つれづれに

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/549/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive


 昨日のシネマは、デズニ―の『メリーポピンス リターンズ』評価は85点。
ボヘミアンラブソディ』95点。
『アニー』が90点の評価からみれば低い。
 上映時間の関係で吹き替版が悪かったようだ。

 今日は、中学校の同級会の予定。 15~6人の出席だろうが、
男たちは壁フラワー? 消耗度が少ないだけ、女性は元気。
何故か死亡するのが、男たちばかり… 




・・・・・・
・・・・・・

「ゴールデン・ルール」のコーナー
2015/12/02
武器としての決断思考 ー①     
        ー武器としての決断思考~ 瀧本 哲史 (著)ー
 図書館で見つけた本で、京大の医学部で場違い?の『起業論』を教えている
内容に興味を引かれ借りてきた。医師の世界も、将来的に、そう甘くはない。
30年以上前に新潟で立ち上げた「木鶏クラブ」の会が、今も二ヶ月に一度、
開かれている。そのの例会に、年末か、年始に、年一回参加しているが、去年、
新大医学部の20歳の学生で、考えるところがあって、一年の休学をとって、
白紙で将来を考えたいという青年が来ていた。『思い切った判断だね!』
と褒めると、『教養課程で、一年の休学は東大医学部の学生の一部で
受継がれてきたのを聞き、考えるところがあり真似ただけ!』という。
この「武器としての決断思考」が、そういう人たちのバイブル?かどうかは
不明だが、私が人生を通し、学んできた要点を、軽く一冊に凝縮してある。 
『青年は荒野を目指せ!』である。でないと、溝沼の腐った一員になっていく。
 人生からみたら、「事前の一策は、事後の百策に勝る」の、具体例。
「事前に学んでおくべき人生戦略本」で、さすが、東大、京大医学部。
20歳の白紙の状態の決断は人生を大きく左右する。~アマゾン内容紹介より
《 東大×京大×マッキンゼー式・決断の技術!
 本書は、著者がいま、京都大学で二十歳前後の学生に教えている
「意志決定の授業」を一冊に凝縮したもの。今後、カオスの時代を生きていく
若い世代にいちばん必要なのは、意思決定の方法を学ぶことであり、決断力を
身につけることです。もう過去のやり方は通用しないし、人生のレールみたい
なものもなくなってしまいました。「答え」は誰も教えてはくれません。
 となれば、自分の人生は、自分で考えて、自分で決めていくしかないのです。
仕事をどうするか、家庭をどうするか、人生をどうするか? この本で私と
一緒に「自分で答えを出すための思考法」を学んでいきましょう。
きっと、あなたの人生を変える授業になるはずです。》
  ~カスタマーレビューより~
《 筆者は、東大→マッキンゼー→京大准教授というエリート。
人生において、自分で考え、行動ができる事の重要性を説き、その秘訣を
伝授するとの趣旨。出版社である星海社新書という会社は、「戦う事を選んだ
次世代の仲間たちに、武器としての教養を配る事」を目的として謳っています。
私は、本屋で初めて見つけた本を買って読む事は、めったにないのですが、
思わず買いました。 内容はと申しますと、ガイダンスまでは期待通りで、
これからの厳しい世界を生き抜いていくには、知識・判断力・行動力・修正力
をバランスよく身につけるべき! と実例を交えながら、うなずきの連続。
ただし、本章に入ってからは、ほとんどがディベートの基礎講座。
(大雑把に言うと)ロジカルに物事を考え、常に(正解ではなく)最善解を
導いて、行動を起そう。状況が変化すれば、適宜修正をしていこう。それが
決断思考であり、自分の頭で考えて、自分で決めて行くという事!という内容。
日ごろから、ある程度、まともに物事を考えている人からすると、
同意こそすれ、目から鱗とまではいかないでしょうか。》
▼ ーはじめにーの「武器としての教養」を身につけろーが、この書の要約。
 学生時代の教養課程から専門課程で、何を目指すかを課題を無い頭を絞って
考えて結論を出したが、正に、著者の、この要約を地でいっていたようだった。
50年前の当時は、「坂の上の雲」を目指す高度成長時代の真只中。で、結果は、
バブル崩壊への転換を甘くみて、この結果? しかし、面白く、充実していた。
 で、現在は低成長時代の真逆の環境。だからこそ、ゲリラとして、それぞれが
実学としての武器としての教養が必要になる。 既に時代は氷河期に入った。 
 その中で、久々に? 面白い戦略本に出会った。来週、この会の忘年会に
出席予定だが、この青年、来ているかどうか?   ーつづく
・・・・・・
「ゴールデン・ルール」のコーナー
2015/12/03
武器としての決断思考 ー②    
          ー武器としての決断思考~ 瀧本 哲史 (著)ー
  * 人間を自由にするための学問を ーリベラルアーツ
 高度成長期は、20年以上も昔におわり、今では時代は氷河期に入ろうと
しています。そこで選ばれし者同士の熾烈な戦い生じてくる。そのための
明らかなエリート教育が、これである。著者そのものが、更に選ばれし者。
自分自身の経験を、筋立てて教えればよい。 ~その辺りから抜粋~
《 リベラルとは本来「自由」を意味する言葉で、アーツとは「技術」。
 すなわち人間を自由にするための学問である。その基礎としての教養は、
10~20代の若い時にそのベースをつくっておくべきである。
 教養の起源は、古代ギリシャにまでさかのぼります。
 当時の社会には奴隷制度があり、奴隷と非奴隷を分けるものとして、
学問の重要性がさけばれていました。かなり大ざっぱに言えば、
「学のない人間は奴隷として使われても仕方、ない」、ということです。
 奴隷などというと、21世紀の日本で生活しているこの本の読者にはあまり
関係のない話のように思えますが、決してそんなことはありません。
 私は、いまだからこそ、リベラルアーツが必要だと強く感じています。
それも、未来の日本を支えていく10代~20代の若い世代にこそ必要なのです。
どうしてか? それを説明するため、京都大学医学部生の話をしたい。
  * どうして京大医学部生の40パーセントが「起業論」を学ぶのか?
 私は京都大学で、「意思決定論」だけでなく、「起業論」の授業も受け
持ってます。教えているのは、成功したベンチャー企業ケーススタディ
中心とした、実践的な起業の方法であり、その根底にあるべき考え方です。
 その授業を受け持ってしばらく経ったときのこと。ふと履修者の情報を
整理してみたところ、驚くべきことに気づきました。
 なんと、学部別の割合で見ると、医学部の学生がもっとも私の授業を
受けていたのです。その率、40パーセント。
 京大医学部ば、東大医学部と双璧をなす最難関の学部として知られています。
卒業後は、ほぼ100パーセントの人間が医者になります。やりがいだけでなく、
高い社会的地位も報酬も得られ、まさに一生食いっぱぐれない安粛な人生を
約束されたはずのエリート中のエリートたちが、なぜ私の起業論の授業を
受けるのか?不思議に思い、私は学生にヒアリングを試みました。
すると、こんな答えが返ってきたのです。
「この国では、医者になったって幸せにはなれない」
「もう昔のように、医者髄お金持ち、という時代でもない」
「やりがいだけではやっていけない。新しい方法を見つけないと」
彼らは自分の将来に対し、明確な不安を抱いてました。》
▼ 医者の卵でも、勤務医より開業医の方が遥かに恵まれていることと、
 その開業(起業)のための知的準備を学生時代から始めておくべきも
知っている。だから、連れあいも、医師とか、資産家の娘の中から、
探すことになる。医師を目指そうというのは、本来、ある程度の資産が
必要条件である。開業するには、医師としての特性がなければ成立たない。
その特性を磨くには学生時代からの長期のリベラルアーツが必要となる。
「鬼に金棒」の金棒と、使い方は、学生時代から準備すべし、ということ。


・・・・・・

3614, 哲学は死の練習になるか
2011年02月16日(水)
    * 哲学は死の練習になるか   ー木田元
死についての特集の中に、木田元の文があった。なかなか考えさせられる
  ーまずは、その抜粋から。
≪ 哲学者ハイデガーは『存在と時間』で「自己の死」についてこう述べている。 自己の死は
「誰にも替わってもらうことができないし、誰の助けを借りることもできず、それがくることは確実だが、
いつくるのかは決まっておらず、その先にまわってみることなど決してできない、自己の究極の可能性」
なのだ、と。 そしてハイデッガーは、人間にとって「本来的な生き方」とは、この自己の死を不断に見据え、
それに覚悟を定めて生きる生き方、つまり「死に臨む存在」なのだと主張するのだ。
 ・・・ 自己の死についてのハイデッガーのこの見方はまことにユニークだが、まるで『はがくれ葉隠
のように、つねにおのれの死を見据えて生きるというのが、いったいどういう生き方なのか、私にはうまく
のみこめない。自己の死についてのハイデガーのこうした主張に対しては、少し年少のフランスの哲学者
サルトルも『存在と無』で異論を唱えている。彼にとって死は私のすべての可能性を無にし、私の人生
からすべての意味を除き去ってしまう、まったく不条理な偶発事なのである。彼に言わせると、私の誕生が
選ぶことも理解することもできない不条理な事実であるのと同様に、私の死も、理解したり対処したりする
ことのできない不条理な事実なのだ。ここで面倒な議論をする気はないが「自己の死」に関してだけは、
私もサルトルに一票を投じたい。こちらの方が私の感じ方に近いからだ。 ハイデガー自身『存在と時間
で持ち出した死生観の根にあるのは自分の個人的信念であることを認め、どんな哲学的思索も、結局こうした
個人的信念を出発点にせざるをえないのだと主張していたそうである。・・・つまり、私たちは生命の大きな
流れの中から飛び散った一滴のしずくのようなもので、しばらくはそうした個体とし生きているが、やがて
また元の大きな流れに引きもどされ、蕩々と流れてゆく。それが個体にとっての死なのだ、とそんなふうに
思うようになってから体調が落ちて、あまり永くは生きられそうもないなという気分になったときも、
それほどジタバタしなくなったような気がする。こうした一種アニミステイックな死生観を整理し体系化
すると神道のようなものになるのではないかと思うのだが、あまり体系化などしない方がよいのかも。
本当に死が間近にせまったとき、肉体的苦蒲のなかでこんなとりすましたことを言っていられるかどうか
自信がないが、これが今のところ私の死をめぐる想いである。≫

ー以上だが、言葉を持ってしまった人間は、他者の死を身近にみて、自分の死を思い抱くようになった。
 死んだ人は、その瞬間に何もないが遺体が残る。それが死と勘違いするから、妄想が起こるのだが、
その妄想を理性で乗り越えようとしても、それも無理の話である。木田元は、滔々と流れていく大河に
引き戻されて一滴が固体の死のイメージを述べているが、毎年同じ木に咲く桜の花とも、それぞれの
イメージがあるもの。
 ・・・・・・
3249, 最近のベーカリー事情
2010年02月16日(火)
  * ベーカリーのファーストフード化
 数ヶ月前から週に2~3回は新幹線の改札口に近いベーカリーで通勤途上、昼飯用のパンを買っている。
サンドイッチや、ナンで惣菜を包んだものや、カレーパンなど種類が多くあり、値段の割りに美味しい。
中でも食べられる。300円から500円で済み、外食の半値で済む。他に構内スーパーにある弁当とか、
専門店街の菓子屋が売っているオニギリを買っている。その御蔭か週一も外食に出なくなった。
要は気晴らしに出ていた外食が面倒になったのだ。ところで、知人が「カテゴリーキラーの外食が新潟郊外
の青山に去年の暮れにオープンした」と話してくれた。・テイクアウトも、イートイン(店内でも食べられる)
も出来るベーカリーで、レストランのような外観と、イートインのできる客席はレストラン風
・ポイントは、コーヒーが無料で、二杯目が20円
・家族3~4人で、1500~1800円で食事のできる店というのが受けている・・・ その話を聞いて、
ラブラ万代の地下にあるベーカリーが、コーヒー無料にして、その脇にある自由食事スペースのテーブル
と椅子をレストラン風にした感じ?」というと、その通りという。成るほど、親子三人でパンやミニピザを
 2~3個ほど食べても、コーヒーが無料なら2000円以下で済む。長岡と新潟の新幹線構内にあるベーカリー
で、パンを買ったお客にコーヒー無料にすれば、客は何割か増えるだろう。 イートインの客単価は下がる
だろうが、客寄せになる。考えてみれば、好調のマクドナルドは、コーヒーなどが付いたセットが300~
600円だから、別に、取り立てていうことでもないじゃないか、ともいえる。パン屋のファーストフード化
ということか。一時、焼きたてのパンを出すファミレスがブームになったことがあったが、何時の間にか
萎んでしまった。あらゆる業種が恐慌の中で知恵を絞って集客をしている。最近では、回転寿司が
「握りセット」を始めてきた。10カンを違う種類にして安く出す。 スーパーの弁当も300~400円が中心。
500円といえば豪華にさえ感じる。
・・・・・・・・・
2009年02月16日(月)
2874, 成長モデルから 脱成長モデルへ  -2
「規制されたモデル」といえば、戦後日本の20数年の日本経済のモデルが理想であるが、これは
成長モデルそのもの。結局は資本主義経済はバブルの繰り返すしかないのである。その本質はネズミ溝
であるからだ。その繰り返しの中で、自由と平等を如何に両立させるかという難しい問題は人類の永遠の
テーマと重ねる。突き詰めると、どれもこれも共同幻想でしかない。 共同幻想でしか人類はコントロール
できないとすれば、共同幻想の「正・反・合」を繰り返すしかない。 更に前回に続いてポイントの部分を
抜粋する。
 ~~ 
  *『自由放任的競争』から『規制された競争』
ケインズが終生説いたのは、実は、グローバリズムへの警戒なのである。
『頽廃的で国際的で個人主義的な資本主義が世界をかけめぐり、国内経済を破壊することこそ、彼は
恐れたのである。『それは、知的でなく、美的でなく、公正ではなく、有徳ではない。われわれは、それを
嫌っている。いまやそれを軽蔑し始めている』とさえ彼は書いている。この『資本の気まぐれな浮動』から、
一国の経済を守らなければならない。それこそが、ケインズをして、政府による資本の管理と公共投資
唱えさせた理由なのである。そして、住宅、個人的サービス、都市の美観、地方生活のアメニティ、といった
『国際商品ではないもの』をこそ重視したのである。」
  --
「今回の危機をきっかけに、世界秩序は、アメリカ一極構造から変わっていくかといえば、アメリカと中国
の綱引きになるだろう。中国は、製造業が成熟しきらないうちに金融が拡大するといういびつな経済構造
のため、経済を膨張させていかないと国がもたない。
(字数の関係でカット11年02月16日)
 ・・・・・・・・・
2008年02月16日(土) 2
509, 新・知的生産の技術 -2
 好感の持てる人である。東京の知人が言うには「最近、東京では健康を兼ねてスポーツタイプの自転車で
チョットした移動に活用している人が多くなっている。」という話を聞いたばかりなので、成るほどと感心。
この人の場合は、携帯用のナビまでつけている。ナビは個人の行動まで自由にしているようだ。ここまで
電子機器が発達し、ソフトも高度化したなら、己を空しくして逆に無駄取りをして合理化に徹したほうが
良いに決まっている。その意味で、この本は批判が多いかもしれないが、見習うべきことがあまりに多い。
ここまでグーグルが世界の人たちに支持をされるには、それなりの内容があるはず。なら、限度のある自分
を徹底的に排除をして、己を空しくして圧倒的なベストに従ったほうが良いという彼女の問いかけが、
シンプルで訴える力がある。
・補助脳としてのパソコン
フォトリーディング親指シフトマインドマップなど、じぶんなりのOSを整え
・アナログとデジタル入力のバランスを使い分け
・マスメディア情報を減らし、実体験、他者体験、良書を三大情報源とする。
・自分以外の感覚器、特に耳をもっと活用する
・そして睡眠はよくとり、運動をよくする
だいたい、これにブログや日記、メモをよく取ること、これが言いたいことである。
大部分が進学にエネルギーの大部分の人が取られているとき、このような合理性で自己研鑽に
勤めれば、そこそこのことが出来ることだ。
・・・・・・・・・・・・
2007年02月16日(金)
2145, 「狂い」のすすめ -2
        才ノヽ∋ ー ヾ(^ω^*)                              
 この本は「世間」に対する私の鳥瞰視と同じトマリ木の目線である。第一章の「狂い」のすすめは、
「世間を幻覚と割り切ること。その為に自分を狂者と割り切ってしまえばよい。世間は狂っているのだから、
そんなものを元々相手にしなければよい。」私自身の人生を振り返ると、「狂」が一つのキーワードであった。
狂を演じてないと、事業など立ち上げることができない。現状否定が事業の立ち上げの切り口であるからだ。
その辺の二代目が、その「狂」を冷笑しているのをお笑い芸人の目で、その反応を計算している自分の様も
面白かったが。現在もそうである・・。いや、狂いが目立たなくなったということか!定年を迎えようとして
いる男が急ごしらえの定年後の準備を始めている様はコミックといえばコミックである。「狂」になって一度
自分を破壊しないと、定年後の第二の人生の構築はできない!その意味で、この本は彼ら向きなのだろうが、
はたして理解できるか?この本では「狂者の自覚」という表現をつかっているが・・・
それまでの人生観を根こそぎ疑って、新しい人生観を構築しないと!それが第二の人生である。
この無自覚な連中を集めて商売にしようと目論んでいる人がいるが、その悪臭は自分では分からないだろ。
でも、その人たちに目先の安らぎを与えるどこが悪いか! という論法も成り立つが! どうでもよいことか。
 この本の中で一番気に入ったのは、ーカタツムリからナメクジへー というところである。
  *そこを抜粋すると*
「カタツムリが旅に出てナメクジになって帰ってくる」私たちは常識や既成概念、世間の物差しを持っています。
そういう殻を背負ったカタツムリが旅をするのは、そうした殻を捨てるためです。殻を捨ててナメクジになって
帰ってくる。そうした気持ちでする旅こそ、最高の旅である。たとえば、インドの貧困だって、貧困を悪いもの
だとみるカタツムリでなく、貧困もよいものじゃないかというナメクジの目でみることができれば、素晴らしい
旅になるはずです。
 インドの子供の裸足を見て「かわいそうに・・」と思うかもしれませんが、「裸足のどこが悪いんだ、
上等の靴を履かされて、重い鞄を持って塾通いと、裸足でのびのびと遊んでいるインドの子供と、どちらが
幸福なんだ・・・?」とね。もう一つは ーついでに生きているー である。「‘人生なんぞ無意味である'
と言うのであれば、なんでお前は生きているのか? それなら、生きている価値がないじゃないか」と言うが、
その反論として「人生に意味がないなら、自殺さえ必要ないじゃないか」と反論していた。そのうちにうまい
言い方を考案しました。それは、人間は、-ついでに生きているーという言葉です。
人間に生まれてきて、生まれたついでに生きているだけだ。 別段、それ以上の意味はない。
人生に意味があり、目的があるとしたら、私たちはその目的に向かって邁進したくなります。
そうすると、競走馬的な人生になってしまいませんか。
 --
まあ、一日一日を切断して、その一日を「日々是好日」と楽しめということだ。
二度とない人生、そして一日である。著者こそ、実際は逆に生きてきたし、現在もそうだろう。
悩める人に対して、そう教えるのが彼のお仕事であるから、それでよいが。
「人生に対して意味を求めつくしてこそ、その逆もさもありなん」と相まってこそ、人生無意味の意味が
深まるのである。「そんなこと、言われなくても分かっている!」というが、一応、念のため。カタツムリ
だものね、人生は。 どっちも同じ? 喩えがね~ 同じか! カタツムリが、定年を向かえて、否が応でも
ナメクジになったとき、その人は如何すればよいか?ということだろう。 こういうナメクジに新しい殻を
与えようとしているのか、「あの人」は!それも既成品を。オーダー作れないもんね!その人たちは今さら。 
だから、安直な仕入れ品を当てがおうというのか! もともと安直な殻なら、その後の殻も安直で
 充分というのも理解できるが。でも、何かおかしな話である! まあ、考えるに丁度よい材料になるが。
                  b(^o^)ノ バイ!
・・・・・・・・
2006年02月16日(木)
1780, 他罰の人
       (`・ω・。)っノXXXX>C【才ノヽ∋―】゚+。*゚+。
 ある本で「他罰」という言葉に行き当たった。他罰性は、現代のキーワードといって。特に情報社会の
病巣といってよい。自分のマイナスすべてを他人や社会のせいにする傾向の強い人間は何処にもいる。
私がタレントの‘みのもんた’を嫌いなのは、職業柄もあるが、他罰性が非常に強いからである。
まあ観ている方も他罰を一緒に楽しんでいるから本人の責任だけではないか。     ~~旦_(^O^ )
人生の後半に(いや前半もそうだが)明るい生活を送っている人の分析がある。
・縦と横の人間関係がキッチリできていて ・本業以外にライフワークを持っていて
・何ごとも前向きで楽観的で       ・他罰性が無いこと   
それと(私の意見だが)奥さんが明るい人である。逆に社会に適応できない人とは
「他罰性が強く、そのため人間関係が崩壊、何ごとも後ろ向きで、趣味が少なく、暗く温かみが無く、
そのため神経症になっている人」である。    ゙o(≧◇≦*)o o(*≧◇≦)o"ダメ ジャ~!!             
誰の中にもある毒素であるが、その傾向が強いか弱いかにある。私が敏感なのは、他罰性の強い人間。
自分の中に、あるから嫌なのだろう。その傾向の強い人種は常に攻撃対象を探している。それを思いつく
まま挙げてみると親が悪い友人が悪い、学校の先生が悪い、上司が悪い、会社が悪い、政治が悪い、
社会が悪い、等々 社会的貧者に、この傾向の強い人が多い。「人生は最も偉大な言葉」とは‘自分の
生きてきた全て(人生)が何もいわなくても全ての自分を語っている’ということ。その中で一番の問題
になるのが他罰性といってもよい。ルァァ!! (*`д´ノチキショ! (`?´)ゴルァ!!
夫婦間など、男女間のトラブルは他罰から生じる典型なことである。 自分のことを考えてみれば家内
との喧嘩は何時もどちらが悪いかの言い争いである。 会社組織も他罰の牽制で成り立っていると
いっても過言ではない。  ーつづく      
・・・・・・・・
2005年02月16日(水)
 1415, NHK視聴料について
数年前から、NHKの視聴料の支払いに対して疑問を持っていた。そして、最近起こった不祥事事件。
自宅で三紙とって日経新聞を止めて、WOWOWに加入。次に新潟日報を止めて、薄型TVを購入した。
NHKを止めて、CSに加入したくなるのが当たり前のことである。以前から会社で支払っているNHK
の視聴料の支払いに対して、何時止めるかタイミングを計っていた。「宿泊のお客は自宅で視聴料を
払っている。それが何で、ホテルの客室の視聴料を払わなくてはならないのか!おかしい?」と考えて
当然である。先日のラグビーの番組の中止(途中から抗議殺到で放送したが)で、切れてしまった。
会社に行って早速、「NHKの支払いの必要無し!」と宣言をした。ところが、呆れた顔をした支配人 
「10数年前から、一円も払ってません!」私「・・・・」やるべきことは、やっていたようだ。
個人は、結構NHKの番組みで楽しんでいるので払っている。
ーーー
2005/01/31   ー1399, NHKと朝日新聞
 (字数の関係でカット09年02月16日)
・・・・・・・・
2004年02月16日(月)
1048, デート・カウンセラー
 最近、TVが面白い。特にBSTVが色いろな世界を鋭く切り取っている内容が多くなった。普段知ることが
できない世界を垣間見れる。一昨日のBSの、[地球ウォーカー]のニューヨークのデート・カウンスラーの
目を通したドキュメントがよい。結婚相手を見つけるチャンスが少ないのが大都会の独身者の悩みという。
特に女性の場合、チャンスが少ない。大都会は同姓愛が多くて、出会いパーテーを開いても男性の数が
少ないのが悩みになる。10対8といっていたが、実際はもっと少ないようだ。この33歳のティナという
ブロンドのデートカウンセラーの目を通したニューヨークの独身女性の結婚問題を掘り下げていた。
女性20人位のセミナーで色いろの講義をしているのだ。現在、学生時代の日記を書き移しているが、
男の立場からみても合点することが多い。結論からいうと[ありのままの自分に自信を持って、
オープンに積極的にあれ。但し、これには守るべき原則がある!」という。
 ーその原則とは
・直前(その場)のデートは断る4日後に引き延ばすこと  
・相手の言動を分析しない勝手な分析などしないで軽く考えること
・女性の場合、支払いは相手に              
・あせりは絶対に見せない
・メールの返事は3回に一回ぐらいにしておく 等々である。 
 この番組に出てきた独身女性を見ていると(いや大方)、男性不信の人が多い。
前の男性が駄目であっても次の人が駄目とは限らないのだ。
  (字数の関係でカット11年02月16日)
 ・・・・・・・・・・
2003年02月16日(日)
683,まれに見るバカ-読書日記-3              ー 続く
・・・・・・・・・
2002年02月16日(土)
333、20歳の頃 -1
立花隆の「二十歳のころ」が面白そうなのでネットで買い寄せた。本屋で立ち読みをしていたが、実際に
買い読み始めるとこれが面白い!立花隆と東大の立花ゼミ生が「各界著名人や無名の人の20歳のころの事」
をまとめたものである。一番の人生の不定形の可能性の塊のころである,と同時に一番不安定のころでもある。
そして一番その後の「人生の基盤」を作っている時期でもある。私の周辺の人を見ていると「大学時代何を
していたか」で人生が決まってしまう。その頃遊びほうけていたり、ただ漫然と大学生活を過ごしてきた人は、
今もその延長にいる。人生の要所であることに若さゆえ気づかない。「さすが立花隆!」と思うのは、
「ホームページ上でサイバー大学という形」で進めていったことである。ゼミのメンバーと同じ年代の人と
普通なら、これをやらなくては絶対会えない各界の人から、色々な啓示を受けたことだ。それもホームページ
作りを通してである。まったく羨ましい限りである。人生のOFF-J-T,いやOFF-L(LIFE)
-Tそのものだ 私の二十歳頃を近くに書いてみよう。それより学生時代の頃になるか。 屋上から
「通行人の自分」を眺めているみたいで面白い。
 ー2004年2月16日記
この文章が、恐らく「22歳の日記」を公開するキッカケになったのだろう。