* 「現象界」「理想界」とは何のことだろうか。
              〜『哲学で自分を創る』瀧本往人著より
 日常にある「現象界」と、頭に浮かぶ「理想界」とは、そもそも何だろう。
その辺りを、『哲学で自分を創る』瀧本行人著に、分かりやすい内容があった。
青年期の理想に燃えた時、現象界そのものが、輝いて見えていたが、現在では
自ずから大きく違って見えている。人生を振り返ると、現実世界は、まんざら
悪くもなかったし、幻滅するほどでもなかった。 〜まずその部分を抜粋
≪・当たり前だが、世界は、ある人間の意のままにはならない。しかし私たちは
 そのような世界を想像することができる。この想像した世界が「理想界」。
 そしてそれを可能にしているのが理性。
・「現象界」とは単純に、日常的に把握できるありようだ。普段見えている
 この世界、感じとり生きている日常、である。
一方、「理想界」は、むしろ日常から離れて空想したり想像したりする。
もう少しカッコよくいえば思索したりする中で現われる想念とでも言おうか。
現象界においては、人それぞれの経験によって認識対象が異なって把握される、
ということは、人種や民族、大人と子ども、男と女によっても、私とあなたに
よっても、それぞれ異なって立ち現われるということである。更には時代も
異なればまた別の様相を持つことになる。だが実際人は、言葉を使って、
いろいろなものを一つにまとめあげ説明することができる。それが経験である。
現象界には直接存在しないものを、言葉、概念、用語、カテゴリーによって
まとめあげることによって、それらはこの世に登場してくる。
カントのこのような認識論は、理想界への言及と平行に走る両輪であった。
実際彼の大学での講義内容は人文地理学や「実用的な見地からの人間学」が主で
あったが、彼は現在ロシア領となっている一商業都市であるケーニヒスベルク
から一歩も外に出ることなく世界の諸現象を語ることができた。そしてカントは、
このとき「理想界」という抽象的なものを打ちたてることによって、人類共通の
普遍道徳のようなものがありうる、という議論をも可能にした。この点が重要な
意味を持ってくる。 いずれにせよ、デカルトやベーコンが人間の理性は
無際限に活用しうると考えていたのと比べると、理性に対するこのようなカント
の線の引き方は、まさしく「批判」であった。つまり、「非難」ではなく、
「限界づけ」なのである。そう考えると、私たちが「敵」と認識する対象は、
それが「敵」であると思うかぎりは、「敵」でしかない。敵という概念にある
人物やあるイメージをあなたが付与した時点で、その敵は、現実にそこにある
対象となると同時に、あなたの想像の産物にもなる。・・ ≫
▼ 「現象世界を、言葉を使って、一つにまとめあがることが、経験」とは、
 分かりやすい。体験を時間の経過をして言葉とイメージを記憶として、残った
のが経験ということ。我われは、どうも現象界と理想界を、混同してしまい
がちになる。しかし、現象界の中での理想界を思い浮かべる視線も必要である。
世界は想像の産物の幻想・幻覚なら、「幻滅界」もあって然るべき。
ところで、秘境ツアーなどで世界の観光でみた光は、これまで経験した、
「理想界」や「現象界」を遥かに超えたものだった。 理想世界は、想定内で
しかない。そのことを、まずは実感してみないと! 理性、感性より至高体験
・・・・・
4798,年金破綻報道の罠 ー①
2014年05月04日(日)
<世界で一番わかりやすい、年金「安心」理論>ー細野真紘(2014年の論点100)
   * 年金の根本的誤解
 これを読むまで、年金を根本的誤解をしていた。<「それで老後の生活は十分」
というものではなく、あくまで「老後の最低限の 補助」という位置づけ>という。 
そうすると、我われ国民が、ほぼ誤解していることになる。我家も、家内の預金
を取崩し、年金に加えて生活しているが、この根本の考えが間違いだった!
 ーその辺りからー
《 年金について、TVでよく次のような街頭インタビェーが出てきます。記者
「あなたの年金で生活は十分ですか?」年金受給者の主婦「いや、月5、6万円じゃ
全然足りない。だから、仕方なく預金を取り崩さないといけない状態だ」
このようなやりとりが、何の疑いもなく放送され続けているが、これに基本的な
「誤解」があると気付いている人はどれほどいるのでしょう? まず、この記者の
質問自体がおかしいが、そもそも年金は、「それだけで老後の生活は十分」と
いうものではなく、あくまで「老後の最低限の補助」という位置づけ。
だからこそ昔から人は、自分自身で貯金をするわけです。これは、特に、日本
のような「低負担」の国では必然的な行動の結果です。 さらに言うと、
インタビェーでコメントしている入も、誘導尋問に乗っかっておかしな発言を
しています。それは、そもそも貯蓄は「老後の備え」として貯めていたわけで
「老後に取り崩す」というのは、極めて当然の行動のはず。それなのに
「国に感情をぶつける」ように答えてしまっているのです。なぜこの「矛盾
だらけのテレビ報道」に対して、これまで誰も疑問を抱かなかったのでしょうか? 
これは、一言でいうと「社会保障に関する教育の欠如」に尽きます。つまり、
教育が全く機能しでいないので、視聴者が判断できなくなってしまっているわけ。
 では、どのように「国の年金」を捉えておけばいいのでしょうか。これは、
日本の年金とは「老後に国から死亡するまでもらえるお弁当」だと捉えて
おくとイメージもしやすいし、根本的な誤解も減っていきます。・・・ 》
▼ 弁当の飯とおかずの例えが,解りやすい。ということは、大部分の人たちは、
 老後は飯だけの生活が待っていることになる。 ネットで中小企業の数を調べて
みると、【 2006年で、420万社で我が国の企業数の99.7%を占め、中小企業の
従業者数は2,784万人で我が国の雇用の約7割を占めている。また、国民総生産の
約2割を占める製造業においても、2008年には、中小企業は48.4兆円と製造業
付加価値額の約5割を占めている 】とある。そうすると、国民の多くの老後に、
 決して楽ではない生活が待っているのが現実。それから考えると、少ない
給与の中で2割は別途積立など蓄財が必要になる。 消費税の3%値上げや、
インフレターゲットなど、国民にとって、実際には、聞捨てにならないこと! 
・・・・・・
4431, 「死ぬのが怖い」とはどういうことか −3
2013年05月04日(土)
         ー「死ぬのが怖い」とはどういうことかー 前野 隆司著
 * ルート2:直ぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道
                       (時間的俯瞰思考の道)
 人はいずれ死んでしまう。直ぐか、そのチョッと先かの差でしかない。 
で、悲観的になるか、楽観的になるか。誰もが楽観的の方が良いと思うが、
悲観も時に必要。ブラック・スワンが80年の人生のスパンに、必ず何羽かが
舞い降りる。思いもよらないことだらけ、これが人生。だからハリケーン
地震多発地帯の住宅ではシェルターが必要。それを人生にも組込む必要性がある。
そのためにも悲観は必要。悲観のレールに楽観の列車で走れば良い。 
  ー次の箇所が面白い!ー
≪ 人生は絶望か、希望か?では、本質的には意味のない人生を、どう生きれば
 いいのだろうか。以下の二つの方向性がある。
(1)どうせ人生は無意味なんだから、はかなく悲しい、と絶望に向かう生き方。
(2)人生には定められた意味などないんだから、人生の足かせを取り去り、むしろ
 自由に人生をデザインして軽やかに生きていこう、とう希望に向かう生き方。 
(1)と捉えるか、(2)と捉えるか・・ 
あなたはもともとお金を持っていなかったとしよう。ところが何らかの理由
で今は一万円をもっている。しかし何らかの理由で、そのお金はなくなる。
これをどう捉えるか。どうせお金はなくなるんだから、はかなく悲しい、と絶望
するか、たまたま一万円持っていると希望を持つか。これと同じだ。あなたは
もともと生きてなどいなかった。ところが、何らかの理由で今は生きている。
しかし、いずれまた無に戻る。中島義道だったら「この世に自分の意志ではなく
生まれさせられ、苦しみあえいで生きねばならないから、はかなく悲しい」
と絶望するかもしれない。 (1)型の捉え方だ。 
 しかし、見方を変えれば「なんと幸運なことに、何の因果か、たまたま、
生きているかのような幻想を一的に手に入れた。なんてラッキーなことか」 
これが(2)だ。 つまり、人生とはあぶく銭。生まれる前には何もなかった。
ところが、何の因果か、宇宙ができ、有機物の塊が生物になり、それが進化
して、人間になった。その中の一人として、何の偶然か、あなたが生まれた。
生まれたての時は、何も考えなかったが、脳が成長・学習して今に至った。
これがラッキーでなくてなんだろう。あなたにとって、宇宙史上最大の
ラッキーの一つ。死刑というより、恵みだ。信じられない、鮮烈な奇跡である。
そんな奇跡を楽しまずして、この奇跡が再び失われてしまうことにフォーカス
を当て続けるなんて、もったいない。それよりも、この刹那の偶然を、
大いに楽しもうではないかが、それが、(2)だ。
 一万円を得たこの奇跡的な現在を喜ぶか、その一万円を失う未来を憂うか。
その違いが(1)と(2)の違いだ。(1)は、いま一万円を持っていることから出発
しようとするから、失うことの絶望に向かう。それって近視眼的ではないか。
一万円を得たという既得権は、既得権。それは当然としておいておき、一万円の
維持にフォーカスしている。それよりも、人生をその始まりから俯瞰する視点に
立ち、もともとゼロだったものが一万円になったこの人生のあぶく銭を楽しもう
ではないか、というのが(2)だ。 視野が広い。 ルートと関連付けるなら、
今一万円を持っていると思っているのは、幻想だ。本当は持っていないのだ。
誰かが「自由に使っていいよ」と言い、そっと貸してくれたのだ。
このラッキーな一万円を、幻想だと知りながら、ぱーっと使おうではないか。 
そして、なくなったら、なくなったとき。くよくよしたって仕方がない。
もともと持っていなかったのだ。・・・ ≫ 
▼「要は生のラッキーを楽しみ、死の恐怖を超越すべし」からすると、
 この辺りを理解してないと人生を誤る。それを教えるのが親の務めである。
必要なのが教養。生まれたときからの環境などが備わっているかどうかもある。
幸せな家系は幸せに、不幸な家系は幸せになる傾向が強い。26歳で千葉で、
34歳で新潟駅前で創業を決意をした時、特に新潟駅前の時は、500%の成功する
だろうという確信があったが、兎にも角にも、何にも知らない業種。土地の時価
を含めて当時の私の能力からして、やはり博打。魂が震える思いである。
で、自然考えたのが、上記のこと。「せっかく与えられたチャンス。もし失敗
しても、全てを失っても後悔はしない」と!だから現在、さばさばしている。
  万一の備えはしていたこともあるが・・ 人生も、「ご覧のとおり、
そのまま結構!」と、開き直りか。 日々是口実!
・・・・・・
4057, 随想日記も12周年
2012年05月04日(金)
 11年前の5月4日にHPを開設してから連日、ほぼ休まずに掲載してきた。
旅行時は知人に頼んで書きだめしたのを当日ごとにアップしていた。12周年
を期に気楽に休むつもりである。休み癖をつけると続かなくなる心配が逆に、
ここまで続けることが出来た。内容はともかく、「自分に納得できる文章に
すること」を心掛けてきた。毎日、同月同日分の10年分を読み返しているが、
手を抜いた文は少ない。 大相撲、全日本柔道選手権、新年とか殆んど欠かさず
同日に、同テーマの感想を読むと不思議な奇妙な感覚になる。読んでいると、
変わらない自分と、変わってしまった自分に気づくことがある。ここまで書き
ためると自分自身の墓場そのもの。飾ろうにも飾ろうとしている自分が現れ出る。
従って正直に書くことになるが、それが人を大きく傷を付けてしまう。
言葉の力は大きい。大まかに、「読書日記」「過去の思い出」「現在の社会現象
と分析」「つれづれに」「箴言」「新たに知った言葉」などに分けられる。
「書くということは、書き続ける自分を維持するための行為」ということに
気づいている。思いを、印象を、書き出すということは一度、脳から文として出し、
吟味することになる。書く行為そのものが考えることになる。毎日、読み返し
11年分の自分に出会っているが、そこに自分の小さな歴史をみている。 
もし書いてなく、完全忘却をしたら、元々、何も無かったのと同じでは?と思う
ことさえある。 実家の事業を5年足らず携わった時、気持ちの余裕が無かった
こともあり、写真も、日記も殆んど残っていない。書き残していたら面白い断片が
数限りなくあった。大変だったが自分の力が十二分に発揮できた時期だった。
このシリーズは心底では自分に120点。だから逆に書き残さなかったのが
良かったとも言える。 おいおい、その時のことを書くつもりだが・・
また人を傷をつけるのか? 毎日、書き出す習慣も慣れるとゲーム感覚になる。 
ネタ切れの際(きわ)に常に立っているスリルと苦痛が逆に面白味を増す。
・・・・・・
3691, 自己を見つめる −13
2011年05月04日(水)
         「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
  * 運命について  ーp226
【 ハイデッガーの言い方に従えば、私たちは存在の真理の「呼び求める促し」
 の中に立たされていることになる。私たち人間は、そうした運命的なものの
呼びかけに聴従せざるをえない、あり方を、根底に宿し、それに聴従することに
よって初めて、真に生きることを果たしうるものというように捉えていった。
 ・・ 自己と歴史の由来を、その根源から聴き取って、それをその将来と結び
つけることによって初めて、人間は、自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り
当てることができるようになると説かれたわけである。ここに、現代における
 優れた運命思想の一つがあると言っても過言ではない。ハイデッガーによれば、
私たちは、この世の中に生きるときに、予期しえない形で「降りかかってくる」、
さまざまな「偶然」の出来事にさらされているのである。ということは、
人間は、出来事の出現をすべて見通し、それを支配することのできる神ではない
ということである。人間は、非力で、無力なのである。 しかし、それでいて、
人間は、自分なりの情熱と威力において、自己の本来的存在の証を立て、それを
刻み残そうとする。そうした覚悟のうちで初めて、立ちはだかる宿命的な困難と
格闘しながら、人間は、真の存在の呼びかけを、運命の声として聞き取りつつ、
それに聴従して本来的に実存しようとするのである。ここに、優れた運命思想が
あることはたしかである。 】
ー 
「運命」について、考えさせられる内容である。(存在の真理の「呼び求める促し」
に立たされ、運命的なものの呼びかけに聴従せざるを得ない、あり方を、根底に
宿し、それに聴従することによって、真にいきることを果たしえる」
これが運命に従って生きるということである。これが本来的に実存しようとする
ことである。それぞれ天命、宿命、運命がある。その中で、運命は自分で切り
開いていくもの。 自分で真の存在の呼びかけを聞き取り、聴従し、実存しようと
することである。そうこう考えると、運命に対する見方が変わってくる。 
自己の根底を見定め、生き方の根拠を探り当て、前に進むことが運命に従うこと
になる。それとて、下記のような虚無的見方からすれば、些細なことでしかないが。
・・・・・
3326, 人みな骨になるならば ー12
2010年05月04日(火)
 この著書は、蓮如上人の「白骨の御文章」と「般若心教」の視点から、
当たり前と信じている日常の思い込みを一つずつ取上げ、その根拠を潰している。
何かにとらわれり、行きづまった時に、この書は、それが如何に取るに足らない
ことかを諭してくれる。葬式や法事で参列者全員がこの「白骨の御文章」を読経
することがある。死を第三者でなく自分に当てはめて考えさせるためである。 
 そこで改めてネットで検索して、コピーしてみた。 
   ー蓮如上人の「白骨の御文章」ー
≪ それ、人間の浮生なる相(すがた)をつらつら観ずるに、凡そはかなき
 ものは、この世の始中終、幻の如くなる一期なり。 されば未だ万歳の人身を
受けたりという事を聞かず。 一生過ぎ易し。今に至りて、誰か百年の形体を保つ
べきや。我や先、人や先、今日をも知らず、明日とも知らず、おくれ先だつ人は、
本の雫・末の露よりも繁しといえり。されば、朝(あした)には紅顔ありて、
夕には白骨となれる身なり。既に無常の風来りぬれば、すなわち二つの眼たちまち
に閉じ、一の息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて李の装を失いぬるときは、
六親・眷属集りて歎き悲しめども、更にその甲斐あるべからず。さてしもあるべき
事ならねばとて、野外に送りて夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというも中々おろかなり。 されば、人間のはかなき事は老少不定のさかい
なれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみ
まいらせて、念仏申すべきものなり。≫
ー以上だが、父の生前の口ぐせ、「死んでしまえば(生きている方からすれば)
それまでよ!」である。あるのは、いま、ここ、だけである。過去の、あの時も、
現在も、「いま、ここ」しかない。 一期一会である。それぞれが、いま、ここ、
で生きている。そして、それも、確かに存在していると感じるが、実は幻想。
自分の感覚という器官が能作しているだけである。 夢・幻でしかないのである。 
で、確認で酒を飲む、のか! 
 ・・・・・・・・
2951,人はどうしてオヤジになるか? −2
2009年05月04日(月)
 * 女はどうしてオバサンになるか?
「人はどうしてオヤジになるか?」というなら
「女はどうしてオバサンになるか?」を考えてみたくなる。
  ーそれではオバサンとは、どういう人なのだろか?ー
《30代後半から40歳前後の大きな境目として、女を捨てると同時に
 恥じらいを捨て「怖いものがなくなった」存在で、特に徒党を組むと非社会性が
露出する。 お婆ちゃんといわれる前に、それまで内に圧縮されていたエネルギー
が非社会的行為として露出する歪んだ「突然変異の一時的生きもの」である。彼女?
を見ようと思ったら、デパ地下とか、ホテルのランチバイキングに行くと徒党を
組んだ姿が見られる》 ところで、秘境旅行に行くと、必ずといってよいほど
「離れオバサン」が参加している。これが恐ろしい存在である。具体的に書くのを
憚るほど唯我独善。 今回は、そこまでは書かないでおく。逆に40歳前後までに、
女としても人間としても自分を見つめ、「個」としての自分を確立し、責任を持って
生き、自信に満ちた態度を持てる女性を「マダム」という。それに対しオバサンは
自己管理ができないで、集団化した第三の性化した存在。
 (以下は字数の関係でカット。2012年05月04日)
 ・・・・・・・・・
2587, 幸福大国ブータンから、幸せとは何かを考える
 2008年05月04日(日)
 国民の97%が幸福と実感し、自殺者ゼロの国、40年前には国土の5割以下だった
森林面積が、現在は7割以上に回復し、経済成長ではなく「国民総幸福」を国の
指標とし、独自の「豊かさ」を目指すブータンという国がある。数年前にTVの
ドキュメントで見て気になっていたが、図書館で、この国の第四代国王王妃が、
その国の素顔とブータン人の死生観などを書いていた本を見つけ早速読んで
みたが、何とも心の豊かさが滲み出ている内容であった。 ブータンの幸せ
指数世界一だが、物資や食料の欠乏は、心の貧困には繋がらない証明になる。