「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹 (著)
    * 「格差」拡大による「そねみ・ねたみ」の肥大化
  建前が平等の社会にあって、格差が拡大すると、自分より上に対する「そねみ・ねたみ」が拡大する。
 逆に下に対して、陰湿な苛めなど差別をするのが人間の性である。それが世間様というもの。その互いに
 発する毒の共同幻想で実は本人たちの脳がやられる。問題は自覚できないこと。 ーその辺りからー                       
≪ つまり自分と同じ」だと思っていたお隣さんが、ある日突然ベンツを買ったとすれば、それは自分と「同じ」
 ではなくなる。ビミョーな「格差」が生まれたときに、他人にジト−ッと嫉妬する独特の心理が生まれる。
 この日本人特有の嫉妬について、正高信男さんは以下のようにいう。
【 いかに時代が変わろうと、日本人は基本的に非常に嫉妬深い。いじめも、モンスーン気候の風土と正比例
 するように、ジメジメしている。だから、分よりも注目されている人間に対しては、いくら口先で褒めても、
 内心はムカツク要素を秘めている。昔でいえぽ、胸くそ悪いとでもいうのか。単に不愉快ではすまない。
 いつまでも梅雨が上がらないようなしつこい陰湿さがある。嫉妬心も消えない。(『他人を許せないサル』)】
 ・・(略)自分は自分、他人は他人という個人主義ではないから、自分が他人に比べて損をしていないか、
 得をしているかがいつも気になって仕方がない。横並び一直線で暮らしていた時代は成功した者とそうでない
 者のデコボコの差がほとんどないから、嫉妬の質も深刻ではなかったかもしれない。が、現代のように、
 勝ち組、負け組の区別がはっぎりして、所得格差も以前よりひどくなり、社会システムがより欧米化されると
 反応は過敏になってくる。】
▼ 地方では勝組は少ないが、大都会は中国などの勝組の観光客も相まって、歴然とした格差が現前している。
 それが面白い!と言えるのは、余裕のある立場の人たち。そこは一度沈んだら、二度と立上がれない世界。
 他人事ではないが・・ 日本は国家として明らかに負組になってきた。その結果、国内には、ジメジメした
 空気が漂い、今まで無かったような殺人事件が多発する。そして、それを揶揄して楽しむ歪な空気が漂う。
 そこに欧米のような個人主義でないが故に生じる共同幻想で集団で脳をやられる。
 江戸末期の「ええじゃないか!」の馬鹿踊りが形を変えて出てきたのが、『東京オリンピック』である。
 この共同幻想を楽しみながら、最期の宴を国家とともに終るのもオツナモノか。
・・・・・・
4630, 閑話小題 ー相棒 〜国民的刑事ものシリーズ ー2
2013年11月19日(火)   
   * 相棒 ー愛人と共謀の夫殺し 
 昨日の『相棒』は、二回完結型の後半もの。概略は
《 有名女優が、内縁の夫の作家を愛人のマネジャーと共謀して撃ち殺す。強盗の仕業にするが、右京が
 追い詰める。ところが調べているうちに、内縁の夫は女優の実の父であることが判明。子供の頃に両親が離婚。
 亡くなった母親が残したアルバムから、半年前に知るが、父は、そのことを知った上に、女優と内縁の関係に
 なっていた。そのことに同情したマネジャーと共謀して・・ しかし、そこには二人の純愛があった。
 逮捕をされる時、マネジャーが相棒二人に、結婚届けを託すラストシーンが、涙を誘う。》
話は、これからである。 ああ終わったか、とチャネルを回そうとすると、TV局も、視聴者心理をしってか、
冒頭から、ニュースの触りを持ってきて、引きとめようとする。ところが、冒頭のニュースが、これに似ている
裁判の内容。「裁判で、被告が突然、自分は主犯でなく、殺害した被害者の奥さんと共謀してやった」と主張、
その奥さんは、証言で、「ストーカーの被告が勝手につくった物語」と、両者の言い分が対立、と報じていた。
被告の証言で、「以前、奥さんから、本人がつけている香水をもらった」と、それを提出したのに対し、
奥さんは、・・まあ、テレビドラマそのもの。偶然としてもTV局は、してやったりのタイミング。
奥さんらしき人の写真が流されていたが、被告も、奥さんも普通の感じ。今週のマスコミは、この問題で
大騒ぎだろう。『相棒』の話題、軽いので、テーマとして迷ったが、こうなると、良かったことになる! 
それにしても、視聴者の多くは、主犯は? 二人共言い張れば、通る?
   * 何もする必要が無いのが、御隠居生活
 思いのほか、御隠居生活に馴染んでいるが、準備期間を含めた事業人生から解放された気楽さがある。
大きな成功を必死に求めていた自分が、可愛らしく思えるのが御隠居の視線である。以前も書いたが、家内が
不思議そうに、「毎日、単調な生活で刺激も無いようだし、つまらなくない?」と聞いてきた。 
その答えは、「実際に、事業をしていると、寝ても覚めても極度の緊張状態。それは良いこともあるし、
嫌なこともある。現在も、同じこと。これはこれで、淡々として良いし、逆に詰らないこともある。
どっちも同じこと」が、偽わざる気持ち。滑り台に例えると、早朝が一番上で、就寝が一番下。寝起きに、
この随想日記の添削をして、アップ。30分の瞑想、ポタリングへと続く。そして朝食とり、八時またぎで
TVを見て、風呂に入り、九時半からパソコンと読書に二時間、費やす。そして、・・と、淡々と何時もの
とおりの習慣を繰り返す。重要度からすると、徐々に、下がっていくから、楽といえば楽。午後からは、
スポージム、読書、ドラマの視聴といった流しになる。面倒なら飛ばせば良い。どれもこれも誰に頼まれた
訳でない。 森の生活では、少し不安だったサバンナも、慣れてしまえば、これはこれ。
50年近い、読書習慣が支えである。
・・・・・・
4265, この非常事態に、万一の備えがあるの? −2
2012年11月19日(月) 
 私の場合、記憶が1歳の頃からある。そして両親の商売の一喜一憂が、そのまま普段の生活に直に
伝わっていた。終戦直後で、新しい事業を両親が模索していた時期のため、今から振り返ると、何とも
いえない張り詰めた緊張感があった。「どこどこが倒産した」「店を出したが、少し良くなると天狗になり
夜逃げをした」などが、日常会話。それもあってか、自分が瀬戸際に直面した時に、不謹慎だが、デジャブ
というか、その自分を冷笑し楽しんでいる視線があった。現在も一部それがある。それらの幼児体験もあり、
万一の備えを無意識に次々と重ねていた。悪化と同時に、自動的に手順を打つのが自然の道理。
30年間(事前の準備期間を入れたら45年間になるが)、創業から整理までの起承転結の一サイクルの
経験をしてみて、手じまいも、事業の最大のイベント。 最悪に見えた経験も、奇妙な感情が支配していた。
あと講釈だから、言えるのだろうが。15年以上かけ準備をし立ち上げた事業を、その衰退を見届け、
自分の手で潰すのも事業経営の一環であり、後悔も無念の感情も残らないのも道理。
 で、この本体の経済崩壊の大津波、地方では既に到来している感がする。大方は茹で蛙状態で、
知ってか知らぬふり? 年末の選挙前後辺りにクラッシュの可能性の仮説はたてておくべきだ。年越しの
可能性もあるが、遅かれ早かれ恐慌は起きる。 日本で、この2千年の間に4回の東日本で震度8クラスの
地震があった後、10年以内に、いずれも首都圏で直下型地震が連動して起こっていた。 西日本では
18年以内にM8クラス以上の巨大地震が起きている。経済の7割が集中している太平洋ベルト地帯が
破壊されてしまうのである。恐ろしいが日本には失われた20年で経済が壊滅的状態。そこに少子化もあり、
分かっていても、資金が追いつかないのが、現実である。それと世界的恐慌と、デフレの問題がある。
ある日突然、何かの切っ掛けで、世界は機能不全に陥ってしまう危険がある。そうすると、弱い国に矛先が
向かう。その弱い国が、日本となる危険が非常に強いのである。 バフェットが、一度売り抜けた金を再び
大量購入をした。 イスラエルが、先手をうってガザ地域で戦争を仕掛けている。イランへの攻撃が始まるか? 
 ・・・・・・
3890, ギリシャ/イタリアの次は・・
2011年11月19日(土)
 ギリシャが何とか目先の命を繋いだが、これも解決したわけでなく問題の先送りをしただけ。その直後に、
待ってましたとイタリアがマナ板に上がり、IMFの管理下に置かれて徹底的な国家の合理化が図られる。 
イタリアには一度就職をすると簡単に人員整理が出来ない法律がある。イタリア人は、それを逆用して
働かないで給与を貰う体質が染み付いている。 グローバル化の世界では競争力がなくなり破綻するのは当然。
IMFの厳しい合理化にイタリア人気質が耐えられるか?というと、非常に難しい。ギリシャ、イタリア、
スペイン、ポルトガルという一時代を築き上げた国が次々と国家破綻の瀬戸際になっている。
 リーマンショックがキッカケで、世界の多くの国が積年の矛盾が噴出し、一挙に激変の様相になっている。
それに対して指導者は、その対策が全く立たない事態で、その場限りの対処しか考えられないのが現状。
あとは何時何処で火を吹き出すか。1999年からG7にロシアを加えた蔵相会議が開催されてきたが、リーマン
ショックを契機に世界の主な国の12ヶ国を加えたG20が年に1〜2度のペースで開催され、その対策が
検討されている。そこで何とか恐慌を食い止めているが、それも秒読みになってきた。イタリアに続いて
スペインの国債利回りが7パーになろうとしている。ここもIMFの管理国になるのだろうか。
 ギリシャ危機の9月のギリシャ国債のりまわりが136パーセントというから驚き。現在の32パーも、
危機ラインを遥かに超えている。日本だったら1千兆の利回りだから、329兆円の利回りになる。
国家収入の10倍になる。そのギリシャと程度が同じで、数年後には、似た状態になるとしたら、
ここで叫び続けていることは、まだ楽観的範疇。 例の国の国債の利回を見て、呆然。近未来が見えている。
 <10年もの国債の利回>   ぷかぷか煙草を吸いながら川辺で車に寄って引き潮を見ていた
東北大震災の被害者の姿が目に浮かぶ。
・ ギリシャ    32.29%      
・ ポルトガル   11.52%
・ アイルランド   8.22%
・ イタリア     7.28%         
・ スペイン     6.43%   たまたま、この数年来の同月同日に予告編?を書いていた。
・・・・・・・
3525, 死に至る地球経済
2010年11月19日(金)
  [死に至る地球経済」浜矩子 著
ー内容紹介ー
 ギリシャ危機に端を発するソブリンリスクを抱えたEUや、人民元の動向が注目される中国など混迷が
続く世界経済。長期低迷を続ける日本経済も、デフレ、資源価格の高騰、財政危機というトリプルショックを
迎えている。今、進むべき道はどこにあるのか。グローバル経済の新しいあり方を視野に入れ、
現状を分析し未来を模索する。
(第1章)では、G20サミットの苦悩にみる政策主導型成長の限界を論じ、
    「成長に優しい財政再建を目指すこと」の困難さについて述べている。
(第2章)ソブリン・ショック=国家破綻の脅威についてで、グローバル時代の恐慌は、いったん始れば
    国家財政で押さえ込むスケールを遥かに越え広がり、セスキュー隊員を遭難させ、
    その隊員の遭難が更に恐慌を深める
(第3章)終焉近い基軸通貨体制 ートリフィンのいわゆる「流動性ジレンマ」論を踏まえての基軸通貨
    システムへの代替論の提示)、どうしても「地域通貨」に一つの解答を見出したくなるという
(第4章)ポスト・リーマンのグローバル金融の模索、ー再暴走か、大縮減かの瀬戸際に立つ緊迫状態
(第5章)中国は果たして救世主になれるか? 世界経済における中国の存在意義とそれが生み出す諸問題、
    経済活動は、成長と競争と分配を三辺とする三角形。中国は、はなはだ歪で成長だけの一輪車。
(第6章)そしてわが日本はどうすべきか。総中流に向けて忙しく働き、皆が豊かになっていく時代の状況は
    変わってしまった。「下流社会」という言葉も出ている中、誰もやらないことをやるのが政策の仕事。
▼ 著者は、辛口の経済学者として著書、雑誌で度々みかけ、その論調も痛快である。エピローグで、ここで
 再び世界を不安感が覆いはじめていると警告。その不安を呼び覚ましている言葉を二つあげている。
その一つが「財政破綻」。二つめが「二番底」という。財政破綻は、国家破綻を意味している。
その二の「二番底」は「死に至る危機」が襲う恐ろしいこと。これは当初からあったが、目先の緊急措置で
当面の間、乗り切ったに過ぎず、根本問題の先送りをしただけ。その先送りの問題が、再び立ち上がっている。
「国家財政破綻」これが、恐ろしいのである。欧州では、理想的なEUが発足されたが、さっそく、
この金融恐慌で、その脆さが出てしまった。先行き、真っ暗で、世界恐慌への引き金を引きそうな事態に。      
・・・・・・・・
3150,「要は如何受け止めるか」である!
 2009年11月19日(木)
   「いやな気分の整理学」―論理療法のすすめ  岡野 守也 (著)
 最近、どうもこうも不機嫌なことが続く。年齢的からみて通らなければならない60歳前半の欝症だろうか。
それまでは、いやな事があっても次の事象が起これば直ぐに切り替えが効いたのが、年齢的な衰えからから、
以前のように切り替えに時間がかかり何時までも引きずってしまう。
 いやな出来事A(失敗・陰口・争い)→ 結果C(落ち込み・腹立ち)が生じると、それは失敗や陰口と
思いこむ。しかし論理療法のABC理論は、AとCの間にB(Belief)を入れる。
出来事・A →  考え・ビリーフ・B →  結果としての感情・Cとする。
「いやな出来事と感情の間に、それに対する受け止め方・考え方があり、それが感情的な反応を決める」
要は「どう受け止めるか」である。Bで肯定的思考に変えることで、暗い性格から、明るい性格に換えてしまう。
 論理療法の創始者エリスは「ねばならない」「であるべきだ」「であってあならない」「はずがない」
という非合理な思い込みが、不健康な否定的感情につながると指摘。「絶対にうまくやらねばならない」
「私の人生は完璧であるべきだ」「こんな不公平があってはならない」という思い込みが、いやな出来事Aを
いやな気分に変換してしまうとする。そこで、論理的な対話型セラピーによって、非合理的考え方、
イラショナル・ビリーフを解消するのが論理療法。
*「私はまったく無力です」という人には「歩いてここまで来られたのですから、歩行能力があるんですよね?」
 と話を持っていき、ご飯を食べたのだから咀嚼力も消化力もあるし、目が見えているから視力もあるじゃない
 ですかという風に誘導。 人間の心はおもしろいもので、「自分は無力だ」と考えると、無力感が襲ってくる。
「微力としても、力はある」と考えると、少し力が涌いてくる。 思い込みの内容を意識して言葉として
 表出させて、論理的な説得を繰り返すことで、感情の自己コントロールが可能な性格に変えようと持っていく。  
 肯定的思考法に似ているが、マイナス思考を無視するのではない。
*「落ち込み癖」を治すには
・「ダメな私」=自己非難 ・「かわいそうな私」=自己憐憫 ・「かわいそうなあなた」=他者憐憫を、
 まず止めること。 夫婦で慰めあっているのがいるが、「可哀想な貴方たち」ということだ。 そのうち、
互いにダメな貴方になるが。そのためにはミッション・ステートメントなど、自分の信念を箇条書きにして、
それをビリーフにすればよい。「出来事のうけとめ方」とは「自分で自分を説得すること」で、気分を合理的に
整理する方向に持っていくことになる。他にも気分を整理する働きとして、般若心教に、ウォーキング・セラピー
(こんな言葉はないが)に、日記に、カラオケに、秘境ツアーに、あげれば限がない。私の場合は、嫌な気分の
原因を集中して考え続けていると、ある時点で、消えていく。その時間査定も、その中でしてしまう。
初老性欝症状は軽く終わりそうだが、あと半年? その後は、慢性老人欝症かいな?
・・・・・・・・・
2785, 恐怖指数
2008年11月19日(水)
 11月17日付の読売新聞・一面の「編集手帳」が面白い。 
【 アメリカで4年に1度、注目を集める経済指数がある。大統領選の行方を占う指標とされる
 「ミザリーインデックス」である
◆日本語訳は「悲惨指数」「窮乏指数」と悲壮感が漂うが、要は物価上昇率と失業率を足した数字のこと。
 これが10を超えると、米国民は経済失政に怒り、政権交代を望むという。
 8年ぶりに民主党オバマ氏が大統領選を制した今年、指数は6月から10を超えている。
 歴代大統領では、指数が高かったフォード、カーター両政権は短命だ
政権交代との因果関係は定かでないが、指数が上がると政府の無策を嘆く人が増えるのは間違いない。
 実は、日本も6を超え、1980年代前半以来の高さになっている。経済政策への不信感は、相当に
 強いに違いない (以下、字数の関係上、カットー2008年11月19日)

 

つれづれに

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他のブログ
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 今日のYoutube
https://www.youtube.com/watch?v=qJuoGX_-0GA

 スポーツジムでの「ヨガ」を始めて、二年半以上になる。
週二回の参加を、5月から三回にしたが、体調はよい。
瞑想や、座禅で座っている行者が、その場で、足腰が固まらないように
運動を取り入れたのがヨガ。 子供以来の足腰の関節のコリを伸縮させる。
50人が集合したヨガも、一番、後ろからみていると、壮観である。

  写真はネットからのものだが、真中の集合の写真が、
 スタジオも酷似していて、先生の位置も、ほぼ同じイメージ。
  この三倍の人数が、これより少し狭い間隔でマットを敷いて
 ヨガ音楽の中、薄暗い中で、先生の指導の中で、ポーズをとる。
  向かって左側の一番後ろの席を、私の定位置にしている。
 
 このスタジオでは、青竹踏みエアロと、ステップ台を乗り降りするエアロに
 参加している。 他に「イージーライン」のエアロに参加する。

・・・・・・
2420, サブプライム問題 ー1
2007年11月19日(月)

  新聞広告につられ年に2~3度しか買わない週刊誌を先日買って読んでみたが、
  なかなか面白い内容であった。 大体が週刊誌は期待した半分も中身がないが、
  週刊文春の11月22日の発行の「50年に一度の『株価クラッシュ』が始まった!」
  の特集は、どれも考えさせられるものばかりであった
  その中のアメリカのサブプライムの問題はもしかしたら大恐慌の引き金になるほど、
  根が深いようである。
  「住宅の借り入れ金の範囲しか責任がない(借金を返せなくなったら、
  その物件を銀行などの債権者にひき渡せば、それで済む)のがアメリカのノンリコール制度。
  この制度のおかげで、不良債権化した物件や債権を引き渡された銀行は、
  担保割れの物件の山になる。まだ住宅の相場良いうちは問題は生じないが、
  相場が崩れると、強気で貸し付けてきた銀行の損失になってしまった。
  それが数十兆円、百兆以上?もあるというから尋常でない」
  これでは大恐慌になっても何ら不思議ではない。
  どうなることか? これに石油高騰と穀物高が重なったのだから・・・
  来年は、更に荒れる年になるのは必定! 
    (*´_⊃`)ノ゜*。・・+。゜*゜【gOOd morning】 
 ーーー
 *まずは週間文春の一部を紹介してみよう*
日本人はつい日本の住宅ローンの常識によって物事を判断してしまう。
だがこれは大きな誤りだ。日本では、ローンを組んで買った住宅が大きく値下がりした場合、
家を売却してもなお借金が残ることがある。この時、借りた人間は律儀に残債を返すのが
当然だと私たちは思う。 だからこそ日本では不況が恐慌に発展せずに済んだのだが、
同時に十年以上も延々と不況が続いたのだとも言えるだろう。

日本の住宅ローンとは異なりつアメリカで一般的な住宅ローンはノンリコースローンである。
借金を返せなくなった場合には、担保、に入れていた住宅をお金の貸し主に渡してしまえば、
それだけで借金から解放されるという契約なのだ。 
日本の常識から見ると、アメリカの住宅ローンは、経営方針が大甘のカジノみのたいである。
金も持たずにやって来た客に対しても、喜んで賭け儲け金を貸してくれるという大甘の
カジノである。 客が勝てば(=買った住宅が値上がりすれば)勝った差額を自由に持って
帰ることができる。客が負けたら、手元に残った残金だけ返せば
(=担保となった不動産を引き渡せば)それ以上は責任を追及しないというカジノである。
こんな大甘カジノなら、客は殺到するだろう。
大繁盛すること(=住宅の価格が高騰すること)間違いなしだ。
だがカジノが繁盛していることと、カジノが儲かっていることとは、まったく別のことなのだ。
住宅への需要が水膨れすれば、価格が高騰するのも当然であろう。
だが、どう転んでも客が損しないサブプライムローンの仕組みが成立するためには、
住宅価格が右肩上が滑りで、今日よりも明日にはさらに高い値段になる必要がある。

ところがアメリカは昨年末には不況入りした。当然、住宅需要は減ってくる。
みんな、一斉に勝ち逃げしようと考える。住宅の売り物が増えてくる。価格は下落に転ずる。
そうすると、サブプライムローンで住宅という賭け札を買うてギャンブルに参加した人たちは、
もはや手元の賭け札を高値で転売することができなか。つまり賭けは失敗したわけだ。
だがこれではローンの貸し手が困ってしまう。住宅価格は下がっているのだ。
自分たちの手元の担保流れの住宅を叩き売れば、住宅相場はさらに下落する。
貸金の回収がますます困難になる一方だ。 ーつづく
 ----
これでは、裾野の広い住宅関連から大不況が飛び火するのは、火を見るより明らか。
この続きは、明日載せるが、今週の文春は買う価値あり?  
          サョォォ━。゚(゚´Д`●゚)゚。ナラァァ━ッ!!!!
・・・・・・・・
2006年11月19日(日)
2056, あたりまえなことばかり -10
      (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ~ ヨウ

 内語は、声を出すと独り言になるが、
独り旅で内語というカタチでブツブツ言っている自分に気づくことがある。
毎朝のウォーキングも内語が活発化している。
内語といえば、この随想日記の同月同日の数年分を読み直しているとき、
そうか、そうか、と読みながら独り発語しているのは内語の究極と思える。
まあ、このHPも内語そのものと言えよう。
そう、今年の3月から始めたモーニング・ページ(起きざまに白紙のノートに
思いつくまま書き出す)も、自己対話の形式の内語である。
この良さは、頭で考えていることは、ほぼ些細な事と鳥瞰できることだ。
まあ、砂金がたまに見つかるのが・・・
 この自己対話で質問者と回答者の対立が深まると、分裂症状になるが。
近くの居酒屋の親父、厨房で頭に浮かんだまま声に出している。
私のことを一度「あいつ、俺には合わないんだよな~」と、言っていたか・・
ブログなど、内語だった地声?を、そのまま公開することである。
内語は考えるほど面白い形式だが・・

ー孤独とは苦しいものなのか -?
*「内語」と「孤独」について

「思う」とはどういうことだろうか。
何かを思うとき、思っているのは自分だが、思われているのは自分ではない。
これは、よくよく不思議なことでなかろうか。
「思う」というこれだけの出来事で、自他の区別はまったく不明瞭なのである。
あるいは逆に、「思う」ことによって、自他がそこで出合うのである。
孤独なもの思いにおいてこそ、人は世界へと開かれることができるという逆説、
孤独な思索者の内なる饗宴である。

「内語」という現象にそれは極まるだろう。
自分が自分に語りかけると、普通にわれわれは思っている。
しかし、自分が自分に語りかけるとは、一体どういうことであろうか。
もしも自分が自分として完結しているば、そこに語りかけるという行為は
発生しないはずである。語りかけるとは、問い尋ねる、確認する、疑念を発する、
同意を求める等、本来的に他者へと向けられる行為である。

しかし、語りかけているそこには、目に見える他者など、存在していない。
すると、そこに語りかけているのは誰だろうか。なるほど「自分に」だと言うしかない。
だからこそ、他者として、語りかけ語りかけられているのは自分とは、
自分にとって自分なのだろうか、他者なのだろうかという問いが、
いよいよ悩ましいものとして立ち上がることになる。
自分である、他者であるということは、自分であるという正にそのことにおいて、
いかにしても自明のことではあり得ないのだが、この場面において人は、
目に見えるもののみ信じすぎる。

他者とは目に見えるその個人であり、自分もまた目に見えるこの個人であると
思い込んでいるのである。そして、個人と個人はしょせん個人である。
ここで個人は孤独であると嘆くことにもなるが、じつは人は孤独であることなど
できはしないのだ。厳密をきするほど、自他の境は溶解し、何が自分であり、
何が他者であるとは言えなくなるのである。この奇妙で当たり前の事実に気づくのに、
内省する、自己観察するという習慣以外ないだろう。
個人主義は科学的世界観なしにはあり得なかった。しかし、それとてこの
数百年のことである。それ以前は、われわれにとって自分はそれほど自明のことで
なかった。自分であるということは、そのことだけで、何か神々や霊魂めいたものと
重なっていたことを知っていたからである。
    
われわれ日常とは、心の日常である。あらためて思うと、何と当たり前のことである。
そして、心は「人間」ではない。愛着や憎悪や嫉妬、それ自体が「人間である」とは
無意味であろう。「心のはたらき」は、人間ではない。それは「何」の働きなのだろうか。
 
目に見える「人間」を認めないとき、逆に関係性そのものとしてとしかあり得ない世界の
ありようが見えてくる。そのことによって、各人の個性が個性でなくなるわけではない。
個性すなわち、性格の現れとか感情の訪れなどは、そもそもが「個人」の出来事ではない。
いや、個人などというものは、この世界のどこにもない。
 まずは、そう思ってみてみたらどうか、世界の相貌は劇的に変わるはずである。
そうすると、関係性としてしかあり得ないそのような世界で、
孤独はどのようにして可能だろうか。
 
言葉は個人の発明ではなく、個人の所有でもない。言葉は個人のものではない。
しかし、人は多く言葉は個人のものであり、言葉を話すのが自分であると思っている。
しかし、もしも言葉を話すのが自分であるなら、なぜ他者と話す言葉との間に、
「会話」が成立するのだろうか。あの人は話が合わないというためには、
あらかじめ話の意味が理解されていなければならない。
理解されている言葉の意味は、自他の区別より先に存在するのである。
ある言葉を選択し、そのように使用する、そこに各人の個性が現れるのであって、
その逆ではない。「人間の側」こそが、言葉の個性のために使われる「口」なのだ。
 
 論理に孤独の影はない。それは、すべての人に理解され、また理解されるべきものとして、
 思考の光源に輝くものだ。論理から離れ、遠ざかるにつれて、言葉の影は濃く長くなる。
 それは各人の心の陰影として、さまざまな角度から理解されることを拒まないものだ。
 あるいは、そもそも理解されることを拒むものだ。
 理解している、そう言われれば、いや理解などされたくない、そう感じる部分はあるのは
 どういうわけか。他人には理解できない秘めたる部分が自分にはあるのだ、
 そう思うことによって心のどこかで悦ぶのは、心は日の光に広く暴かれることを必ずしも
 望まない、心はじつは自分の影を好むからである。
 心は、その孤独が自分自身にとっての一種の滋養であることを知っている。
 心は孤独を味わい食べながら、その陰影をさらに深くする。
 ヒダのひとつひとつには、そのように味わわれた世界がそのつど織り込まれてゆく。
 
 友情が、魂にとって必要なのは、お互いに相手を信頼しているからである。
 信頼するとは、相手の孤独を尊重することに他ならない。
 孤独は尊重されるべき価値だということを、成熟した魂は知っているのだ。
 そうでなくては、言外の含みへと互いに想像を巡らす、
 そのことで信頼を深める友情が、どうして可能になるのだろうか。
 深く孤独であるほどに、さらに関係しあえるのだから、魂は。
 魂は、自分であるほど他者になれるのだ。
 
 じっさい、われわれは誰も、その見た目やその言葉の背後に、それよりはるかに広大で
 複雑な領域を所有している。この当たり前の事実を、他人にも自分にも認めるとき、
 孤独であるということは、それ自体で非常に豊かであると知るはずである。
 ある意味で、魂は、想像力そのものとして世界に関わり、世界そのものの宇宙の内実と
 化すことのできる魔法である。
 魂の孤独こそが、この喧騒の地上における、唯一の楽土としてあり得るものだが。
                (*^○^*)ノ ホンジャ!また
・・・・・・・・・
2005年11月19日(土)
1691, ザ・マインドマップ-4
マインドマップのメリットといえば、
(字数の関係でカットー2007年11月19日)

 。。。。。。。。。〆(∀`*)
 2004年11月19日(金)
1326, 海外旅行ー履歴  

今までいった旅行履歴である。あらためて、よく行ったと自分でも感心する。
60歳まで50回という目標は無理であるが、年二回のペースなら63歳に達成する。
この不況の中、年二回のペースを守れるかどうかだが?
70歳まで、年二回のペースを守ると65回になる。
このくらい行けば、心の大きな財産になり、人生に対する悔いは残らないだろう。

ある地区に偏らないで、まんべんなく行っていた。
「オーストラリア、アメリカのグランドキャニオン、東欧、モンゴル
インドネシアの辺りが空いている」が、今のところあまり行きたいとも思わない。
「43」北イタリア                    -2005・10
「42」オーストリア                   ー2004・08
「41」アイスランド                   ー2003・10

「40」アラスカ                      2003・07
「39」パタゴニア                    ー2002・12
「38」スイス                       2002・07
「37」西アフリカーコート-ジボアール
    ・ガーナ・ベナントーゴ              2002・03
「36」ベトナム                     ー2001・11

「35」北欧ーロシア-スカンジナビァ             2001・06
「34」メキシコ                      2001.01
「33]モッロコ                      ー2000.11 
「32」パキスタン・中国                   2000・06 
「31」シリア・ヨルダン・レバノン              2000・04 

「30」ノルウエー・トロムソ               ー1999・12 
「29」ケニア・ヌー                        ・08 
「28」イスラエル                         ・04 
「27」ネパール                          ・02
「26」北インド                    ー1998・10  

「25」 北スペイン パンプローナ                 ・07  
「24」タンザニア(ウンゴロウンゴロ・セレゲッテイ高原)ー1997・12  
「23」 べネゼイラ・(ギアナ高地)               ・08
「22」 ペルー・(マチュピチ・チチカカ湖)       ー1996・06  
「21」エジプト・トルコ(カルナック神殿・ ピラミット)      ・02   

「20] 南アフリカ(ビクトリアの滝・チョベ国立公園・喜望峰)ー1995・10 
「19」ニュージーランド
 (クウィーンズタウン・ バンジージャンップ・ミルフォードサウン)・05 
「18」ブラジル(リオのカーニバルイグアスの滝)        
「17」ケニヤ(ナクル湖・マサイマラ・アンボセリ )    ー1994・06
「16」ドイツ・パリ(ライン川下り・ロマンチック街道)  ー1993・12 

「15」フィジー(コマ島・ )              ー1992・11
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「14」スペイン1周の旅 
   (アンダルシア・アルハンブラ宮殿・闘牛)      ー1991・08  
「13」カナダ・ロッキーの旅 ー会社               ・05
「12」香港クルージング                 ー1990・07 
「11」アメリカ・ペガサス(ボストン・アトランタ)          ・04     
「10」スペイン・イタリア・パリ・ヘルシンキの旅    ー1989・12 
「9」 中国(北京・けいりん・上海)          ー1988.09  
「8」アメリカ西海岸SC・ペガサス                ・06
「7」カナダ・ナイアガラの旅 ー個人           ー1987・08
「6」香港の旅                      ー1986・10          
「5」ハワイの旅                     ー1983・08
「4」ハワイの旅                     ー1980・08 
「3」ハワイの旅                     ー1978・08 
「2」アメリカ・商業界                  ー1976・07
「1」欧州30日一周                    ー1967・07

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585, ある時間の断片ー12
- 2002年11月19日(火)
1968年 10月1日

9時半に起床、11時までボーと過ごす。
その後学校に行く。石川と入れ違いに兼子がくる。
一緒にコピーをとりに校外にでる。そこでフェステバルの行進にであう。
かれの食事に付き合うーそれまで私は終えていたが。
彼も自分に対して自信を持ち始めたようだ。
女性に対してかなり発展しているとか-同棲をしているとか。
彼とボーリング場に行くが満員で時間待ちということそのまま帰る。

帰寮後、風呂に行き試験勉強を1時間半する。
キックボクシングを見た後、石川へ電話のため電話ボックスにいく。
9時半より夜半の一時まで試験勉強。 精神がまだ甘いとつくづくおもう。
就寝。
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1968年  10月2日
10時起床、11時に学校に向かう。
食後図書館に行く。石川と隣り合わせで試験勉強をする。
途中に同級の雨宮がくる。彼と話をするが、外国に行きたいとのこと。
必死に将来を考えているようだ。兼子も来る。

図書館の私が座っている場所が溜まり場みたいになっている。
今日の試験はまるで簡単であった。まじめにやりすぎたのが馬鹿みたいだった。
帰寮後、先輩の佐々木さんと高橋君と食事、その後後輩の
駒村君と米林君と話す。駒村がのろける。自分がもてるのに驚いているという。

そういえば今日昼の12時半に深井と会う。
彼が今度の土曜日に聖心女子大の彼女等と会うという。
私も行くことになるが、その前に小作とどこか女性と遊びに行く予定がドタキャンになる。
そう考えていると偶然の一致に彼と出会う。 面白いものだ。彼の誘いを断る。

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「232」人生の三つの坂
 2001/11/19

人生に三つの坂があるという、
「上り坂」「下り坂」「まさか!」 である。
この最後の「まさかこんなことが!」は誰でも起こるはずである。
問題は、その時の対処の仕方である。
どうそれを受け止め受容していくかが問題になる。

特に人生の後半には、遅かれ早かれ誰にも否応なく起こってくる。
という事は、これは[まさか]ではない必然ということか?
「上り坂」も「下り坂」も直接原因で生ずるケースが多いが、
「まさか」は間接原因のケースが多い。あるいは突発のケースだ。

悄然とそれを受け止めることは、ほぼ不可能だ。
少なくともそうなった時、今まで好きな事をやれたのが救いだ!
という生き方が必要ではないか。
誰もが持っている心理として、自分だけは大丈夫という、
そして特別という甘さがある。それがあるから生きられるのかもしれないが。

それが「まさか」という冷徹な事実に木っ端みじんに砕かれてしまう。
「まさか」の坂を一歩踏み違えると、「まっさかさま」に転げ落ちる