動物にとって寝ることは命がけである。
夜間に肉食動物に襲われる危険がつきまとっているからだ。
また回遊性のイルカは左右の脳にかわるがわる眠らせているという。
入眠障害」「中途障害」「早朝障害」「熟眠障害」全てを経験をしたが、
これで困ったことはない。ー困ったことがないということは障害とはいわないか?
何度かの挫折で眠れない夜が数限り続いたが。
「寝れないことを苦痛にしないのが大事」と子供の頃から体験上知っていた。
「寝れない時は寝れなくって結構」と思っていればよいと。

私の寝れない時のコツは、顔、腕、足と力を意識して抜くことを
繰り返していると、いつの間にか寝入ってしまう。寝れない時は
知らないうちにどこか力が入っていることが多い。
ある人から聞いたが「寝れない時は直ぐ起きればよい」という
至極単純な方法もある。寝ようとしないで、三日間ぐらいのスパンで
睡眠をとりかえせばよいという余裕を持てばよい。
睡眠障害も一種の神経症だから、陥った人にとってどうにも
ならないことも解るが。セックスにしろ、食事にしても、本能的な
ものに神は快楽を与えた。快眠後の爽快感も、その一つだという。 
そのためには、あまりの熟睡は寝たという充実感が少ないから
逆に良くない。 私の場合は、現在は6時間半が平均である。
特に寝入りっぱなは熟睡をする。誰もそうであろうが。その時々によって、
「中途障害」と「早朝障害」が三日に一度はくるが、別に苦痛ではない
ので障害にはならない。また万年寝不足という経験も全くない。
そういえば睡眠は一日単位の死であると聞いたことがある。
よく生きれば、良く死ぬことができる。良く一日を過ごせば、
良く寝ることができる。楽しい一日であれば寝れない夜はなお楽しい。
そうそう良い一日が続かないのが人生だが。

・・・・・・・・
2003年01月22日(水)
658, 躁鬱について

人間は躁鬱質か分裂質かどちらかか、その中間を浮いている存在だ。
そのコントロールが利かなくなって第三者に迷惑をかけたり、
抜け出れないのが精神病になる。束ねている元が壊れてしまうと精神病か。

北杜夫は躁鬱で有名だ。彼の随筆を読むと面白い。
彼の場合鬱が長く、躁は短いタイプという。自分のことを書ているから、
彼の躁鬱の話が面白い。躁はある説によると、子供に帰ってしまう事だという。
そうー躁すると未来志向になってしまう。欝は逆に過去に向かって沈むことをいう。

大体沈んでいる時は、過去の嫌なことをや嫌な人間に囚われている時だ。
うきうきしている時は、何か明日や将来の楽しみを考えている状態だ。
過去の楽しい状態を考えていることは少ない。
その意味で躁は未来志向の時で、鬱は過去に向かっている時というのは肯ける。
身近に万年鬱が数人いるが、急に20年前の恨みつらみの電話をする。
電話を受けた人は、ただ驚愕をする。

万年躁の人もいる、躁仮面をかぶっているだけかも知れないが。
ある自殺未遂三回の人は鬱の人だ。悪臭が周辺に漂っている。
自分に甘い人で、周辺に甘さからくる膿をばら撒いている。
昔の日記を面白がって随想日記に書いているが、一種の鬱かもしれない。
楽しい鬱などないのだから違うか?

躁病7年説というのもあると書いてあったが、私の周波が7年であるのは
躁質の体質なのかと考えてしまった。三年躁で四年鬱あたりか。
人間は創造をする時は「躁造」-造語ーといってよい。
準備を積み上げた上に「躁の状態」でなければ、そうそう創造は出来ない。
女性などは生理があるのだから多かれ少なかれ躁鬱だろう。誰でも精神質はある。

・・・・・・・・・
2002年01月22日(火)
308,人生の損益分岐点

人生の損益分岐点-とは人生で元はとったか?ということ。
何だろうか、そんなもの考えている暇があったらチャレンジするものを探せ!
そんなものだ。おそらく人生にそれを見ること自体、おかしいのかもしれない。
しかし、言葉の遊びとしてスキップをしてみよう。
私の場合、51歳であった。下の子供が大学入試に合格した瞬間であった。
今から5年前である。入学をしてしまえば、後はアルバイトでもすれば卒業できる。

事業で500室ーこれは新潟周辺の客室の最大数(300室)の1・7倍。
母親を見送り、一応目安はたった。その時自分の一つのライン、その表現
が人生の損益分岐点に達成したである。人間としての一応のなすべき事の達成である。
これからは、純益のそれー自己達成とかいう真にやりたい事の自己満足の
追求だ。まずは家内に「私と結婚してよかったという」本心の満足感!
それは今更、無駄か!そして大好きな秘境ツアーの60歳までの50回達成である。

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1月22日ー水曜日  1969年

10時に学校に到着。 川崎と会う。次に河村に帳面を返す。
そして産関研究所に行き、レポートの為の資料を借りる。
東武百貨店でコピーをとる。 昼過ぎに寮に帰る。
市川さんが部屋に来る。 会社が平日だが休みのようだ。
彼と話をする。何か私からゼミで得た知識を吸収しようといているようだ。
その後風呂に行き、読書をする。 22時から0時半まで勉強。 一時に寝る。

*1:;-”-))))さ 寒い・・・∵ゞ(>д<)ハックシュン!
 市町村の合併のあとには県の廃止と洲の導入は必然である。
そしてその中間の道洲制を取り入れて思い切った権限委譲をして、
ミニ国家的にすることだ。県は江戸時代の藩を元につくられたものでしかない。
道州制度には中央省庁は大反対をするだろう。
中央官僚のタカリの種がなくなるからだ。
実現は今のところ空論でしかない雰囲気だが、
情報化の進展が県という中二階の存在を消滅させるだろう。
                       フムフム(*゚Д゚)φ