* 誰だろう、過去の不思議な自分は
 現在乗っている二代目の電動アシスト自転車。既に5年も乗っていたことに
驚いている。3月末から11月末まで8ヶ月間、雨が降らない限り、連日、一時間、
信濃川の二つの大橋を一周して帰ってくる。前の自転車は5年。これが5年になる
から、10年になる。前のは、5年でボロボロ。しかし現在のは、ブレーキ修理と、
パンクが一度。タイヤ交換の時期に来ているが、あと数年は持ちそうだ。
以前のは、小型の『マウンテンバイク』。現在のはクロスバイク。マウンテンと、
シティバイクがクロスした中間。シティバイクを、通称『ママチャリ』という
のに対し、『パパチャリ』という。道路で見かける本格的アマチュアが乗ってる
のが、『ロードバイク』。競技用のバイクが『トラックレーサー』という。
 ロードバイクに乗っていた男が、猛スピードで道路の真中を、電動アシストを
乗っていた男を怒鳴りつけたくなるのも分からないでもないが… 
自転車は、確かに危険な乗り物。その対策として、コースを土手と、バイパスの
側道を9割以上にして、原則7時までに限定。一度だけ、雨道で転倒した以外は、
ほぼない。自転車とはいえ、乗ってしまうと、危険に対するギアが切り替わる。
一つ間違えれば死の危険が伴う。だから、面白いのだが。
 毎朝、一テーマで、一文章を書上げ、過去の文章を書上げていると、
<何だろう、誰だろう。この過去の不思議な自分は?>と思うことしきり。
この文章も、書上げた後に、過去文を読返して、5年前の同日の内容を読んで、
急遽、変更して書いたテーマ。

・・・・・・
4599, 閑話小題 ー二代目・電動アシスト自転車
2013年10月19日(土)
   * 二代目・電動アシスト自転車
 ブレーキが前後とも壊れ、来春予定していた電動アシスト自転車を購入して
から、一ヶ月足らずになる。これまではマウンテンバイク(MTB)だったが、
今度ものはクロスバイク。値段は4年間で電動アシストの普及もあり、全体的
にみて3〜4割は値下がりをした。MTBはスポーツチェーン店の通販で買った
中国製。やはり故障続きであった。しかし、電動アシストの楽しさは十二分に
味わうことができ、既に1万キロは走った。冬期を除いた毎朝、一時間、年間
200日は乗るので、一回百円とすると、償却は済んだことになる。
実感としての価値は、300円〜500円はある。で、新しいクロスバイクは、
値段が二倍、一日200円になるが、価値は充分にある。雨の日にスリップして、
転倒したが、車さえ気をつけ注意をすれば、それほど危険でない。毎朝、
10キロ以上は乗って5日に一回の充電で済んでいる。クラッチを最大の重さ
にして、電力を使うパワーにして乗っているが、ロードレーサー並みの速さ。
少しオーバーに表現すると、地上を走る車輪付きのグライダーか、水上を走る
ミニエンジン付きヨットという感覚である。で、兼用して乗るつもりだったが、
一度MTBに乗ったが、もう乗る気がなくなり、昨日、知人に引取って貰った。
  
・・・・・・
5696,‘我慢内燃説’
2016年10月19日(水)
           <20歳からの人生の考え方ー外山滋比古著>
  * 我慢の善用活用、‘我慢内燃説’
 他の著書の中に、「キズをのり越える努力が、人を大きくする」がある。
<青森で朝市に寄ってリンゴを買った。私が、「キズのあるリンゴの方が甘いん
 ですよね」と言うと、おばあさんが「東京の人のようだけど、よく御存じで。
みんなに 嫌われているキズのついたリンゴ。傷をかばおうとして、力を出す
のであろう。無キズのリンゴよりうまくなる。キズのないリンゴがなまけて
いるわけではないが、少しいたんだ方が、おいしい。>
 人間も似ている。秀才は、傷なしの特上のリンゴ。天才は傷だらけだが、
特質の能力がある。このリンゴから例えると、よく理解が出来る。 
 ここで、「我慢の善用活用、‘我慢内燃説’」を述べる。 〜p-139
≪ 我慢を通せば、病気になるし、我慢をしないと無作法で反社会的になる。
どうしたら、悪玉我慢を善玉我慢に転化できるか考えどこ。長い間、考えた末、
ひとつの解決法を得た。 それを‘我慢内燃説’と勝手に命名した。
我慢のストレスは、ガソリンのようなもの。そのままで不用意に火を近づければ、
引火する恐れがある。我慢をガソリンとすると、そのまま発散すれば、その場限り
になる。じっと我慢すれば、内圧が高まって、ストレス化する。その内圧を燃焼
すれば、恐ろしいほどの力が生まれる。いつまでもストレスをためておくのは
愚かなこと。充分に高まったら、目的のため噴出させる。発噴とは、その内燃
を元に大きなことをうごかせる心的活動だと考えることが出来る。 ≫
▼ リンゴの自然治癒力と、我慢の善用活用、の作用は似ている。
 人生の節目時は、破壊から創造への変化への我慢時。それまでのプラス、
マイナスが、同時に覆い被さってくる『真実の時』。 その時、溜まった
エネルギーが新たな変化を生む。創造にはなくてはならない条件である。
既存の自分を一度、ゼロにして、新たな目標にむかう節目時である。
<順境には枝を、逆境には根を張れ!>という諺がある。リタイア時期を
過ぎても、枝にしがみついて人、例えば森元首相や、石原慎太郎のような人を
みるにつけ、人生の不条理を見る思いになる。人生も見切り万両である。
 でないと、人生にとっての「死に損ない」になる。

・・・・・・
4966,閑話小題 〜ある男の動揺
2014年10月19日(日)
   * 80までは生きれると思っていたけど!
 ある飲み会で一年ぶりに出会った男が出会いがしらに、
「最近、切腹をした。もう長生き出来そうもない。片足、いや両足を
棺おけに入った。80歳までは生きると思っていたけど!」と悲鳴。やり手?
だが、人の弱点を見ると見境なく攻撃をする性格で、三年半前の私の倒産劇
以来、三度の会で、続けて露骨な嫌味を言っていた。三度目の会で、目前の座席。
早速、私への攻撃が始まった。「俺は学が無いので、哲学などは分からないが〜」
と、薄笑い。その言葉には(その様は何だ)との皮肉が込められていた。
それまでの二度は、聞き流していたが、この言葉にはカチッときた。 
 5年程前の話になるが、本人の趣味の茶器づくりが認められ、銀行のロビー
に飾られ本人が有頂天だった頃、その人と親しい知人から、「あの男、私生活も、
茶器づくりりも、仕事もスランプらしい」と聞いていた。たまたまポタリング
をしていると、車が停まり、当人が話しかけてきた。それが偶然、本人の会社前。
「まあ、お茶でも飲んでいけや!」と誘われるまま、事務所に行ったところ、
応接室に茶器が並んでいて、素人としてはナカナカの出来栄え。
「何でもよいから一つくれないか」というと、快諾。その数日後、自慢の豪邸?
に家内と行くことになった。その時の茶器の御礼に何かと考えた時思い出した
のが彼のスランプ。 初心者用に噛み砕いた哲学を説く池田昌子
「14歳からの哲学ー考えるための教科書」を持っていった。それを逆手に
とって、皮肉を言ってきたのである。酒の勢いもあって「茶器は、作者の魂の
顕現そのもの。 あなたが茶器づくりなどでスランプというから、ヒントにと
本をあげたのだ!スランプ解消には『魂そのものが何か』が分からなくては
ならないはず・・ 『魂を叩き込むとは、自分の持っている全てを作品に
叩きつけることだろう。』」と、怒鳴りつけていた。 其処にいた、
ほかの何人かも、私の言葉に同調。その直後、幹事が会の予算が足りないと
当人に資金補助を頼みに来たところ、内ポケットの数万を私の前に投げつけた。
もし金に貧していたら深く傷ついただろうが・・ あまり経験出来ない面白い
遣り取り。それから一年ぶりの再会で、これ。 余命数ヶ月?に感じられた
深刻な様相だったが、それは恐ろしいだろう! 哲学の最大の問題は「死」。 
 余命を突然告げられ、まず考えるのが、 
☆死ぬとは、如何いうこと?
☆自分が本当に消え去るなど有得ない!
☆自分の生き様は、これで良かった? 等々、心は七転八倒。 
 最後の最後は当人の心奥の問題だが。 去年の5月の随想日記、
4429,ー「死ぬのが怖い」とはどういうことか?ー前野 隆司著の
「死の恐怖を克服する七つの登山道とは」を読めば、少し気が休まるだろうに。 
 こういう類は予習しておくしかない。他人事でないのが、この内なるブラック
スワンの死の問題。 先日、ある30人位のツアーでのデナーの席で、三年前に
旦那を亡くした還暦過ぎの女性と、70歳過ぎのアマチュアカメラマンと、家内と
同席をした時の話。 還暦過ぎの女性が旦那を見送った具体的話題をして、
本人もガン持ちと告白した。その女性が私に「変な話をして御免なさいね!」
というから、「別に全く問題はないです。この年齢になら言葉として表現するか、
しないかですよ」と、答えた。 70過ぎのカメラマンも奥さんを最近見送り、
自分も何時、再発するか分からない、と達観?した様子だったが、内面は
穏やかではなさそう。 即興になるが、「男は黙って、サッ、コロ、キエル」。 
そして誰も居なくなる。 死の問題、一に準備、二に準備!である。
こういう話は、語りだせばキリがない!

・・・・・・
4224, 閑話小題 ー地軸様 
2012年10月19日(金)
   * 地軸様
 何度か書いたことがあるが、30年来、近くの土手を散歩しているうちに橋の
上で呼吸法を取入れた深呼吸をするようになった。大きく息を吐き出しながら
シャガミコム。その時に地球の芯に気を落とすイメージを持つ。
そして、そこから大きな息を吸い上げながら立ち上がり、今度は空に向かって
気を吐き出すイメージで息を出す。それを一回につき7〜8回、続けていた
ところ、擬人化した地球軸に話しかけるようになった。「おはよう!」
「久しぶり!」とか。 ところが何回かするうちに、逆に地軸の方が、
「よう、昨日は散歩に来なかったな!」「より深く呼吸しろよ!」と思いも
よらない切口で呼びかけてくる。 サルトル的にいえば、「対自」と「即自」
の掛け合いになる。ところが何時もの散歩道のコースに、大規模な道路拡張
工事が始まり通行止。そこで違うコースを迂回して歩いているうち、電動
アシスト自転車を購入した。試しに信濃川の土手を長岡大橋から大手大橋を
一周したところ、この景色と空気に魅されてしまった。三年前のことである。
それをキッカケに早朝ウォーキングがミニ・サイクリングへ変わってしまった。
ところがチャリだけでは、物足りなくなり、大手大橋を渡る時にヒキチャリを
しながら歩くようになった。 暫くすると、その地球軸が再び話しかけてきた。
「久しぶりだね、まあ、下世話なことなど考えてないで、ここを歩いている時
 は360度のパノラマを味わえよ!」、
「もっと深い呼吸をしな!」
「自分にせっかく出会えたのだから、エネルギーを、もっと吸い上げろ!」、
「何か考える時や、音楽を聞く時には、わたしが同一になったイメージを持つと、
 感覚が鋭敏になる!」(ワシにも聴かせろ)とか、なかなか面白い。 

スポーツセンターで、ウォーキングマシーン上でiPodの音楽を聞きながら
運動している時などイメージすると、音楽に集中できる。で、この擬人化した
地球軸に何か名前をつけてやろうと、この数日で考えた名前が、「地軸様」。
知らない人が、これを読んだら、「この男、ついに頭にきたか」と思うだろうが、
私にとっては、20年以上の対話の過程がある。自分の魂を擬人化した「真魂様」
でもよい。常に話相手として擬人化して対話すれば、それで深い自己対話になる。
問題は意識してやるかどうか。アブラハム、キリスト、釈迦などは、
このエネルギーの大元と繋がっていたのでは? 魂とは、内的宇宙=地軸様。

・・・・・・
6063,閑話小題 〜「真理とは何?」
2017年10月19日(木)
   * 「真理」? 所詮は「?理」だろうに
「真理とは、事実の中の真実と瞬時に思う言葉」という冗談とも思える言葉が
印象に残っている。 〜ネット検索によると
【真理とは、確実な根拠によって本当であると認められたこと。ありのまま誤り
 なく認識されたことのあり方。真実とも。
真理は、現実や事実と異なり、妨害・障害としての虚偽・誤謬を対義語として
おり、露わさ、明らかさ、隠れなさに重点がある。そのものありのままであり、
あらわであり、その本質が覆われていない、という意義に関しては、哲学的には
本質主義や同一性とも関わりが深い。
西欧哲学において真理論は論理学や認識論においてとりわけ主題化される。
 真理論の歴史は、古代ギリシアに始まる。人間を尺度とする相対的なものの
見方に反論する形で、永遠性・普遍性を有する真理の概念が生まれた。
このような絶対性を内実とする真理概念は独断主義を生み、これに対する防衛・
反抗が懐疑主義を生んだ。 そのどちらにも陥らず、確実な知識の基礎付けを
求めて近代の認識論が始まり、その後、真理の担い手が思惟・観念・判断、命題、
「事物」等のいずれであるか、について議論がなされてきた。
・現代論理学では真理の担い手は命題であるとされ、真と偽を合わせて真理値
 という。
・論理学で、「Pは○か○でないかのいずれかである(○であり、かつ○でない、
 ということはない)」という形をした文は○の内容に関係なく正しいので、
 これは「形式的真理」と呼ばれ、思惟と思惟自身の一致と定義される。
・このような形式的な形相についてではなく、質料について真理が語られるとき
 は「実体的真理」という。
・判断について真理が語られるときを「認識論的真理」といい、
・存在について真理が語られるときを「存在論的真理」という。
現代の真理概念は様々な形で修正を受け、相対的な傾向を強めている。】

▼ ニーチェ『事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである 』
 現象、事実、真実、真理と掘下げていっても、いずれも解釈だけでしかない。
とはいえ、事実、現象の世界だけにとどまれば、その世界だけの住人になり、
現象に右往左往するしかない。ステップをして右往左往する手もあるか?
哲学の命題の一つの「真理」なんぞ、ここで語り尽くせるものでない。 
 脳の奥から、< お前らのは、「珍理」だろうに! >の声。

・・・・・・
5331,ノンセンス辞典 ー?
2015年10月19日(月)

 BRUTUSの「谷川俊太郎」の中の、ノンセンス辞典〜
 の、言葉の解説が面白い。 (▼は、私の意見)
≪ 【生ぎざま】= <生きかた>の商品名。
 <生きかた>を販売する場合には、この商標をつける方がよく売れる。
 但し、最近は投げ売りする者が多いので、先行き不安。 
 ▼「生きざま」というと、「生きかた」を少し生くさくしたもので、
  経験が加味された響きを持つ。
・【偽善】= 二十世紀後半においては、誠実の同意語とみなされているが、
  次のような古典的定義に固執する学者もいる。
  すなわち、偽善ーうそをついていると気づかずにうそをつくこと。
 【誠実】=うそをついていると知っていてうそをつくこと。
 ▼「誠実な人」という言葉に何やら欺瞞が隠されている。
  「偽悪」という私の好きな言葉もある。「露悪と偽悪」の区別も
  つかない連中に、目くらましにするにうってつけ。 
・【土着 】= 自分で自分を鉢植えにしている状態。肥料として人糞を
  用いることは稀。民族的肥料、文化人類学肥料を混用することが多い。
 ▼ 地元から一歩も出ないで、その社会を全世界と信じて疑いを持たず、
  鉢の中で良しとしている人。島国の日本も、鉢とすると、土着国家の
  住民が日本人ということになる。大陸の中国人からしたら日本は
 「小国民」と蔑視をしたくなる。その鉢が城下町となると?
・【知識人】= 知識についてはあらゆる知識をもっているが、知識でない
 ものについては、なんの知識ももっていない人。
 ▼ 境目は、その自覚が出来ているかどうか。知識でないものの一つに、
  「未経験」がある。それに対する姿勢、考え方が大きく、左右する。
・【情報】= 人間が本心をかくすために、まわりに煙幕の如くはりめぐらす
 膨大な量の知識。その量が余りに大きいので、当の人間すらその奥に
 かくされている本心を見失ってしまう。ほんとうの〈知〉と異り、しばしば
 売買や盗難の対象となるところから、商品の一種と推定される。
 ▼ 奥に隠されている本心すら、自分自身が知らないから始末が
  悪い上に、情報を知識化出来ないため始末が悪い。
 ―――
 今度、皮肉たっぷりの「私のノンセンス辞典」でも作ろうか。

 当日分を書き終えて、過去文を流し読みをしたところ、5年前の
<二代目・電動アシスト自転車>に出くわした。

つれづれに

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 今日はシネマの日。午後からはハリウッド映画の予定。

 今朝のポタリングで、信濃川の土手は濃霧で散歩の人もチラホラ。
 さすがに寒い。 







・・・・・・
・・・・・・

3859, 釈迦でさえ非難される
2011年10月19日(水)
 釈迦にさえ、非難するものがいた。そのものに、釈迦は「あなたが私に腐ったものを与えたとして、それを
私が受け取らなかったらそれは誰のものになるか考えてみよ。それは、あなた自身のものだろう。それが、
私の答えである」と言ったという。この言葉を知った時、何か内なる拘りの多くが消えた気がした。 要は、
自分の受けとめ方で、第三者の非難は、その人自身の問題を投影しているに過ぎない。それをマトモに受け
とめるから、その辺の輩の言葉に傷を負ってしまう。要は、自分の信念となる「絶対言明」を確立してあれば、
他人の傷口から出てきた膿の言葉から、自分の傷口に毒が入ってこない。釈迦の言葉には納得できるものが多い。
この時節、釈迦の言葉は心に沁みる。 老年になると、無知は老害となる。
 ーーー
* 思いわずらうな。 なるようにしかならんから、今をせつに生きよ。
* 沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少し語る者も非難される。
  つまり、世に非難されない者はいない。
* もし、清らかな心で生きている人がいたとしたら、幸福はその人の後に、かならずついていく事でしょう。
* 思慮のある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、激流も押し流す事が出来ない島を作りなさい。
* 善をなすのを急ぎなさい。善をなすのにのろのろしていたら、心は悪を楽しむようになります。
* 水が一滴ずつでも滴り落ちるならば、水瓶でも満たすことが出来るのである。
* 他人の過失を見る必要はありません。
* 他人のした事と、しなかった事を見るのではなく、自分がした事としなかった事だけを見るようにしなさい。
* 自分で自分を、励ましてあげなさい。
* まず、自分を正しく整えてから他人に指摘しなさい。そして、他人に指摘したことは、自分も実行
  しなければなりません。
*「わたしは愚かである」と認められる者こそ、賢者である。逆に「自分は賢者である」と思っている者こそ、
  愚者と呼ぶにふさわしい。
▼《 思いわずらうな、なるようにならんから、今をせつに生きよ 》 
  この言葉は、還暦を過ぎてからの生きる道しるべの言葉。
《「わたしは愚か」と認められる者こそ、賢者。逆に「自分は賢者である」と思っている者こそ、愚者と
  呼ぶにふさわしい》は、上から目線で、教養の無さの目盛りになる。 上記の一つずつが、日々の自分
  に対する戒めといっていよい。
 ・・・・・・・
3494, 金が高騰
2010年10月19日(火)
 ここにきて金が高騰している。リーマンショック時には1トロオンイシス900ドル代だった金価格が、
先日1380ドルをつけた。何と二年で40パーセントの値上がり、年率で2割づつ上がっている。国内価格
円高のため27パーセント、それでも値上り幅は大きい。ゴールドマン・サックスは一年後には1650
ドルまで値上がりを予測する。 二年後に3000ドルの予測もある。8年前に金の上場投資信託ETF
が出来て、そこを通して機関投資家や個人の投資資金が流入。その残高も5年前の5・6倍に膨らんでいる。 
リーマンショックによる世界金融危機が一番の値上がり要素。各国は危機乗り切りのため通貨をばら撒いた
ため、投資家などに通貨不信がおきて金投資に向かっている。「実はユダヤ資本が上げるだけ上げておいて、
一挙に売りを浴びせられる」という説は、先日ここで書いた。
 (字数の関係でカット2011年10月19日)
・・・・・・・
3119、久々のジョーク ー6
2009年10月19日(月)
 ▼ 少女が女になるにはどれくらいかかる?    ひとつき
 ▼ 長年牧場の仕事をしてきた親方が、弟子を連れてしば刈りに行った
 「親方。この木、じゃまだから切ってしまいましょう」
「待て!50年前、わしはこの木の下で、男として初めての体験をしたんじゃ。
 思い出の木じゃ。残しておいてくれ」
「へえ。そうなんですか。親方も隅におけないなぁ。じゃあ、あっちの木を切りましょうか」
「待て!その初めての体験のとき、あっちの木の下で彼女の母親がじっと立っておった。
 やはり思い出の木じゃ。残しておいてくれ」
「親方……。もしかして初めての体験のとき、相手のお母さんにずっと見られてたんですか?」 
「そうじゃ」「お母さん、黙ってなかったでしょう。何て言いました?」     「モー」
 ~~
 ▼ とあるパーティの席でのこと。母親に連れてこられていた三歳の男の子トニーが、突然
  母親に向かって「おしっこしたい」と大声で叫んだ。息子の無作法に母親は思わず顔を赤らめ、
 彼にそっと言った。「これからはおしっこをしたくなったら『歌を歌いたい』と言ってごらん。
 そうすれば私はお前がおしっこをしたいのだとすぐ分かるからね」「『歌を歌いたい』だね?うん、
 わかった。これからはそう言うよ」   そして、その日の夜――
 父親と母親の間に寝ていたトニーは、おしっこをしたくなって目を覚ました。そこで父親を起こして
 「歌を歌いたい」と言った。何も知らない父親はびっくりして言った。「夜中は歌を歌う時間じゃ
 ないよ。明日まで我慢しなさい」 しかしおしっこが漏れそうなトニーは、どうしても今じゃない
 とだめと言う。そこで父親は仕方なくこう言った。「じゃあ、布団の中でいいから、お父さんの
 耳元で静かに歌ってごらん」
 ~~
 ▼ 友人に裏切られ、全財産を失い、荒れた暮らしで体を壊し、不治の病に冒され、ひとり寂しく
 死の床についている男がいた。突然、目の前に妖精が現れて言った。 「どんな願い事でも構いません
 ので、あなたがかなえたい事を3つ言ってください」 男は即答した。「友情と財産と健康が欲しい!」
 そして、感激して男は続けた。「ありがとう!もう何と言ってよいのか..」
 「いいえ、どういたしまして」妖精は答えて言った。「こちらこそ、アンケートに御協力いただき、
 ありがとうございました」
・・・・・・・・・
2754, 世間とは、一人ひとりの人間の繋がり
 2008年10月19日(日)
「世間」については何度も「身近な数人の縛り付けられた小さな常識の網でしかないと!」と、否定的な
 意味で扱ってきた。それでは「世間」とはいったい何か?を、岸田国士が「恐怖なき生活について」で、
 次のように書いている。
【「社会」という概念とは一致しないが、その道徳と習慣と、特に群集心理によって支配される意志表示
 とを重くみた考え方で、それはまた、自己保存のほかなんらの理想をもたず、非情ともいうべき形式的
 な掟の上にたち、 すぺての異分子的存在を排撃する本能のきわめて目立つ、地域的、時代的に限られた
 一社会を指すものと思われる。】 と・・・、 簡潔で分かりやすい。≪世間=非自由≫と割り切って、
 沈み込まないように意識をしてきた。しかし、次の 佐野洋子の「私の猫たち許してほしい」の文章に
 出会い衝撃を受けた。
【 ある時、通りの下から二人の女の声が聞こえた。一人は相手をたしなめているようだった。もう一人は
 その人よりも若いらしく、とぎれがちにいいわけをしているようだった。ずいぶん長い間、ひそひそと
 立ち話をしているけれど、ことばは聞こえなかった。あるいは二十歳の私には、水商売の女の人たちの
 話に興味がなかったのかもしれない。
「あなたそんなことをしていると、世間が狭くなるよ」ということばだけがはっきり聞こえた。
 そしてあとは静かになってしまった。私は、「世間が狭くなる」ということばを初めて聞いた。
「世間」ということばが、私の知っている「世間」ではない様子をして、ありありと私に見えてきた。 
 私には、「世間」というものは、目に見えないものであった。漠然と私をとりまいているものであり、
 少し古めかしい、少し私を束縛するものであり、とりはらいたいものであった。その時はじめて、私は
‘世間というものが、一人ひとりの生きている人間のつながりである’ということを理解した。】 
  が具体的で分かりやすい。 これからすると、世間を否定することは人間を否定することになる。
   (字数の関係でカット2010年10月19日)
・・・・・・・・・
2007年10月19日(金)
2390, インターネット社会の凄み        オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪
連日のようにインターネットを介在したサイト犯罪が話題になっている。自殺サイトの自殺依頼による殺人、
見知らずの男がサイトを介在して集まっての殺人事件、円天というネズミ講の応用の詐欺もサイトを巧妙に
利用したものである。「フラッシュ・モブ」という新しい現象も起きている。インターネットを通じて広く
呼びかけられた群集が公共の場に終結し、あらかじめ申し合わせた行動を取る即興の集会。 
  (字数の関係でカット2009年10月19日)
・・・・・・・・
2006年10月19日(木)
2025, 「私」のための現代思想  -13       オッ(*^○^*)ハ~
 個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」によって《私》となり、最初の
「超越確実言明」を行うということです。簡単に言えばー「私}を認める者の存在ーを通して《私》になる。
その一番最初は、普通は母である。 初めの他者が母である。両親によってタップリ愛情を注がれた子は、
初めの出会いで、その存在基盤が強固になるのである。その基盤の上に「超越確実言明」が成立し、《私》は
強固になっていくのです。両親の愛、特に母親の愛は《私》の基盤を決定する。「ごうの虎」の年に生まれた
人は気が強い!という言葉を聞かされて育った女性が、それが「超越確実言明」になってしまえば、気が強く
なってしまうのも当然である。代々婿取の家系での長女で、A型で、ごうの虎年生まれで、男子高校を卒業で、
中途半端な短大卒で、両親にタップリ愛情を注がれて育った、ときた分には、亭主としてたまったものでない。
誰の話??何の話??強固の《私》の基盤の人の実例の話。
 ---
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味-?
   *「共振」のエネルギー -
私たちにとって<他者>とは、私たちが<出会い>を経験したすべての人たちです。 私たちが出会い、
その存在を知りえた相手は、それがたとえ直接には顔を見たことのない人であっても、既に亡くなっている人
であれ、「私」にとっての<他者>であり、この「私」の存在を引き受ける者となりえます。出会いのある
ところ、多かれ少なかれ、必ず共振が発生します。そして、それによって《私》にエネルギーが与えられます。
このエネルギーは、消費されない時は、「私」の内部に滞留し、消費された時には、「外部への振動」と
なってあらわれます。人は、生きている限り、共振しつづける存在です。
   *「私」が《私》となる瞬間 -
初めて母親の声を聞いたとき、「私」が個体としてこの世界に生まれてきて初めて「私」=《私》は
「私は私が母の声を聞いたことを知っている」という「超越確実言明」を行います。これは、言明の正しさ
の基礎となる「超越確実言明」のうちで最初に発生するのが、「私が存在する」ではなく「ある他者が存在する」
であることを意味しています。そしてこのとき同時に、《私》の存在の基盤が与えられます。それは「私」が
《私》になる瞬間です。個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」です。
個体としての、物質としての「私」は、「存在を引き受ける者」によって《私》となり、最初の「超越確実言明」
を行うということです。「超越確実言明」の強度は、論理的な正しさによるものではなく、「《私》の存在」の
強度に支えられています。そして「《私》の存在」の強度は「<他者>による引き受け」によってその力を増し
ていきます。頑健な「超越確実言明」の上には、堅牢な「論理」を構築することができます。そのようなとき、
その論理によって構築される<言葉><価値><物語><世界>は、頑強な「個別の正しさ」を
持つことになります。
   * 弱い「超越確実性言明」-
逆に、<他者>によって「厚く引き受けられない」とき、「《私》の存在」は強度を弱め、
「超越確実言明」も弱いものとなっていきます。そうすると「超越確実言明」を基盤として、
その上に<価値>や物語>をつくり上げることが難しくなってしまいます。
前に書いた、「仮面」を思い出してみてください。仮面と、その下の顔の関係です。
「仮面」が役割であり、「その下の顔」が「私は~である」という形式の「超越確実言明」です。
芝居を上手く演じるには、ある程度その「舞台」、つまりは<世界>に没入しないと上手くいきません。
「没入できる」ということは「戻ることができる」ということが前提です。
(字数の関係でカット2010年10月19日)
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2005年10月19日(水)
1660, 「人生の実りの言葉」          読書日記
中野孝次」著の「人生の実りの言葉」がよい。その冒頭の「愛」についての言葉が胸に
突き刺さる。愛について、これだけ解りやすくストレートに語っている言葉も珍しい。 
 ーまずは、その一説を書いてみる。
1、愛について
 わたしの誕生を司った天使が言った 喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ
行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも ( ウィリアム・ブレイク )
わたしがこの詩句を知ったのは、ドイツの作家H・E・ノサックの小説『盗まれたメロディー』を訳して
いるときだった。小説の中ではこれは流行歌の歌詞としてさりげなく出されていたのだが、わたしは
ただちにこの言葉の魅力にとらえられた。こんなに直戟に愛というものの性質を示した言葉があるだろうか、
とおもった。この詩句の要である”Go Love”という二つの単語を一つにしたところに、この詩の
すごさがあるのである。一方的な、自発的な、無限の無償の行為としての愛の性質が、そのことによって
くっきりと描き出された。ノサックはこの詩句の背後にはこんな思いが潜んでいるのではないかとして、
『絶望のむこう側にだけ、ひょっとすると、他人を助ける可能性があるかもしれぬ。』という章句を書いて
いるが、たしかにそういう冷えきった荒涼たる背景の中からこのほとばしるような命令「行きて愛せ」が
発せられたような気がする。ブレイクは愛の詩人と言っていい。
 ひとの悩みを見て  自分も悲しまずに おれようか?
 ひとの嘆きを見ながら いたわり 慰めずに すまされるか?  「ひとの悲しみを」寿岳文章
そういうブレイクの生涯の思いを圧縮した言葉が、ここに引用した”Go Love”だとおもう。
こういう言葉は一度心につきささると忘れられないものになる。
そして折々に心のうちに浮かびあがって、われわれの人生をみちびく。それが真なる言葉の力だ。
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以上だが、この「行きて愛せ」という言葉は実に力強い。
ひさびさに素晴らしい言葉に出会った。 いま一度復唱してみようわたしの誕生を司った天使がいった
喜びと笑みをもって形作られた小さな命よ行きて愛せ、地上にいかなる者の助けがなくとも
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2004年10月19日(火)
1295, 地球交響曲 第四番 ー1
 先日、BS/TVで、第四番を放映していた。地球交響曲第一~第三番は、知人の紹介で(自主公演を)
新潟、長岡などの公共施設の会場で見ていた。TVでの放映は殆どされてないようだ。 このシリーズで
言わんとしていることを要約すると、ー地球は、それ自体が大きな生命体であり、全ての生命、空気、
水、土などが有機的につながって生きている。これをGAIAというが、テーマを背景に、この地球の
素晴らしさを紹介していると同時に、環境破壊の実情を提示している。第四番では、霊性について、
以下の4人を通して、地球の賛歌を歌っている。
・ガイア理論の提唱者のジェームズ・ラブロック、   
・沖縄の版画家の名嘉 睦稔
タンザニアチンパンジーの研究家の ジェーン・グドール
・そして、ハワイのさーふぁー ジェリー・ロペス である。
第四番(いや、このシリーズで)の内容を要約すると、
ー21世紀は、人類にとって“霊性”(スピリチュアリティ)が求められる時代になる。
         (字数の関係でカット2008年10月19日)
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2003年10月19日(日)
928, 介護関係の現状
 介護関係の施設や法律を調べ始めて二ヶ月経つ。一日一日が新鮮な情報が、どんどん入ってくる。
その情報の一つ一つがパズルゲームを解くようだ。開発担当のSさんの母親が現在進行中の介護の状態である。
私も亡くなった母親が軽い老人性痴呆症になり、5年間半の介護経験を持っている。この分野には事業チャンス
があるが、立ち上げに時間がかかる上に法律関係が各省ごとに絡んでいて躊躇する。
 (字数の関係でカット2010年10月19日)
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554, 人生に目的はあるだろか?-2
2002年10月19日(土)

ある雑誌に、たまたま数日前に書いた「人生の目的」について書いてあった。まさに偶然の一致であった。
京セラの会長の稲盛和夫氏の[[何のために生きるか」の一文である。ー人生の目的とは、心を高めることです。
心を純化する。 心を浄化する。人間性を高める。人格を高める。これが人生の目的です。波乱万丈の現象に
遭遇しながら、その現象に対処しながら、自分の魂を磨いていくこと。それが人生の目的です。これを具体的
に言い換えると、世のため人のため尽くすことです。世のため人のため尽くすことが人生の目的と考えてきたが、
心を高めることが、人生の目的であった。そのために仏教の六波羅蜜の修行をしなくてはならない。
一生懸命に働くことが、利他の心を持つことが、そのまま人生の目的になる。仏教的な人生の目的というところか。
果たしてそうだろうか?奇麗事でしか思えないが。別に心など磨かなくても、知らずに磨かれているいるものだ。
心の純化などいうことは、汚れているから言いたくなるのではないか。汚れのない若い乙女に人生の目的など必要
ないことになる。もっとも磨かなければ汚れた小母ちゃんになってしまうか。今日死ぬ明日死ぬのギリギリの人
がこれを読んだら、そうだそうだといわない筈だ。戦争で逃げ回っている人もそうだ。「なにを甘ったるい事
を言っていやがる」と思うであろう。苦しい時に心の修行と思えるのは素晴らしいが。けっして心の純化だけが
目的でないはずだ。
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 [191] 種銭  
 2001/10/19
事業を興そうとした時、まず問題になるのが事業資金である。俗に言う種銭である!これが硬くないと芯に
ならない。資金の芯が甘くなると、事業そのものが甘くなる。二代目とか婿養子が事業で失敗するのが、解って
ないケースが多い。松下幸之助しても、中内功も出発点でそれなりに財産があった。全くなかったのは私が
しっている範囲では、山種証券を興した山崎種三と、国際興業を興した小佐野賢治と、ニュー大谷の大谷ぐらい。
そのくらい種銭をつくるのが大変で時間がかかる。20歳の頃読んだ山崎種三の自伝がおもしろかった。
「米屋小僧をしていた時、鼠を捕まえて警察に持っていくと僅かな報奨金がもらえた。米屋なのでいくらでも
鼠がいる、毎日鼠とりで捕まえ警察に持って行った。親方の許可を得て、その金でヒヨコを買った。落ちて
いる米をヒヨコにやり育て、鶏から卵をとって、それを金に変えこつこつ貯めた。それを元手で成長しそうな
株を買った。そうしてそれを拡大して株師になり株の取引会社までつくった」それをよんだ時、ハッとした。
父親が恐らくその話を知っていたのではと思ったからだ。


 新潟知事選で与党敗北 野党系・米山氏当選 柏崎刈羽の再稼働困難に
 任期満了に伴う新潟県知事選は16日投開票され、無所属新人の医師、
米山隆一(49)=共産、自由、社民推薦=が、前長岡市長の森民夫(67)
=自民、公明推薦=ら無所属新人3人を破り、初当選を果たした。
東京電力柏崎刈羽原発(同県柏崎市など)の再稼働に反対する共産党など
野党の後押しを受けた米山氏の当選で、政府や東電が推進する再稼働が困難に
なる可能性がある。投票率は53・05%で、過去最低だった前回の
43・95%を9・10ポイント上回った。(産経新聞)》