つれづれに

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 今朝はポタリングへ。 
早朝の自転車散歩をしている人は皆無。
健康に非常に良いのは続けていればこそ。
 
 桜は三~五分咲き。例年より咲が良いようだ。
来週の木曜日は、福島江横のホテルで桜見会の飲み会。
平成最後になる。 やはり年号の変化は心理上、大きい。




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4774,ぼんやりの時間 ー7
2014年04月10日(木)
                「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著) 
   * 「怠」―「1日四時間労働」の夢
「怠」肯定の論など、それもラッセルというから驚いた。ーその辺りからー
《 英国の哲学者であり数学者であったバートランド.ラッセルは、一九三二年
『怠惰への讃歌』という論文を雑誌に発表。怠けることは「いいことなのだ」と
いえば、昔はむろん、いまでもかなりの反発を買うことになるだろう。
 お前は怠け者の味方をするのか、この世に怠け者が横行すればマジメに働く
ものは損をする、働くことをおろそかにする世の中なんかおしまいだ、など
など非難のツブテはつきないだろう。怠けることは大切なことだと主張した
ラッセルでさえ、「何もしないで怠けているものに、悪魔がいたずらをする」
という子どものころに聞いた格言を紹介し、怠けることを恐れるあまり、いま
まで一生懸命に働きつづけてきたと回想する。 それでもなお、ラッセルは
「仕事はよいものだ」という信念こそ、恐ろしく多くの害をひきおこしている
と主張する。 ラッセルはなぜ「仕事はよいものだ」という世問一般の常識を
批判し、「怠惰はよいものひぽだ」という主張をしたのか。
 人びとが生きるうえで大切なのは「閑」である、という思いがラッセルの
主張の根幹にある。勤労は神聖であり、働くことはすばらしいものだという
考え方は、支配者、富裕階級が、働くものにそう思いこませるためにいい
つづけ、その企みが一般にもひろまったとラッセルは考える。 
 少数の特権階級は、他人の労働のおかげで多くの閑な時間を享受している。
自分たちの快適な閑を守るためにも、特権階級は働く人に向かい、「働くこと
は大事なこと」といいつづけてきた。 「私が本当に腹からいいたいことは、
仕事そのものは立派なものだという信念が、多くの害毒をこの世にもたらして
いるということと、幸福と繁栄に至る道は、組織的に仕事を減らしていくに
あるということである」と、ラッセルは書いている。 文明が起こってから
産業革命まで、人ぴとはせっせと働いてきた。妻も、働ける年齢になった
子ども働いてきた。しかし、最低の生活支える分しか手元には残らず、
食料は支配者階級が管理した。飢饉のときは、余剰物資は支配階級の管理下
にあり、多くの労働者は餓死した。労働者たちは、十分な閑をもつどころで
はない貧しい暮らしをつづけいた。 》
▼「人生で最も大切なことに縁が無くなるのは、暇な時間が無いため」と、
 ラッセルが指摘する。 私の選んだ事業は装置産業だった。 当たりさえ
すれば、当分は何もしないで済む時間が、褒美として差し出される。当初は、
戸惑い、暇を持て余し次の設置に取組んで、最後は、過剰投資でダウンした。
しかし、その間の膨大の時間は、何ものにも代えがたい贈物であった。 
冷静に考えれば、長期装置産業など、この激変の時代に、そぐわないが、
後悔が少ないのは、膨大の「怠」の時間を得ていたため。これは当事者で
なければ理解できない実感。そのため、解放された現在、肩に羽がはえ
空中を飛んでいる感覚がある。いずれも、同じでしかない、ということ。 
生きるのは、辛く、哀しく、面白く、滑稽な、ことである。立場が変われば、
見方も変わる、ということ! 振返ると、挫折して呆然としていた時に、
人生で一番、必要なことをしていた。聖書を読んだり、講演を聞きに行ったり、
旅をしたり、溢れる言葉の整理とか・・
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5504,愛と孤独   ―池田晶子の言葉 ~⑦
2016年04月10日(日)
     『幸福に死ぬための哲学 ―池田晶子の言葉 ー』池田晶子(著),
  * 疑わなければ、信じられない
《 人間は、まず自分を信じていなければ、他人を信じることはできません。
 自分の中の普遍的なものを見出すことで、自分を信じると同じに他人を
信じることができるのです。普遍的なもの、つまり、誰にも共通のその真実
を見出すためには、人は考えなければなりません。 考えるということは、
疑うということです。自分の、他人の、あらゆる言動や心の動きを、
これは何か、本当か、真実はどこにあるのかと、徹底的に疑うことで、
真実は初めて見出されるのです。だから人は、疑わなければ、信じられない。
そして、信じていなければ、疑えないのです。》  ~『私とは何か』
☆ 「信じるものは救われる」でなく、「疑うものは救われる」、いや、
 一度、「信じなければ、疑えない」ということ。疑うこともなく、
信じることもなく、百まで生きた人の一生。 これも人生である。
会社整理から5年経過、そこで見えてきたのが、自分と他人の浅い底。
自分の人生を中途半端に生きてきた蟠りの対象にもってこいの対象になる。
それが逆照射で炙り出てくるのは、それぞれの人の、そして自分の歪な姿。
――
   * わかる力は愛である
《「わかろう」という意志、これは何か。言うまでもない、優しさである。
 わからないものをわかろう、自分ではない他人をわかろう、この想像的
努力のまたの名は、ほかでもない、愛である。愛のない人にはわからない、
愛のない人が、わかっている以上のことをわかることはあり得ない。
なぜなら、最初から、わかる気がないからである。わかる気のない人に、
なぜわかるわけがあるか。愛していないものを、なぜわかる気になれるか。
わかる力は、愛である。えてして人は気づいていない、真の知力とは、
愛する力であることを。》         ~『残酷人生論』
☆ 「真の知力とは、愛する力である」とは・・ 愛する人のことを知り
 たがるのは分かるが、逆に嫌いな人は、生理的に遮断して、脳から消して
しまう傾向が私には強くある。愛するには訓練を要するが、必要な訓練である。
「哲学とは、知を愛すること」というが、わかろうとする力こそ、愛の産物。
成るほど、親の愛とは、いや万人の愛は、理解する力、本源である。
――
  * 愛とは、
《 内に引き籠もるほど、外へ開ける完結することで、底が抜ける自分と
 他人を分けられないのは、他人と自分だからである。愛とは、つまり
こういうことである。 》     ~『リマーク』
☆ 書くとは、文章化するとは、物語化するとは、一時的に、自分の内に
 引き篭もることである。それが深いほど、気持ちが入るほど、外に開ける
ことになるため、自分の底が割れることになる。それが同調すれば、自分も
他者もなくなる。 だから、この随想日記が15年も続いた。