つれづれに

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 今日は曇天の中の早朝のミニ・チャリ。
何とか雨が降ることがなかった。台風の風はフェーン現象以外、
全くなし。 

 今日の昼頃に、次男一家が里帰り。
長岡郊外の奥座敷蓬平温泉の『イズミヤ』で一泊して明日、帰る予定。






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5268,人生を愛する気高さを持つ ~ニーチェ「超」入門~
2015年08月17日(月)
                 ~ニーチェ「超」入門~ 白取春彦
   * 人生を愛する気高さを持つ
 人生は、何事が起きようが絶対肯定!にある。
どの道、私たちは宇宙のチリとして消滅していくのだから、せめて、
己だけは「天上天下、唯我、独尊」「絶対肯定」の覚悟で生きたいもの。
 以下は、著者がニーチェの人生の全面肯定を要約した部分。
≪ 人生を愛さないのならば、生きている価値はない。
 人生はすでに始まってしまったのだから、人生そのものを愛するのが、
人生を味わいつくすベストな方法だ。自分の人生なんてと嘆く人は、
今の人生から逃げたがっている人だ。しかし、どこへ逃げようとするのか。
熱狂へか。享楽へか。陶酔へか。安逸へか。癒しへか。あるいは死へか。
 しかしそれらもまた、死でさえ人生の中にあるのだから、人生から逃げる
ことなどまったくもって不可能。人生はゆったり全面的に享受するしかない。
自分の身に起こったいっさいの事柄を享受し、肯定するのだ。それは人間
として気高いことなのだ。 自分の身にだけはつごうの悪いことが起こらず、
幸せと良い出会いと潤沢さだけが舞い降りてくるように、と多くの人は願う
かもしれない。もしそのようなことがあるならば、人の生ではないだろう。
生そのものが成り立たないだろう。すると、人はやっぱり逃場がほしくなり、
宿命とか運命とかを信じようとする。何もわからならないでいる状態よりも、
オハナシでもいいから、ストーリーがほしくなるのだ。 自分の意思では
どうにもならない事柄、なんとも理由がわからない事柄を選んで、宿命とか
運命といったカテゴリーへと納めてしまう。そういう傾向をあてこんで、
領収書が発行されない商売を開く輩。 占い師たちだ。
 ところで、ニーチェは運命愛を持つことを勧めている。
すると、ニーチェは占い師たちのように運命や宿命を信じていたのだろうか。 
そうではない。二ーチェは、人の身上に起こる事柄を運命と呼んだにすぎない。
そして、どんなことが起きようとも、いっさいを受けとめて肯定するようにと
くり返し主張したのだ。これがニーチェの運命愛だ。あるのは人生の全面肯定。
何が起きようとも、「よしっ」という態度だ。決断がつらい結果を生んでも
「よしっ」という態度だ。自分のなすことすべてを肯定する態度だ。
・・(略) 部分的な時間を人生と呼ぶのではない。人生はすべてを指す。
部分的になんらかの物差しをあてて測定して結果とするのはあまりにも小さ
すぎはしないか。人生を全面肯定する人は、今のこの人生がもう一度そのまま
くり返されても、ツァラトゥストラのように「よしっ、もう一度」という。
 なぜならば、どういう決断をしようとも、まったく悔いがないからだ。
すべてを享受するのだから、反省や後悔など起こりようがないのだ。
むしろ、人生とはこういうものかとおもしろがるだけなのだ。
それは、人間としてとても気高いことではないだろうか。周囲の人々に
人生の尊さと、生きる意欲を我が身をもって教える人ではないだろうか。
それよりも、何が起きてもひるまず、たじろがず、むしろ不敵な笑みを
浮かべて取組む生き方のほうが人間としても高貴ではなかろうか。≫
▼ 中村天風の『積極一貫』の主張が、ニーチェの引用であることが
 見て取れる。 父が死期を悟り、死に逝くときに、母親に、
『再び生れ変わって、全く同じ人生を生きたい』と言ったという。
戦中、戦後の動乱の中を激しく生きたのを知っているいるから、
よくぞ、言えたものである。羨ましい限りである。激しく生きただけ、
後悔が少なくなるということか。 振返ってみて、本当に良い時代に
生を受けたことに感謝する。人間として生を得ただけでも奇跡だが!

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5633,お金に強くなる生き方 ~⑥
2016年08月17日(水)
            【お金に強くなる生き方 ~佐藤 優 (著)】
   * 高い学歴も、金で入手可能
 ここで、「子供を幼児から投資対象にする辛らつな世界が現実に存在する」
という。こうしたのが、官僚、弁護士、医師などになって、世の中を牛耳る
のだから、一般人はたまったものでない。中国の一人っ子政策で、親が自分の
将来を託すために子供教育に全てを捧げている。大学でも、付属の小学校から、
エレベーターで上がってきた人は、受験勉強で魂を磨り減らしてきた連中より、
違った強みと弱みをあい持っている。卑近の例で、幼稚園、保育園に通った人
と、通ってなかった人は、何かが(温みの有無)違っていた。~その辺りから~
≪ 資本主義社会において、お金は絶対に必要です。私たちは、生きていくため
 に必要な食料、衣服、住宅、水道光熱費、サービスなどを商品として購入します。
自分で商品をつくってもそれが必ず売れるとは限りませんが、お金があれば
どのような商品でも買うことができます。商品は、いつもお金に対して「片思い」
をしているのです。
 高い学歴も、生後10カ月から月24万円の授業料がかかるプレスクール(保育園)
に子供を通わせれば手に入ります。主流派の経済学者(近代経済学者)は、人間を
投資対象と見ることを躊躇しません。
 慶応義塾の中室牧子准教授は以下のように指摘しています。
【 人的資本投資の収益率は、子どもの年齢が小さいうちほど高いのです。
 就学前がもっとも高く、その後は低下の一途を辿っていきます。そして、
一般により多くのお金が投資される高校や大学の頃になると、人的資本投資の
収益率は、就学前と比較すると、かなり低くなります。 (中室牧子著
『「学力」の経済学』ディスカヴァー・トゥエンティワン・2015年)】
 中室氏の言説にはそれなりの説得力があります。新自由主義的な弱肉強食の
競争社会では、富裕層の子供は幼児期から良質の教育を受け、集中して机に
向かう習慣と礼儀正しさが身につきます。だから小学校に入ってからも自発的
に勉強し、その流れで進学校に進み、偏差値の高い大学に入ります。
すると官僚、起業家、弁護士、医師、公認会計士など、社会のエリート層に
なる可能性.が高まります。≫
▼ オリンピックでメダルを取るのは、幼児の頃からの天才教育が背後にある。
 そこまでしないと、そこは、戦えない世界。最近、日本も外国に比べて
劣らないのは、こういう幼児から教育を取り入れた成果。20歳の頃から、一日、
2~3時間の読書を自分に課してきたが、半世紀も続けた割に、効果というと?
これは、効果とかいう問題ではないが、としても。 5歳までの生活環境と両親
の教養レベルがあったということ? 尤もこれは、全ての人に言えることだが!
5年前の事業整理から5年半、めげなかったのは、多くの日常生活の「独行」の
生活習慣があったことがある。  ~で、これも偶然だが、 以下につづく!

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4536, 閑話小題 ー種銭の話
2013年08月17日(土)
   * 山種証券の創業者の種銭
 自分が汗水たらし働いた金を種銭にしてこそ強い資金になる。山種証券の創始者山崎種三の逸話がある。
《 米屋の小僧をしていて思いつく、米屋だからネズミが多くいる。それを保健所に持っていくと、一匹
僅かな報奨金が貰えることを知り、ネズミを捕まえてコツコツと小銭を貯めて、親方の許可を得てヒヨコを
飼って雑米を与え育て、卵を産ませて、それを売って投資資金の種銭をつくり投資を始めた。》 
 これからし株式投資も、その延長で手堅かったのだろう。
 そういえば、父が子供達に似たような実践的な金銭哲学の教育をしていた。幼児の頃から、年末にお年玉を
子供達全員が貰う。それが楽しみで嬉しいが、正月が明けると、父が他からも貰った、お年玉袋を全て回収、
それぞれの預金通帳に入金する。そして、それぞれを金庫の中に保管しておく。年に一回だが、その通帳の
残高を見せてもらう。それが十数年すると、それなりの金額に。子供の頃から自分の通帳を持たせることと、
使わないで預金する生活習慣を持たせることが父の狙いであった。
 目先の欲望を抑えて種銭をコツコツ積み上げる重要さを時間をかけ教えていた。家風は一見派手だが、
生活は質実剛健。地方都市の商家なら、何処も似たようなもの。そして高校の入学時に、10数万円の預金
の通帳を渡されて、売買の手続きをするから何か値上がりしそうな株を選べという。それから、毎日、日経
新聞の経済欄を真剣に見るようになってしまった。数ヶ月かけて、ある医薬品メーカーを見つけた。 
当時、鼻風邪から慢性鼻炎になっていたが、特効薬が売り出すというニュースを見ていたためだ。それを5年
ほど持ったが、期待ほどの値上がりはなかったが、それでも数割の値上がりがあった。
 しかし、その種銭が人生を変えることになった。 二十歳の頃、軽井沢のアルバイト先の山荘で、学生仲間
4人と話していて、外国に行く予定が無いのが私だけだった。他の三人は、さほど豊かそうで無かったが、
要は行きたいという気持ちがあった。当時は、まだ年間20万人しか渡航してない時代だったが、私も決心を
すれば行けるかもしれないとの思いが出てきた。その時、思ったのが、自分の種銭である。 丁度、その頃、
ある友人に「大学のサークルで、海外旅行研究会が一ヶ月の欧州旅行の企画で参加者を募集しているが、
一緒に行かないか」と誘われていた。しかし、当時の私にとって、まさか自分がと、取り合わなかった。
当時で40万、現在なら300万~350万である。 しかし軽井沢で、「そうだ、私には20万円があった!
あと25~30万、都合をつければ私でも行ける!」と、思い立った。アルバイト時期が終わって向かったのは、
東京の寮ではなく、実家のある長岡にした。 そこで列車の中で「頭の固い父に、そのまま頼めば断られる、
なら母親に相談すれば良い」と。 で、母に相談すると、「私が反対すると必ず逆を言うから、夕飯の時、
話を切り出しなさい」と、賛同を得て、作戦を実行した。 父親は知ってか、知らずか、母との共同作戦に
乗ってしまった。その数日後に気づいたようだが、後悔した様子はなかった。
 その欧州旅行が、私の人生を変えてしまった。あの一ヶ月間の経験のカルチャーショックで半年間は、
ただ呆然自失状態。頭が変になる一歩手前。当時は現在ほど、情報も手軽に得ることが出来ない。それも決心
して僅か一ヶ月で、予備知識はゼロ。それがわたしには良かった。見るもの触れるもの全てが新鮮で、驚きの
連続。エッフェル塔や、凱旋門、ローマのコロセウム、スイスアルプス・・ その中で、遊び慣れた今まで
知らなかった人種との接触。 何よりも小さな固定観念が粉々になったことが、タイミングとしてベスト。 
まとまった種銭は、まずお金を資金に変えるという意味で、それ自身が準備になってしまう。問題は用途の
TPOSである。「夢を持つことと、長年の準備こそが、人生を決める」と、両親と、学生時代の様々な
経験から骨の髄から学んだことである。今回の最悪の事態でも、長年かけた万一に備えていたシェルターが、
我身を救ってくれた。
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4161, 節目時に何をしていたか ー1
2012年08月17日(金)
 ここで人生を5年スパンに区切り、振り返ってみる。ミニ自分史である。自分の姿が浮き上がってくるようで、
面白い。何度も書くが両親と時代に恵まれていたことが見て取れる。歴史的にみて、終戦後40年間ほど豊か
だった時期はないという。その中で、その豊かさを充分味わった実感は、何ものにも代え難い財産である。   
 ー まずは前半から ー
・60年前=6歳、長岡市立阪之上小学校一年生だった。担任は女性の茨城先生。20歳後半のヒステリック
 の先生で、優しい反面、厳しい先生だった。当時の住まいは長岡一番の繁華街の4階建てのビルの3Fに
 住んでいた。家は、そこで衣料店を経営していて、まさに小説のような異様な家庭環境にあった。
 成績は普通で、とにかく毎日が面白く刺激的だった。
・55年前=11歳、阪之上小学校6年。勉強に少し目覚め、虐めの要素もあったが級長にされていた。
 街中もあり、生徒の質は決して悪くはなかったが、異様な緊張した雰囲気が漂っていた。
 この辺で、その人の素質が決まってしまうという。
・50年前=長岡高校二年生で、試験試験の日々。何時もギリギリの成績だったが、追試は受けたことがなかった。
 勉強をすれど、どうしたら成績が上がるかの術が分からない辛く暗い日々。受験校のため成績で人間が区分
 されていた。
・45年前=21歳、立教大學三年。欧州の30日間旅行で、それまでの自分が粉々に壊れてしまった時期。
 人生で一番、光っていた。見るもの触るもの全てが新鮮で、明るく光ってみえていた。時代は1967年、
 日本も山頂に近づいていた。
・40年前=金沢の‘いとはん’(衣料スーパーのチェーン)を辞めて実家に帰ってきて、千葉の千城台ビル
 の計画に入っていた。父は末期ガンで東京女子医大で手術後、退院した父親と、計画を進めていた。
 父は、医者の宣言通りに手術の一年後に亡くなった。死期が分かっている父と事業経験の伝達を一年がかり
 で始めて二ヶ月目に入っていた。将来に向けた明るさと、死に直面した父親の苦悩の狭間で、真近で人生と
 事業の原点を学んでいた。翌年、石油ショックが起き、最悪の出だしになった。
・35年前=長岡の大手通の四角にある実家の衣料量販店の店長で、4歳の頃のできた古ビルの建て替え工事
 の計画に没頭していた。引き継いだ店も順調に推移、商売が面白く、身体が浮いているように動いていた。
 一種の躁状態で、怖いものなし、目は血走り、何かに取り付かれているようだった。衣料は一シーズン
 ごとに完結する博打的要素が強い。そのコツを掴むと、これが面白い。
   30年前からは次回にするが、振り返ると刺激的で、恵まれていた背景があった。
・・・・・・・
3796, 「役に立つ」とは?
2011年08月17日(水)
 * 「役に立つ、立たない」を判断基準にしてないか?
 私たちは、何時の間にか、役に立つか、役に立たないか、で物事を判断してしまう。その是非は色いろ
あるが・・しかし経験則で、我われは役に立つ立たないは結果でしかないことに気づいている。教養は、
その最たるもの。教養を役立てるために身につける人はいない。これは目的でも手段でもなく、人間性の素養
として積み上げること、そのことに意味(価値)がある。哲学などは、目先、役に立たない。しかし自分の
頭で考え、判断し、その結果を積み上げていくのが人生である。 それを放棄し、目先の利益になるかどうか
で判断したり、直ぐに手軽な身近な人の意見に従って判断、決断をしてしまい、重大なミスをする。
その辺のところを、今回の変動の中で、しっかりと見せてもらった。(実は、その最たるものが自分?)
 ~ 哲学者?の池田昌子は、著書の中で、鋭く指摘している。(「メタフィジカル・パンチ」ー学者さんー)~
【 「学者」というと、役にたたないことをする人という自嘲気味な言葉が風潮になっている。
「学問をするところ」であったはずの大学という場所が、レジャーランドか、就職予備校に変わってしまった
 世の流れに呼応しているのだろう。「学問」すなわち「役に立たないこと」、「学者」すなわち
「役に立たないことをする人」、そういう等式が、人々の頭の中に、しっかりとできあがっているようにみえる。 
 ・・・(中略)
 ところでこの「役に立つ」ということの意味なのだが、科学理論に対する科学技術の関係に明らかなように、
生活と生存に直接に関係するもののことを人は「役に立つ」と言う。 相対性理論は役に立たないが、
宇宙開発は役に立つ。 解剖学は役に立たないが、医療技術は役に立つ。とはいえ、それぞれ前者あっての
後者なのだから、この御時世、総じて理科は文科よりは旗色がいい。文科、この無用の長物、経済学者が金持で
ないことが学者が無用であることの最たる証拠だと、妙な理屈を言った友人がいるが、それなら中世の英文法
に基づくシェークスピア解釈を一生の仕事にしている学者はどうなる。 古代バビロニアの懊形文字の読解に
全生涯を賭けている学者の立場はどうなるのだ。
 ましてや哲学、哲学科。外国語に事寄せることもできない、この学科を選ぶことは就職を捨てることだ、
と私の頃でも聞いていた。が、そういったことがどういったこととかを考えることこそ先決であるはずだ、
という理屈は、私にとってあまりに自明なことだったので、考えるために哲学科を選ぶことに迷いを覚える
はずもなかった。まあこのあたりが、どうも普通の人の感覚からずれてきてしまうその核心部ではあるのだけ
れど。その生活と生存に直接に関係するという意味で、「最も役に立たない」と思われている哲学という学問を、
学問の府から追放せよという動きが文部省内にあると最近聞いた。こんな時代、実学以外に余計な金は出せ
ないと。そういえば、「総合人間学部」とか、よくわけのわからない学部の一分科として哲学科があるのを
目にしてはいた。あれは、そういうことだったのか。】
▼ この随想日記の長期講読の皆様も、今回の倒産劇で、「偉そうに言っているが、何だい、この様は」と
 思ったに違いない。私自身が、「偉そうに書いてきたが、所詮は、こんなもの。自分の脳内を、そのまま
公開した結果である。止めるなら今回がチャンス。」 と少し、動揺をした。が、しかし、「目的は、自分の
『弧』の中の内側をネット上で世界を公開することで、ネット世界を身近にすること、そして、現象世界を、
冷静に見つめる直すことが出来ることである。役に立つ立たないは現象社会の波間の判断でしかないのは、
今さら。」と、気持ちを持ち直し続けている。ある意味、断層で自分の支えでもある。役に立つ以前の問題。
振り返ると、役に立たないと思っていたことが逆に役立った方が多いのに気づかされる。目標地点が明確で
ないから、それが分からないのである。所詮、死んでしまえば同じだが。
 ・・・・・・・
3431, 我が家に新しいテレビが ー2
2010年08月17日(火)
 * 新しいTVについて ーとにかく画面が抜群に綺麗ー
(以下、字数の関係でカット2012年08月17日)
Yahooのバードウォッチのコピーしておきます。
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3056,人生は旅である
 2009年08月17日(月)
 『人生は旅である』の喩えは昔から多く言われてきたことで今さらだが、
 沢木耕太郎著『旅する力』に含蓄の言葉があったので、その幾つかを紹介してみる。
・「旅する力」それは広く云えば「偶然に対して柔らかく対応できる力」
・「人生を過ごしていく人を旅人に喩えると、人生の目標は旅の目的地になる」
・人生で起こるトラブルは旅で起こる困難性。 その解決プロセスが人生も旅を豊かにする。
・人生の大きな区切りは、旅の日程や、立ち寄った街であり、泊まったところになる。その街での
 偶然と奇遇などの出会いがあり、それにより次の展開が違ってくる。 そこは人生の交差点であり、
 人と人との交差が人生も旅を作りあげる。
・お金と知識は、人生でも旅でも大きな要素。 それは歩く旅ならバックの中の食料に喩えられる。
・旅に無性に出たくなる動機は、「感動」と「非日常」を求めること。人生でも、それが大きな要素に。
・年齢を重ねると新しい出会いが面倒になるが、自分で乗り越えなければならない。
▼ 旅の方から人生を照射してみると、人は常に新しい出来事を求めて何事にもチャレンジする必要性が
分かってくる。そこで出会う感動と、未知との遭遇こそが人生を豊かにしてくれる。人類が数千年かけて
創りあげてきた文化も文明も我われは殆ど知らないが、旅の多くの経験を通して様々な邂逅が可能になる。
地球に知的生物として生まれてきたからには、大自然も、文明も、文化も可能な限り見聞し、感動する
ことで世界を広めた分が自分の世界になる。旅に出る前の、あのワクワクした高まりが青春であり、
晩年に差し掛かった時の満足が人生の充実感である。そうこう考えると、まだまだ人生の旅路から多くの
ことを経験し続けるべきと、書きながら内省をしている。まだ与えられた人生の有り難みが足りない
ような気がする。旅路の果て。パタゴニアの果ての街で夕日を見ながら老齢の残り日とはこんなものか、
アレが人生の全てを照らしたイメージか、と思ったが。そう新幹線からみえる弥彦山の日没にも。
あと12年で後期高齢者。一つの目安と考えると、一クルーをこなすに時間は充分にある。さて何をするか、
何をしないかを真剣に考えないと。  
 ・・・・・・・・・
2691, 強者同士相互扶助婚姻 
2008年08月17日(日)
  希望格差社会 -2    ー読書日記ー
構造改革」とか「市場淘汰」という社会では、基礎的な能力が高く、かつプライヴェートな相互扶助組織を
自己創造していく。「人脈、学閥、閨閥など」に支援されていて、かつ「戦略的に考えることのできる人間」
は巧みにリスクヘッジすることができる。彼らはリスクヘッジをさらに確実化するために、「強者同士の相互
扶助組織」を強化する方向に向かう。その端的な表れが、「強者同士の婚姻」である。 これまでの家族
社会学の常識では「夫が高収入の場合は妻が専業主婦となり、夫が低収入の場合は妻が就労して家計を補完」。
この常識はもう覆えされつつある。 話は逆になっているのである。
「夫が高収入の場合ほど、妻の就労率が高く、夫が低収入であるほど、妻の就労率が低い」という傾向が
顕著になってきている。高度専門職についている「強者」の男女が婚姻し、さらに豪奢な生活を享受する
一方で、不安定就労者同士が結婚した生活能力のないカップルに「できちゃった婚」で子どもが生まれて
一層困窮化する。不安定就労者の若年男性は、事実上、自分と同程度に社会的弱者である不安定就労者の
女性の中からしか配偶者を選べない。(高度専門職に就いている女性強者が男性弱者を配偶者に選ぶ可能性は
ほとんどない)。 だが、弱者同士の結婚は、「共倒れ」のリスクをむしろ増大させるだけ。不安定就労の
若年女性が、男性強者の配偶者に選ばれる(「玉の輿」) 確率はそれよりはずっと高い。しかし、リスク
社会では、かりに女性が不安定就労者であっても、男性強者は配偶者に相当の学歴や教養や人脈などの文化
資本を要求する。言い換えれば、男性強者の専業主婦たりうる条件は「文化資本を備えた強者の家庭のご令嬢」
であるというかたちで、予め限定されている。未婚率の急上昇、少子化の進行の背景には、この勢いづく
「強者連合」によって蹴散らされた「結婚したくてもできない弱者」の急増という事実がある。リスク社会は
「勝つ人間は勝ち続け、負ける人間は負け続ける」というフィードバックを繰り返し短期的に二極に分化。
その結果はどうなるのか。強者はより強く、弱者は一度落ちたら二度と這い上がれない。「夢に向かって
努力すればその夢は必ず実現するというのは『ウソ』である。 全ての人が希望通りの職に就けることは
あり得ない。
(以下、字数の関係でカット2011年08月17日)
・・・・・・・・・・
2007年08月17日(金)
2327, ベナレス -2                 。っω-)..。oо○(゚+。ぉレ£∋ぅ゚+。)
 インドは強烈な印象の国であった。帰路の飛行場に着いたとき、本当のところホッとした。聞きしに勝る
インドという国の文化に、良きにつけ、悪きにつけショックであった。ヒンズー教カースト制度、貧しさ
と豊かさ、タージ・マハールなどの霊廟や城、ガンジス川とベナレス、そして古代から現代までが入り
混じった社会。日本の日常とは全てちがっていた。その中でもべナレスの街とガンジス川の沐浴と、舟から
みた二ヶ所の火葬場。そしてガンジス川からみた日の出。ガンジスの火葬場周辺にいる修行僧の顔と眼。
そして我が物顔で歩いている牛。そしてライ病の集団の物乞い。幼女の乞食。この本ではベナレスの
「死を待つ館」の家族がありのままを映しだしている。生も死、貧しさも豊かさ、差別も、その全てが
リアルにそのまま露出されている。それが日本とは対照的なのである。人生の折り返し地点を越えベナレス
に引っ越してきた老夫婦や、老齢になったことで自らべナレスの僧院などにやってきた人びとなど、死期を
間近に感じる前に移り住む人もいる。この街は「死を受け入れる街」として永年をかけて奥行きを広げ、
深さを増している。インド各地から運ばれてくる死体は多い時で100体。また家族や、死者の灰をガンジスに
流すために訪れる人も毎日数千人もいる。なかには郵便で灰が送られてくるケースさえあるという。
ここは死者の為の街であり、その準備の為の街。ここの「死を待つ館」の人に、「死ぬのは恐くないですか」と
聞いても、「どうして怖いことがあるのか。ここは寺院もあり、ガンジス川もある。この街が私を呼んだのだ」
と答えて、平然としている。彼らにとって、ここでの死は誇らしいものであり、ここに連れてこられること、
その家族にとっては、連れてくることが喜びなのである。  死が喜びとは!素晴らしいではないか!  

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2006年08月17日(木)
1962, 「事業百訓」を読み直してみて
  おはよ~!(*^ワ^*)i (~O~)ふぁ・・ ねむ!
 二十五年前から書いてきた社内報の事業百訓を、明日から十数回のシリーズで振り返ってみる。
  (字数制限のためカット 2010年8月17日)
・・・・・・・
2005年08月17日(水)
 1597, ひらがな思考術 -2
ーまずは第一章のほどくの内容の概略をまとめてみた。この本は、読めば読むほど深い。
 (以下、字数の関係でカット、2009年8月17日)
・・・・・・・・・
2004年08月17日(火)
 1232, 「こころ」の出家 -読書日記
この年齢になると周囲が、定年、病、倒産、子供の自立、連れ添いの死、老父母の死、等、
何らかの大きな転換期に直面してくる。
 (以下、字数の関係でカット、2008年8月17日)
・・・・・・・・・・ 
2003年08月17日(日)
 865, 同級会-2
 昨夜は中学の同級会いや同期会があった。 小学校は一学年の同期が100人足らずのため、
5年に一度の同期会になっている。 
(以下、字数の関係でカット2008年08月17日)
・・・・・・・・・
2002年08月17日(土)
 490, 随想テーマ日記の効用
毎日一テーマで、その日思いついたことを書き続けて一年数ヶ月が過ぎた。何か毎日が、
そのために追い立てられている感がする。 
・・・・・・・・・
2001年08月17日(金)
 [111] 数ヶ月ぶりの古町