* 「現象界」「理想界」とは何のことだろうか。
              〜『哲学で自分を創る』瀧本往人著より
 日常にある「現象界」と、頭に浮かぶ「理想界」とは、そもそも何だろう。
その辺りを、『哲学で自分を創る』瀧本行人著に、分かりやすい内容があった。
青年期の理想に燃えた時、現象界そのものが、輝いて見えていたが、現在では
自ずから大きく違って見えている。人生を振り返ると、現実世界は、まんざら
悪くもなかったし、幻滅するほどでもなかった。 〜まずその部分を抜粋
≪・当たり前だが、世界は、ある人間の意のままにはならない。しかし私たちは
 そのような世界を想像することができる。この想像した世界が「理想界」。
 そしてそれを可能にしているのが理性。
・「現象界」とは単純に、日常的に把握できるありようだ。普段見えている
 この世界、感じとり生きている日常、である。
一方、「理想界」は、むしろ日常から離れて空想したり想像したりする。
もう少しカッコよくいえば思索したりする中で現われる想念とでも言おうか。
現象界においては、人それぞれの経験によって認識対象が異なって把握される、
ということは、人種や民族、大人と子ども、男と女によっても、私とあなたに
よっても、それぞれ異なって立ち現われるということである。更には時代も
異なればまた別の様相を持つことになる。だが実際人は、言葉を使って、
いろいろなものを一つにまとめあげ説明することができる。それが経験である。
現象界には直接存在しないものを、言葉、概念、用語、カテゴリーによって
まとめあげることによって、それらはこの世に登場してくる。
カントのこのような認識論は、理想界への言及と平行に走る両輪であった。
実際彼の大学での講義内容は人文地理学や「実用的な見地からの人間学」が主で
あったが、彼は現在ロシア領となっている一商業都市であるケーニヒスベルク
から一歩も外に出ることなく世界の諸現象を語ることができた。そしてカントは、
このとき「理想界」という抽象的なものを打ちたてることによって、人類共通の
普遍道徳のようなものがありうる、という議論をも可能にした。この点が重要な
意味を持ってくる。 いずれにせよ、デカルトやベーコンが人間の理性は
無際限に活用しうると考えていたのと比べると、理性に対するこのようなカント
の線の引き方は、まさしく「批判」であった。つまり、「非難」ではなく、
「限界づけ」なのである。そう考えると、私たちが「敵」と認識する対象は、
それが「敵」であると思うかぎりは、「敵」でしかない。敵という概念にある
人物やあるイメージをあなたが付与した時点で、その敵は、現実にそこにある
対象となると同時に、あなたの想像の産物にもなる。・・ ≫
▼ 「現象世界を、言葉を使って、一つにまとめあがることが、経験」とは、
 分かりやすい。体験を時間の経過をして言葉とイメージを記憶として、残った
のが経験ということ。我われは、どうも現象界と理想界を、混同してしまい
がちになる。しかし、現象界の中での理想界を思い浮かべる視線も必要である。
世界は想像の産物の幻想・幻覚なら、「幻滅界」もあって然るべき。
ところで、秘境ツアーなどで世界の観光でみた光は、これまで経験した、
「理想界」や「現象界」を遥かに超えたものだった。 理想世界は、想定内で
しかない。そのことを、まずは実感してみないと! 理性、感性より至高体験
・・・・・
4798,年金破綻報道の罠 ー①
2014年05月04日(日)
<世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論>ー細野真紘(2014年の論点100)
   * 年金の根本的誤解
 これを読むまで、年金を根本的誤解をしていた。<「それで老後の生活は十分」
というものではなく、あくまで「老後の最低限の 補助」という位置づけ>という。 
そうすると、我われ国民が、ほぼ誤解していることになる。我家も、家内の預金
を取崩し、年金に加えて生活しているが、この根本の考えが間違いだった!
 ーその辺りからー
《 年金について、TVでよく次のような街頭インタビェーが出てきます。記者
「あなたの年金で生活は十分ですか?」年金受給者の主婦「いや、月5、6万円じゃ
全然足りない。だから、仕方なく預金を取り崩さないといけない状態だ」
このようなやりとりが、何の疑いもなく放送され続けているが、これに基本的な
「誤解」があると気付いている人はどれほどいるのでしょう? まず、この記者の
質問自体がおかしいが、そもそも年金は、「それだけで老後の生活は十分」と
いうものではなく、あくまで「老後の最低限の補助」という位置づけ。
だからこそ昔から人は、自分自身で貯金をするわけです。これは、特に、日本
のような「低負担」の国では必然的な行動の結果です。 さらに言うと、
インタビェーでコメントしている入も、誘導尋問に乗っかっておかしな発言を
しています。それは、そもそも貯蓄は「老後の備え」として貯めていたわけで
「老後に取り崩す」というのは、極めて当然の行動のはず。それなのに
「国に感情をぶつける」ように答えてしまっているのです。なぜこの「矛盾
だらけのテレビ報道」に対して、これまで誰も疑問を抱かなかったのでしょうか? 
これは、一言でいうと「社会保障に関する教育の欠如」に尽きます。つまり、
教育が全く機能しでいないので、視聴者が判断できなくなってしまっているわけ。
 では、どのように「国の年金」を捉えておけばいいのでしょうか。これは、
日本の年金とは「老後に国から死亡するまでもらえるお弁当」だと捉えて
おくとイメージもしやすいし、根本的な誤解も減っていきます。・・・ 》
▼ 弁当の飯とおかずの例えが,解りやすい。ということは、大部分の人たちは、
 老後は飯だけの生活が待っていることになる。 ネットで中小企業の数を調べて
みると、【 2006年で、420万社で我が国の企業数の99.7%を占め、中小企業の
従業者数は2,784万人で我が国の雇用の約7割を占めている。また、国民総生産の
約2割を占める製造業においても、2008年には、中小企業は48.4兆円と製造業
付加価値額の約5割を占めている 】とある。そうすると、国民の多くの老後に、
 決して楽ではない生活が待っているのが現実。それから考えると、少ない
給与の中で2割は別途積立など蓄財が必要になる。 消費税の3%値上げや、
インフレターゲットなど、国民にとって、実際には、聞捨てにならないこと! 
・・・・・・
4431, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −3
2013年05月04日(土)
         ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 * ルート2:直ぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道
                       (時間的俯瞰思考の道)
 人はいずれ死んでしまう。直ぐか、そのチョッと先かの差でしかない。 
で、悲観的になるか、楽観的になるか。誰もが楽観的の方が良いと思うが、
悲観も時に必要。ブラック・スワンが80年の人生のスパンに、必ず何羽かが
舞い降りる。思いもよらないことだらけ、これが人生。だからハリケーン
地震多発地帯の住宅ではシェルターが必要。それを人生にも組込む必要性がある。
そのためにも悲観は必要。悲観のレールに楽観の列車で走れば良い。 
  ー次の箇所が面白い!ー
≪ 人生は絶望か、希望か?では、本質的には意味のない人生を、どう生きれば
 いいのだろうか。以下の二つの方向性がある。
(1)どうせ人生は無意味なんだから、はかなく悲しい、と絶望に向かう生き方。
(2)人生には定められた意味などないんだから、人生の足かせを取り去り、むしろ
 自由に人生をデザインして軽やかに生きていこう、とう希望に向かう生き方。 
(1)と捉えるか、(2)と捉えるか・・ 
あなたはもともとお金を持っていなかったとしよう。ところが何らかの理由
で今は一万円をもっている。しかし何らかの理由で、そのお金はなくなる。
これをどう捉えるか。どうせお金はなくなるんだから、はかなく悲しい、と絶望
するか、たまたま一万円持っていると希望を持つか。これと同じだ。あなたは
もともと生きてなどいなかった。ところが、何らかの理由で今は生きている。
しかし、いずれまた無に戻る。中島義道だったら「この世に自分の意志ではなく
生まれさせられ、苦しみあえいで生きねばならないから、はかなく悲しい」
と絶望するかもしれない。 (1)型の捉え方だ。 
 しかし、見方を変えれば「なんと幸運なことに、何の因果か、たまたま、
生きているかのような幻想を一的に手に入れた。なんてラッキーなことか」 
これが(2)だ。 つまり、人生とはあぶく銭。生まれる前には何もなかった。
ところが、何の因果か、宇宙ができ、有機物の塊が生物になり、それが進化
して、人間になった。その中の一人として、何の偶然か、あなたが生まれた。
生まれたての時は、何も考えなかったが、脳が成長・学習して今に至った。
これがラッキーでなくてなんだろう。あなたにとって、宇宙史上最大の
ラッキーの一つ。死刑というより、恵みだ。信じられない、鮮烈な奇跡である。
そんな奇跡を楽しまずして、この奇跡が再び失われてしまうことにフォーカス
を当て続けるなんて、もったいない。それよりも、この刹那の偶然を、
大いに楽しもうではないかが、それが、(2)だ。
 一万円を得たこの奇跡的な現在を喜ぶか、その一万円を失う未来を憂うか。
その違いが(1)と(2)の違いだ。(1)は、いま一万円を持っていることから出発
しようとするから、失うことの絶望に向かう。それって近視眼的ではないか。
一万円を得たという既得権は、既得権。それは当然としておいておき、一万円の
維持にフォーカスしている。それよりも、人生をその始まりから俯瞰する視点に
立ち、もともとゼロだったものが一万円になったこの人生のあぶく銭を楽しもう
ではないか、というのが(2)だ。 視野が広い。 ルートと関連付けるなら、
今一万円を持っていると思っているのは、幻想だ。本当は持っていないのだ。
誰かが「自由に使っていいよ」と言い、そっと貸してくれたのだ。
このラッキーな一万円を、幻想だと知りながら、ぱーっと使おうではないか。 
そして、なくなったら、なくなったとき。くよくよしたって仕方がない。
もともと持っていなかったのだ。・・・ ≫ 
▼「要は生のラッキーを楽しみ、死の恐怖を超越すべし」からすると、
 この辺りを理解してないと人生を誤る。それを教えるのが親の務めである。
必要なのが教養。生まれたときからの環境などが備わっているかどうかもある。
幸せな家系は幸せに、不幸な家系は幸せになる傾向が強い。26歳で千葉で、
34歳で新潟駅前で創業を決意をした時、特に新潟駅前の時は、500%の成功する
だろうという確信があったが、兎にも角にも、何にも知らない業種。土地の時価
を含めて当時の私の能力からして、やはり博打。魂が震える思いである。
で、自然考えたのが、上記のこと。「せっかく与えられたチャンス。もし失敗
しても、全てを失っても後悔はしない」と!だから現在、さばさばしている。
  万一の備えはしていたこともあるが・・ 人生も、「ご覧のとおり、
そのまま結構!」と、開き直りか。 日々是口実!
・・・・・・
4057, 随想日記も12周年
2012年05月04日(金)
 11年前の5月4日にHPを開設してから連日、ほぼ休まずに掲載してきた。
旅行時は知人に頼んで書きだめしたのを当日ごとにアップしていた。12周年
を期に気楽に休むつもりである。休み癖をつけると続かなくなる心配が逆に、
ここまで続けることが出来た。内容はともかく、「自分に納得できる文章に
すること」を心掛けてきた。毎日、同月同日分の10年分を読み返しているが、
手を抜いた文は少ない。 大相撲、全日本柔道選手権、新年とか殆んど欠かさず
同日に、同テーマの感想を読むと不思議な奇妙な感覚になる。読んでいると、
変わらない自分と、変わってしまった自分に気づくことがある。ここまで書き
ためると自分自身の墓場そのもの。飾ろうにも飾ろうとしている自分が現れ出る。
従って正直に書くことになるが、それが人を大きく傷を付けてしまう。
言葉の力は大きい。大まかに、「読書日記」「過去の思い出」「現在の社会現象
と分析」「つれづれに」「箴言」「新たに知った言葉」などに分けられる。
「書くということは、書き続ける自分を維持するための行為」ということに
気づいている。思いを、印象を、書き出すということは一度、脳から文として出し、
吟味することになる。書く行為そのものが考えることになる。毎日、読み返し
11年分の自分に出会っているが、そこに自分の小さな歴史をみている。 
もし書いてなく、完全忘却をしたら、元々、何も無かったのと同じでは?と思う
ことさえある。 実家の事業を5年足らず携わった時、気持ちの余裕が無かった
こともあり、写真も、日記も殆んど残っていない。書き残していたら面白い断片が
数限りなくあった。大変だったが自分の力が十二分に発揮できた時期だった。
このシリーズは心底では自分に120点。だから逆に書き残さなかったのが
良かったとも言える。 おいおい、その時のことを書くつもりだが・・
また人を傷をつけるのか? 毎日、書き出す習慣も慣れるとゲーム感覚になる。 
ネタ切れの際(きわ)に常に立っているスリルと苦痛が逆に面白味を増す。
・・・・・・
3691, 自己を見つめる −13
2011年05月04日(水)
         「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  * 運命について  ーp226
【 ハイデッガーの言い方に従えば、私たちは存在の真理の「呼び求める促し」
 の中に立たされていることになる。私たち人間は、そうした運命的なものの
呼びかけに聴従せざるをえない、あり方を、根底に宿し、それに聴従することに
よって初めて、真に生きることを果たしうるものというように捉えていった。
 ・・ 自己と歴史の由来を、その根源から聴き取って、それをその将来と結び
つけることによって初めて、人間は、自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り
当てることができるようになると説かれたわけである。ここに、現代における
 優れた運命思想の一つがあると言っても過言ではない。ハイデッガーによれば、
私たちは、この世の中に生きるときに、予期しえない形で「降りかかってくる」、
さまざまな「偶然」の出来事にさらされているのである。ということは、
人間は、出来事の出現をすべて見通し、それを支配することのできる神ではない
ということである。人間は、非力で、無力なのである。 しかし、それでいて、
人間は、自分なりの情熱と威力において、自己の本来的存在の証を立て、それを
刻み残そうとする。そうした覚悟のうちで初めて、立ちはだかる宿命的な困難と
格闘しながら、人間は、真の存在の呼びかけを、運命の声として聞き取りつつ、
それに聴従して本来的に実存しようとするのである。ここに、優れた運命思想が
あることはたしかである。 】
ー 
「運命」について、考えさせられる内容である。(存在の真理の「呼び求める促し」
に立たされ、運命的なものの呼びかけに聴従せざるを得ない、あり方を、根底に
宿し、それに聴従することによって、真にいきることを果たしえる」
これが運命に従って生きるということである。これが本来的に実存しようとする
ことである。それぞれ天命、宿命、運命がある。その中で、運命は自分で切り
開いていくもの。 自分で真の存在の呼びかけを聞き取り、聴従し、実存しようと
することである。そうこう考えると、運命に対する見方が変わってくる。 
自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り当て、前に進むことが運命に従うこと
になる。それとて、下記のような虚無的見方からすれば、些細なことでしかないが。
・・・・・
3326, 人みな骨になるならば ー12
2010年05月04日(火)
 この著書は、蓮如上人の「白骨の御文章」と「般若心教」の視点から、
当たり前と信じている日常の思い込みを一つずつ取上げ、その根拠を潰している。
何かにとらわれり、行きづまった時に、この書は、それが如何に取るに足らない
ことかを諭してくれる。葬式や法事で参列者全員がこの「白骨の御文章」を読経
することがある。死を第三者でなく自分に当てはめて考えさせるためである。 
 そこで改めてネットで検索して、コピーしてみた。 
   ー蓮如上人の「白骨の御文章」ー
≪ それ、人間の浮生なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡そはかなき
 ものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。 されば未だ万歳の人身を
受けたりという事を聞かず。 一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つ
べきや。我や先、人や先、今日をも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、
本の雫・末の露よりも繁しといえり。されば、朝(あした)には紅顔ありて、
夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二つの眼たちまち
に閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて李の装を失いぬるときは、
六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき
事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというも中々おろかなり。 されば、人間のはかなき事は老少不定のさかい
なれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみ
まいらせて、念仏申すべきものなり。≫
ー以上だが、父の生前の口ぐせ、「死んでしまえば(生きている方からすれば)
それまでよ!」である。あるのは、いま、ここ、だけである。過去の、あの時も、
現在も、「いま、ここ」しかない。 一期一会である。それぞれが、いま、ここ、
で生きている。そして、それも、確かに存在していると感じるが、実は幻想。
自分の感覚という器官が能作しているだけである。 夢・幻でしかないのである。 
で、確認で酒を飲む、のか! 
 ・・・・・・・・
2951,人はどうしてオヤジになるか? −2
2009年05月04日(月)
 * 女はどうしてオバサンになるか?
「人はどうしてオヤジになるか?」というなら
「女はどうしてオバサンになるか?」を考えてみたくなる。
  ーそれではオバサンとは、どういう人なのだろか?ー
《30代後半から40歳前後の大きな境目として、女を捨てると同時に
 恥じらいを捨て「怖いものがなくなった」存在で、特に徒党を組むと非社会性が
露出する。 お婆ちゃんといわれる前に、それまで内に圧縮されていたエネルギー
が非社会的行為として露出する歪んだ「突然変異の一時的生きもの」である。彼女?
を見ようと思ったら、デパ地下とか、ホテルのランチバイキングに行くと徒党を
組んだ姿が見られる》 ところで、秘境旅行に行くと、必ずといってよいほど
「離れオバサン」が参加している。これが恐ろしい存在である。具体的に書くのを
憚るほど唯我独善。 今回は、そこまでは書かないでおく。逆に40歳前後までに、
女としても人間としても自分を見つめ、「個」としての自分を確立し、責任を持って
生き、自信に満ちた態度を持てる女性を「マダム」という。それに対しオバサンは
自己管理ができないで、集団化した第三の性化した存在。
 (以下は字数の関係でカット。2012年05月04日)
 ・・・・・・・・・
2587, 幸福大国ブータンから、幸せとは何かを考える
 2008年05月04日(日)
 国民の97%が幸福と実感し、自殺者ゼロの国、40年前には国土の5割以下だった
森林面積が、現在は7割以上に回復し、経済成長ではなく「国民総幸福」を国の
指標とし、独自の「豊かさ」を目指すブータンという国がある。数年前にTVの
ドキュメントで見て気になっていたが、図書館で、この国の第四代国王王妃が、
その国の素顔とブータン人の死生観などを書いていた本を見つけ早速読んで
みたが、何とも心の豊かさが滲み出ている内容であった。 ブータンの幸せ
指数世界一だが、物資や食料の欠乏は、心の貧困には繋がらない証明になる。

つれづれに

イメージ 1

d他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

 
 今日のYoutube

以下にコピーした、7年前、8年前の文章が面白い!
現在の年齢、状況からみたら、この心境は、より理解できるが。
何か、高度経済成長時代に青年期、壮年期を生きてきたためか、
何か一旗をあげないとと思い込んで追われるようにきた。

そして、前期高齢者も半ばにきて、やっと毒気が抜けてきた
現在、この文章を読むと、色いろと考えさせられる。どの道、
同じことでしかないということを・・・

5月4日といえば、14年前に随想日記の個人HPを立ち上げた日。
あれから5000の文章を書き続けてきた。 あまりに正直に書き続けた
ため、何処かの銀行に貸し剥がしにあいそうになったり、色いろあった。
テーマのネタ探しを含めると、一日、平均2~3時間の集中した
エネルギーをとられるが、それが、ミニ意識の集約として、
意識下に、時間と共に集合していくのが分かって面白い。




・・・・・・
2587, 幸福大国ブータンから、幸せとは何かを考える
2008年05月04日(日)

 国民の97%が幸福と実感し、 自殺者ゼロの国、40年前には国土の5割以下だった
森林面積が、現在は7割以上に回復し、経済成長ではなく「国民総幸福」を国の指標
とし、独自の「豊かさ」を目指すブータンという国がある。数年前にTVのドキュメント
で見て気になっていたが、図書館で、この国の第四代国王王妃が、その国の素顔と
ブータン人の死生観などを書いていた本を見つけ早速読んでみたが、何とも心の
豊かさが滲み出ている内容であった。
 
 ブータンの幸せ指数世界一だが、物資や食料の欠乏は、心の貧困には繋がらない
証明になる。物質社会・競争社会に溺れる日本人は特に、学ぶ必要がある。
ブータンの国語・ゾンカには「幸せ」を意味する言葉はないという。
それでも国民の97%が、「幸せかどうかと言われると、決して不幸ではない」
と答える。経済的な豊かさを手に入れるためには、いろいろなものを手放さな
ければならない。 その手放してしまったものが何か充分に考えてみる必要がある。
 ブータンの存在そのものが、物質社会、競争社会へのアンチテーゼになる。
 ~~
インターネットで検索をしたら、次の紹介があった。
ーー
 ブータンは、ヒマラヤ山脈のほぼ東端の南斜面に位置する小王国。人口約55万、
面積は九州をひとまわり大きくしたくらい(4万6000平方キロメートル)で、
緯度は沖縄とおなじくらいに位置します。 17世紀前半に、チベット大乗仏教
の一派(カギュ派)の化身高僧によって国として統一されてから、これを国教とし、
その歴代化身系譜を聖俗両面での最高権威者・権力者とする、いわば「仏権」
政治体制がつづいてきました。1907年からは世襲王制となりましたが、仏教が
国教であることには変わりなく、現在でも国民の大半は信心深い仏教徒です。 
その意味でブータンチベット仏教最後の砦とも言えます。
地政学的には中国、インドという二つの大国にはさまれていますが、
標高差の大きい豊かな森林と肥沃な土地で自給自足できる、アジアの中でも
恵まれた国です。近年、「国民総生産」にかわる「国民総幸福」を提唱する国
として、そのユニークな環境政策や近代化政策が、グローバル化によって
生ずるさまざまな問題への批判的文脈のなかで紹介されることも多くなっています。
第4代ブータン国王こそ、「国民総幸福」という考え方を世界に問うことで、
国際社会に中におけるブータンの存在感をたしかなものとした人なのです。
ブータン社会とはどのようなものなのでしょうか。
またそこに生きる人々は、どのように暮らしているのでしょうか。
 ーー

 ブータンも決してユートピアではないが、純朴な社会に生きる国民性が
「よりよく生きる、とは?」「より人間的である、とは?」を考える意味で大きなヒント
になるだろう。自然環境が一種の鎖国状態をつくりあげ、現代の奇跡的国民性を
つくり上げたといえる。あまりにも、アメリカナイズされて一種の薬物づけされた
日本人にとっての反省材料を多く含んでいるだろう。 97?が幸せと実感している
国があるとは驚きである。まったく勝ち組、負け組とか、何じゃい、それ!だろう。
世界の幸福度を国連が調査した資料も検索で調べたら出てきた。
主観的な幸福度では中南米の人たち、それも小国ほど、高い結果になっていた。
ちなみに日本は中位であった。物理的なものを加味すると、デンマーク
スイス、オーストリアスウェーデンであった。

・・・・・・・・・
2007年05月04日(金)
2222, 平凡って幸せなの?  -2
       ♪ヾ(*'ー')*'ー')*'ー')/" オッハヨウ!

平凡って幸せなの?という、何気ない家内の質問に、
「そういえば、平凡など考えたことがないし、平凡の日々を過ごしていながら、
平凡を嫌って生きてきた自分に気がついた。」というのが本音である。
しかし過去を振り返ると、平凡な日々のなかにこそ人生の真実があったように思える。
しかし、これも縦に立ち上がっている、問題の陰に隠れてしまって記憶には残らない。
記憶に残らないということは、無に等しいと思いがちになってしまう。
ただ合せ鏡で平凡の生き方をしている人を見ると、やはり?とも、思ってしまうが。

「平凡とは?」と検索をしたら、面白い質問に行き当たった。
まずは、その部分を・・・
ーー
<平凡な生活に対する疑問>
「毎日を平凡に生きている人間って、どうして生きているんでしょうか?
はっきり言って僕は、そういう人間は死んでしまってもいいと思います。
毎日何も変化のない暮らしというのは最も最低な人間の生き方と思うのですが・・
みなさんはどう思いますか? 」
ーー
この答えが、面白いので後にコピーしたが、平凡は一番身近の問題であり、
過去には多くの人が名言を残している。ところで平凡って何だろうか?
非凡とは何だろうか?考えてみたら非常に難しい問題である。
「死んでしまえばよい」でなく「死んだも同然」と言えば良いのだ。
「死んでしまえばよい」でなくては「釣り質問」にはならないか?

ところで、若い時に「こんな生活を送っていて良いのだろか?
もっと良い生き方が在るのじゃないか」と何時も思っていた。
今でも、「二度とない人生、悔いのない一日を過ごすよう心がける」が、
私の信条の一つである。これも「平凡の人生を否定する言葉」ではないか。
平凡に対する、テーゼ・アンチテーゼとして、
自分で何時も問答をしなければならない問題である。

===
 *投票でベストアンサーに選ばれた回答
====
「あなたのいう「平凡」=「変化がない」ですか?まずは平凡に生きてみてください。
こんなに難しいことはないでしょうから。平凡に生きていたいです。 」

 ====
*ベストアンサー以外の回答
 ====
「平凡こそ幸せです。どのような人生が、素晴らしく最高なんですか?
非凡に生きるってどういうこと? 忙しくで自分の時間も持てないくらいに
仕事してるってこと?平凡の中でも、充実した人生があります。
もう少し年取ったらわかります。」
ーー
「平凡な人間は死ねですか。まるでどこぞの独裁者ですね。
ご自分がどれだけすばらしい人生を送っていらしゃるんですか。
人間一番不幸なことは自分の愚かさに気付かないことです。」
ーー
「人間って色んな人がいるし、色んな考えがあるとは思いますが、
ここまで私と逆の考え方の人間がいるとはビックリです・・・
なんだか寂しい気がします。私は平凡な毎日こそ最高の幸せだと思います!
ではあなたの言う最高の生き方ってどんな生き方でしょうか?
命があるっていうことだけでも最高の人生と私は思いたいです。」
ーー
「毎日を平凡に生きる」ことがどれだけ難しいことかわかってないな。
けつの青いガキが寝言言ってんじゃねえ。」
ーー
「視点を変えてみれば、あなたが常に変化を求めるのは、自分自身に
ある凡庸からの逃避ではないでしょうか。非凡な人間になりたいという
願望を持つという意味で平凡ではないですか。
変化を求め続ける限り凡庸はついて回ると思いますよ。」
ーー
以上だが、なかなか含蓄がある答えが多い。平凡、非凡を何を持っていうのか
という問題にもなるが、王陽明に影響を受けた我が長岡藩の河井継之助
「天下になくては成らぬ人になるか、有ってはならぬ人となれ、沈香もたけ
屁もこけ。牛羊となって人の血や肉に化してしまうか、豺狼となって人間の
血や肉をくらいつくすかどちらかとなれ。」と凡庸の行きかたを諌めている。
まあ、平凡と凡庸は違うだろうが、平凡と「前に進めなくなる」ことは違う。
    その辺も、比較の問題でしかないが・・・

あらためて、平凡とは何だろう?何も考えないで、流されている人を
質問者は問題にしたのだろう。 元々死んだも同然だから、責めること
自体がナンセンスであると、言いたいのだろうが、前に進むとは何?
それが、どうした!という自問自答が出てくるが・・・
うまい飯喰って、笑って、クソたれて、寝る日々のどこが悪いのか?
と言ってしまえば、それまでか!           
               ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
・・・・・・・・
2006年05月04日(木)
1857, HP開設、5周年  -2
            才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)

自分の日々の読んだ本や新聞のポイントを書き出し公表し続けた結果、
インプットの吸収力が数倍強くなった。 アウトプットの加工の過程で、
知的生産を自動的に促すことになる。

その積み重ねは信じられないぐらい自分を成長させてくれる。
思いをそのまま書いていれば誰かが読んでいるはず。そして「どこか深い
ところで自分が自分を納得すればよい」と割り切ることが出来る。

もう一つ良いのは、何年間の同月同日の文章を読み返すことが出来ることだ。
一つの文章を書き上げるのに、テーマ選定を含めると2~3時間がかかる。
5年分を読み返すということは、過去の10~15時間分の自分のエネルギー
に毎日ふれることになる。

これが自分を大きく後押しをしてくれる上に、あとでみる自分の姿も面白い!
過去の自分との対話をすることにもなる上に、忘れてしまった自分の姿に驚く。
また自分の脳を公開していると、他のHPを深く理解できるようになった。
ーー                        ´ー`)y─┛~~

ふと去年の同日の随想日記を読むと、同じテーマで書いてあった。
さらに一昨年も同じテーマである。去年、一昨年の方が、よほど
良い内容である。だから内容が落とせなくなるのである。

過去5年分の同月同日の日記を読むことは、同時に内省をしていることになる。
毎日、自分でもよく続いたものと感心する!が、これらに縛られて
しまうのも不安である。  今さらだが!

ところで、グーグルが高性能な検索エンジンを提供したことで、
ブログは企業やマスコミの大手HPと、同じ力を持つようになった。
それまでは、大手のHPをみていた一般の人が、検索エンジン
道案内にして、あらゆるHPに直接アクセスするようになった。
検索で大手企業も個人のブログも、同じレベルに扱われるようになった。
これは、大革命といってよい。

個人の情報の質も公開数が増えるにつれて、飛躍的にアップしてきている。
あらゆる人が、オープン・ソース化を始めたのだ。オープン・ソース化
することによって、外の情報とリンクして世界と結びついた方が有効で
あることに気がついたのである。今までは、何処かのカフェとかの仲間
同士が情報をやり取りする場と同じことが、検索エンジンのお陰で、
ネット上で可能になってきた。ブログ上のキーワードをクリックすることで
一瞬に他のHPのキーワードにとんでいくようになった。こうなると、
深く情報を追求するのに数秒・数分もあれば、事足りるのだ。
私のHPも根本的に改造しなくてはならない時期にきているようだが・・
                      ヾ(^ω^*) バイ!
・・・・・・・
2005年05月04日(水)
1492, HPを開設して、まる4年

今日5月4日はHPを開設日で、丁度まる4年になる。
海外旅行をしている間を除けば、随想日記をほぼ毎日書いてきた?
一日一つのテーマを取り上げて考えることを、自分に課してきたことになる。
まさか4年も続けられるとは、思ってもいなかった。

久垣啓一の図解WEBというHPに刺激され、糸井重里が「HPを開いて毎日
文章を書き続けている」と知り、自分も挑戦してみようと決心をした。

初めは1000の文章を書き上げることを目標をした。書くテーマが全く思い
浮かばないことが何度かあった。ある本に、その時は「全く思い浮かばない
ことをテーマにしたらよい」と書いてあった。それをテーマにしたこともあった。
しかし、1000を超えた辺りから苦痛度が少なくなった。

「自分が楽しくなければ気持ちが伝わらない」ということも解った。
書き続けていると、自分をドンドン掘り下っている実感が出てくる。
一度書いた文章は、自分から離れてしまうことも知った。
書き上げてしまえばコピーができるし、パート2,3と掘り下げる
ことも可能になる。ネット上の発信基地であり、備蓄基地にもなる。
表現できる場を持っているという実感が自分の心を楽にしてくれる。

このHPの開設と維持で、パソコンとインターネットの世界を身近に引き寄せた。
HPの開設を通して、パソコンをマスターするのが本来の動機であった。
「パソコンは、奈良時代に最新のヘリコプターを持ち込んだようなもの」
というが、{全くその通り!}ということも解った。
これに携帯電話とBS/TVなどが連携して時代を変えていることも実感している。

 話は変わるが、3日前に図書館で8冊の本を借りてきた。
そして、一昨日DVDを三枚レンタル店で借りてきた。
8冊の本の2冊と、DVDの1枚に共通点のテーマがあった。
その内容は明日から、この随想日記で取り上げるが「いま」 についてである。

なぜ、あえてHPの5年目のテーマに「いま」について書くのかというと、
「毎日の、いま」にしか、永遠の入り口・切口がないことが解ったことだ。
その時々の「いま」をパッケージにしている充実感がよい。
「いま」の重要性をつくづく実感するようになった。
「いま」は永遠なのである。 いや、「いま」が永遠になっていくのである。

とにかく4年も経った。やはり1000というのが大きい目安であった。
そして、その辺りから大きな変化が出てきた。次はあと三年の七年が目標である。 
そして、10年。

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たしか去年も同じテーマで、同じような内容を書いたようだが、
内容は全く憶えていない。そして、書き上げた後に去年の文章を読み返してみて、
ほぼ同じことを、一年前にも書いていたことに驚いている。人間なんぞ同じことを
繰り返し考えているに過ぎないことが、読んでいてよくわかる。こんなものか、
少しは掘り下げているのか。一度読んでから、書けばよかったのだろうが。
前の同月同日の文章を貼り付けるのは、いつも書き終わってからだ。

・・・・・・・
2004年05月04日(火)
1127, ホームページを開いて3年

今日で、ホームページを開設し、随想日記を書き始めてマル3年になる。
だいたい二年が続けるかどうかの分岐点になるという。まる3年も、
分岐点であることも間違いはない。毎日書き続けるのは本当に!シンドイが、
あとで振り返った時に続けていた方が良かったと後悔するのが
解っているので、止めるに止めれないのも事実である。
といって、そのつかうエネルギーは膨大である!

常に、何かに急きたてられているような気分である。もっとも、その位の
ほうが良いのかもしれないし、10年~20年後に振り返った時に残っているのは
入れたエネルギーの文章だけかもしれない。いやそれすら、残っていないかもしれない。
三年で、書きたいと思うことは殆んど書いたという実感がある。遺言書といってもよい。

自分自身にプラスになるのは、手に取るようにわかる。特に毎日の随想日記は、
自分の背骨が一本、日々の生活に入った感じだ。毎日、思ったことや、
考えたことを文章化することは、まったく違う領域に自分が入ってしまう。それを、
さらに公開するとなると、自分のノートに書き出しているのとでは全く違ってくる。

同月同日の一年前・二年前書いた文章を毎日コピーしながら読み返すと、
何か不思議な感覚になる。今日からは三年前の文章も毎日読むことになるが、
まったく忘れているから何か変な感覚になる。
知らない自分を見ているような、内省をしているような感覚である。

話は変わるが、ホーム・ページを開くキッカケを書いてみる。
パソコンを手元に置いても、どう使ったらよいか迷っていた矢先に
久恒啓一氏の「インターネット勉強法」の中の「ホームページ」
の勧めを読んで、パソコン教室に通ってHPつくりに入った。

その本には、HPつくりは「自分の墓場つくり」と書いてあったのが
印象的であった。なるほど三年経ってみて、書きたいことを全部書き
出してしまった実感がある。その意味が分りすぎるほどわかった。

はじめは1000回、次に3年と目標をたててきた。
1100回目から、あまり気張らずにリラックスをして楽しもうと割り切った。
逆にそれが良かったようで、それからは肩の力が抜けたようだ。
これからは、趣味として、お遊びのHPとして変身するつもりである。
それまでは、かたく考えすぎていたようだ。
あまり他人から理解しがたいタイプなので、丁度よい手段なのだろう。
それにしても、クソ真面目に、毎日書いているものだ。

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2003年05月04日(日)
760, いかに生きたか いかに生きるか

去年の文芸春秋の12月臨時増刊号の
「日本人の肖像ーこのすがすがしい生きかた」ー
シナリオ作家の舟橋和郎を文章を紹介する。
 文章が鮮明で、半世紀以上前の情景がアリアリと浮かび上がって
くるすばらしい文章である。小林秀雄という人物と、乃木大将の決心と、
舟橋和郎の人物が何ともいえない文章で浮かび上がってくる。
 (以下、字数の関係でカット2,008年05月04日)
 
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2002年05月04日(土)
 396, 光の旅人

三条で昨日見た映画「光の旅人」がなかなか面白い!当たりであった。
昨年の9・11に最も救いを求めていたアメリカで、10月にNO.1に
ヒットに記録された映画という。
ー内容は
以下は字数の関係でカットした、HPのこの日をクリックすると
出てきます。

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2001年05月04日(金)
ウオーキングについて
      ーー
 以下は字数の関係でカットした。

・常識を常に疑う