つれづれに

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 昨夜は中学校の同期の花見の会。
一次会のみで、22時前に帰宅。 11名出席。

 







・・・・・・
2007/04/14
2202, 自殺について -1

      ~~ <(_ _)> ~~
                おはようございます!
 自殺について、ここでは何回も書いてきた。
書いても書いても尽きないのが自殺である。
考えてみれば、自殺ほど考えさせられることはない。
「死」が哲学(考えること)の究極であるから、
自分で死を実行する自殺は、深い意味があって当然である。
    
歳を重ねれば重ねれば重ねるほど、生きていることの深さに気づくためか、
自殺に対して否定的になってきている。状況がそう言わせていることもある。
若かりし時に何度か挫折をするたびに、この世から消滅をしたいと心底思った。
しかし、今から考えてみても気持ちの何処かに
「今のこの気持ちは何時か変わり、必ず素晴らしい未来ある
という楽観があった。それは未来という時間があったからである。
この数年でも従兄弟や従妹の亭主やポン友が自殺をしたが、
死にたくなるほど苦しかったのだろう・・・。

先進国の中で、日本が一番自殺率が高いと聞いてから10年近く経つ。
数年前に韓国が一番になったようだが、同じ位の数字である。
検索で『日本の自殺率』というキーワードで検索したが、
なるほど1990年代後半から異常に自殺率が跳ね上がり、
7~8年間は先進国の中で一番になってしまった。

 以下は、幾つかのHPの自殺の現状をマトメタものである。
不景気と体制変換期には自殺が跳ね上がることからみて、
環境の変化と、その不適応と、自殺は大きく関連しているようだ。
ーー
 
日本は、人口10万人あたりの比率に換算する自殺率でみると世界第10位で、
旧ソ連・東欧圏を除く主要先進国の中では最も多い。
主要先進国の自殺率は、米国10.4人、英国7.5人、フランス17.5人、ドイツ13.5人、
 に対し日本25.3人(平成16年)。
日本の自殺率を押し上げている最大の要因は「成人男性」の自殺だ。
平成14年、15年ともに自殺者の72%は男性が占めている。
このうち、25歳~44歳までの男性の自殺率は42.3人と著しく高い(平成14年)。
100人の死者のうち、なんど24人は自殺!

この年齢層はリストラ対象層。
再就職しても、給与は落ちる。
家のローン、子供の教育費、親の介護の資金と、
お金はいくらあっても足りない。
生命保険の保険金目当てに自殺を企てる人間も多い。

この年代を含む30代~50代男性の自殺の動機は、1位が経済・生活問題である。
女性や他の世代では自殺の動機1位は健康問題だが、金の切れ目が人生の切れ目とは、
なんとも哀しい。

 主な自殺のサインは、
うつ病にかかっている、
・周りの人とかかわりをもてない、
・身の回りの整理を考えている。
・ゆうううつな状況を不安な口調で訴える、
・アルコールや薬物に依存している、
・長期にわたる不眠を訴えている、
・人との接触がほとんどない、などがあげられる。
 
ー自殺予防としては、
 一人で悩まずに、妻、家族、親、友人に相談すること。
それができないときは、「命の電話」「自殺防止センター」などに
電話で相談するのがよい。相談することで、心が少しは軽くなる。

 ー日本における自殺の手段は、
・圧倒的に首吊り  20,669件(64.4%)、
・次がガスか排気ガス 3,538件(11%)、
・飛び降り     2,774件(8.6%)と続く。
・拳銃とライフル銃による自殺は、それぞれ13件、19件と少ない。
                    ーつづくー
以前書いた内容をコピーしておきます。
ーーーーー
2006/10/25  2031, 「私」のための現代思想  -15
       (+>∀<+)ノ おぁはは~ようさん!

人間は「生きること自体が『緩慢なる自殺』である」と言ってしまえば、
それまでだが、戦争もある意味では集団自殺ともいえる。
いや集団殺戮の方が正しいか?
   
《私》にとっての「超越確実言明」を守るために死ぬことも、
私にとって必要なのかも知れない。
人間の最後に残された自由へのジャンプとしての自殺もある。

自殺にも正しい自殺と、正しくない自殺があるという。
自分であるために死ぬ、それもイスラエルマサダの砦の集団自殺のように、
自殺厳禁のユダヤ教徒の自殺なのだから意味も深い。
この場合の自殺を正しくないとは言い切れるだろうか。

誰の目にも明らかな自殺に「子供の道づれ心中」がある。
子供を自分の所有物と思いこんでいるから、こういう暴挙にでるのだ。
自殺をするには、それなりの理由があるが、やはり
「自殺は決して許されるものではない!」のは、道理である。
それが永遠の自由のためにといっても!


・・・・・
2006/10/25
2031, 「私」のための現代思想  -15
                  (+>∀<+)ノ 
                 
人間は「生きること自体が『緩慢なる自殺』である」と言ってしまえば、
それまでだが、戦争もある意味では集団自殺ともいえる。
いや集団殺戮の方が正しいか?

《私》にとっての「超越確実言明」を守るために死ぬことも、
 時にとって必要なのかも知れない。
 人間の最後に残された自由へのジャンプとしての自殺もある。

自殺にも正しい自殺と、正しくない自殺があるという。
自分であるために死ぬ、それもイスラエルマサダの砦の集団自殺のように、
自殺厳禁のユダヤ教徒の自殺なのだから意味も深い。
この場合の自殺を正しくないとは言い切れるだろうか。

 誰の目にも明らかな自殺に「子供の道づれ心中」がある。
子供を自分の所有物と思いこんでいるから、こういう暴挙にでるのだ。
自殺をするには、それなりの理由があるが、やはり
「自殺は決して許されるものではない!」のは、道理である。
それが永遠の自由のためにといっても!

ーー
第五章 「私」が「生きる/死ぬ」ということの意味
                   -④
 * 正しくない自殺*

正しい、正しくない自殺というのも変なものだが、
それでも「正しくない自殺」は、誰の目にもハッキリしている。
それを象徴するのがインターネットで知らないもの同士を募り、
複数の者達が一度に命を絶つ「集団自殺」である。
彼らは「死ねば楽になる」という「誤論理」で揺らいでいるので、
その揺れを止め、自殺を遂行するために、<他者>による引き受けを
必要としている。

この場合、普通の他者の共振を受けることもできるが、集団自殺志願者は
その人たちの《私》を嫌います。
その人たちの《私》は自らの「超越確実言明」を守る方向に走るからです。
そのような呼びかけに答えてくるのは、同じく「死ねば楽になる」と感じ、
死を決意している人たちということになる。
それはお互いの《私》の「非存在=存在の否定」を引き受けあうのだから。

「《私》の存在を引き受けてもらう」はずの行為が、
「《私》の存在を否定すること」を通して行われるからです。
存在の引き受けは、「存在しつづけることを引き受ける」ことであるはず。
しかし集団自殺は、「ともに存在しなくなること」を引き受けあうになって
しまうからです。

{解}死に際まで独りでは不安なので一緒に行こうという弱者の論理も
  なるほどと思わないでもないが・・・「死にたいやつは死なせておけばよい」
  と同じ意味で彼らは「死にたいのだから勝手に死なせて」というレベル。
  壊れたラジオは自分地震で自らを直すことが出来ない・・・
  この本を読むまで、自殺について考えたことがなかった。
  しかし考えれば考えるほど、自殺を否定できなくなった。
  自殺を否定したのは、「支配階級が最下層の働き手のロスを最小に
するためにつくり上げた価値観でしかない」という論もある。
    ーー

  * 正しい自殺*

正しい自殺とは、一回性の人生で、闘いぬき、他の物語を時間の許す限り試し、
その結果としてギリギリの判断において、
「死ぬことによってしか、<私>が<私>でありつづけることができない」
と考えるとき、それは「正しい自殺」となるということです。
これは「名誉のための死」とか、「誰かのための死」を称揚するのではなく、
あくまでも「<私>でありつづけるために死ぬ」ということである。

  ーーー
正しい自殺かどうか判断できないが、
イスラエルで初めて知った「マサダの砦の集団自殺」である。

マサダ砦は、死海の西南にある要塞。
ヘロデ王の建てた離宮だったが、70年のローマに対する反乱時、
過激派のユダヤ教徒が最後の砦として篭城したが、ローマ軍によって落とされ、
その後2000年間、ユダヤ人は流浪の民となった縁の地である。
ケーブルカーで頂上まで上がるとヘロデ王の宮殿、サウナなどが残っている。

一世紀、ここを要塞にして戦ったユダヤ教徒約1000人は2年の篭城の後、
ローマ軍に侵入される直前に集団自殺を遂げた。
下を見下ろすと、ローマ軍の陣地となった場所がくっきりと見え、
攻撃のため砦に向かって積み上げられた人工の山が残っている。
その完成の前日、女子子供数人を残して集団自殺を決行した。
「奴隷になるよりも死んで自由を」という言葉が、有名である
現在イスラエルの新兵の入隊式はここで行われるという。
この集団自殺が正しいかどうかは、歴史が判断するのだろうが、
意味の無い集団自殺ではない。

肉体的な苦痛から逃れる自殺も、ある意味で容認されてよい。
それは肉体の死によって、肉体の耐えられない苦痛からの避難になる。
現在の社会は、その死を認めていないのは明らかに誤りである。
苦痛の緩和の体制ができていて、その上での話なら別。

  自殺の是非も含めて、全て根本より疑うことも必要なことだ。

         \(^▽^*)バイ!