つれづれに

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 昨日は、先週金曜日のシネマの日の振替で、
『マスカレード・ホテル』を見てきた。 評価:85点。
平日の月曜日の10時半にしては50人以上も入っていた。
東野の小説の人気か、主役俳優か? 
 ついでに、『東京インテリア家具』の店内を見ようかと
思ったが、映画館の椅子が腰痛を呼び起すみたいで、
そのまま、帰ってきた。

 



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・・・・・・

5805,なぜ日本人は世間と寝たがるのか ―読書日記 2
2017年02月05日(日)
      <なぜ日本人は世間と寝たがるのか: 空気を読む家族
                         佐藤 直樹 (著) >
  * 「世間」の4つのルール
 世間をまとめると、《細かいカースト制度にならった差別意識の状況下で、
中元・歳暮、旅行先の御土産、貰い物の御裾分けなどのやり取りの中で、個人
の顔をひた隠す。建前は平等原理を引合いに、法事や祝い事などは大安などを
引合いにして物事を進める極く普通の人たち》になる。これを否定すると、
日本社会では、非常に生きづらくなる半面、アウトサイダーに徹すれば、
それなりに生きていける。その代償として(大変な人)のレッテルをはられる。
 それに惑わされたくなけらば、自分の事業を立上げて、その中で唯我独尊で
生きるしかない。ただ、事業が傾くと、ふくろ叩きにあう。元もと、その接点
を最小にしておけば、馬耳東風で受流すことが可能。 要するに「世間とは
寝なければよい」だけのこと。父親は、『カス』の一言で切捨て、全く、気に
しない風にしていた。他人とのラインを家族に引いていた明治男の典型。
   ~その辺りの要約を抜粋~
≪ 歴史学者の阿部勤也は、「世間」のルールには主要に4つあるとする。
 ☆贈与・互酬の関係(中元お歳暮などのお返し、)、
 ☆身分制(年齢にこだわる、英語ではブラザー・シスターであり、
  兄・姉を区別しないし、相手が大統領でも二人称はユーだ)、
 ☆共通の時間意識(個人の時間意識が存在せず、人間平等意識で能力差を
  認めない、皆一緒という同調圧力)、
 ☆呪術性(クリスマス、盆の墓参り、お払いなど、信心深くはあるが特定の
  宗教を信じるわけではなく、根底にはアニミズム自然宗教の類がある)
  1 贈与・互酬の関係
 お中元やお歳暮が良い例。
相手との関係や上下関係を考慮して内容に差をつけるのも特徴的です。西洋には
プレゼントの習慣はありますが、贈与や互酬を習慣として行うことはありません。
メールにしてもそうです、送った以上は相手もそれに返答しなければいけないと
いう暗黙のルールがあり、LINEだと「既読スルー」などと揶揄されて気疲れする
原因にもなっていますね。日本人にはこのように「こちらがこれだけのことを
したのだから、相応の返礼があって然るべき」という考え方を持っているようです。
  2 身分制
 憲法第14条で法の下の平等を謳っているにも関わらず、色々なカーストがまかり
通っているのが現状です。スクールカースト、学歴偏重、ママカースト、部落差別
などなど。表には出さなくとも、そのような差別意識が法律よりも強い影響力を
持っているのが日本の世間です。つまり憲法がタテマエになってしまっている。
西欧でももちろん差別はありますが、この場合は法的に「人権」を掲げて戦うこと
ができます。個人が厳然と存在して「法の下の平等」が根幹をなす社会だからです。
しかし、日本は世間が強烈な影響力を持っている。だから、実質差別があっても、
それを覆すのが難しいのです。
  3 共通の時間意識
 出る杭は打たれる、ということです。
極論を述べれば日本人に「個人」はいません、これは西欧から輸入されて強引
に訳した言葉であります。みんな同じ時間を共有している、だから一人だけ
違うことをするのは許されない、みんな同じであるべきだという思想ですね。
能力差を認めないのも特徴的です。誰かが努力の末に結果が出なかったとしても
「運が悪かった」として、決して「劣っていた」とは認めない。人間には本来、
能力や才能の差があるものです。しかし、日本ではそれを周りにひけらかしては
いけないという「人間平等主義」が支配的です。皮肉なものです、これほど
あからさまに「身分制」が渦巻く世間で、表面的に平等を謳うのですから。
これでは多くの人が良く分からなくなり、病んでいくのも頷けます。
  4 呪術性
 合理的根拠のないルールが多いです。
大安に結婚式を挙げ、引っ越しを避け、友引に葬儀を執り行うことをしません。
大きな建物を建築する際には土地の神様に祈りますし、地鎮祭もする。
日本は先進工業国の中でも、異様に多数の古いものを保存する唯一の国。
合理的に説明のつかない俗信・迷信の類を尊重するのです。法律ではこのように
決まっているから、というのは「社会」という概念が醸成された文化でのみ通用
することであり、世間のルールが世の中を支配する日本では通用しません。
法律よりも呪術が強い影響力を持っている。
 西欧では、このような俗信迷信の類、呪術性をとうの昔に否定しています。
一神教多神教の違いも大いに影響しているようです。日本独特のアニミズム
がこのような土壌を形成しているのでしょう。    ≫
――
▼ 一定量の経験と知識が人生には必要と最近、つくづく実感する。そこから、
 知恵とか、新たな経験、知識が生まれ出る。 世間様から内実を隠し、目立つ
ことなく無難に人生を過ごすことが、生きやすいのが娑婆。そうこういうが、
世間にしろ、社会にしろ、理解していると思いこんでいる妄想がベースにある。
その妄想度合いの高いのが世間人ということ。誰もかれもが、妄想の分厚い
レンズを通して外界をみている自覚がないだけ。せめて自覚を持たないと!
 ・・そういうこと。
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4343,閑話小題  ーテレビの現状と未来 
2013年02月05日(火)
 先週金曜日のNHK・60周年記念「テレビの未来」について千人アンケートを
しながらパネラーが討論する番組が面白かった。NHK以外の各局のディレクター
も参加していたが、内容は冒頭からシビア。「現在のテレビはツマラナイ、
面白くない」と、街頭インタビューが辛口のものばかり。その上にTVを持たない
人や、不満の多さに各局のディレクターは言葉を失っていた。
無くて困るものの第一がパソコンで47%、携帯が24%で、テレビが22%
には驚いた。これではテレビがパソコンに凌駕された結果になる。 私の場合、
「未来型のTV」を買い替えて二年半になるが、見るのは殆どが録画したものか、
再放送のもの。「テレビが面白くなくなった」「無くても困らない」という
街頭での意見が多いが、私は逆で、「スマートテレビ」に買換えて、バカ
みたいだが、俄然に面白くなった。地デジの全番組を30時間分を自動的に
録画してしまう。ゴールデンタイム19時から24時までを設定すると、
6日間分の全チャンネルが自動的に録画される。それを週間のテレビ欄をみて、
面白そうな順に見る。2~3日に一本の割合で面白いのが必ずある。 
設定無しだと、全地デジの30時間分が自動録画され、時間が過ぎたものは
自動的に消去される。これに面白そうなBSの旅番組やWoWoWを録画しておけば
見切れないぐらいの面白い番組がストックされる。どんどん録画をし、どんどん
除去する。だから「面白くない番組がない」というのは、面白い番組を見逃して
いることに彼らは気づいていないだけ。 実際、テレビに嵌るのは良くないのは
分かるが、面白いものは面白い。その上に、パソコンでも、TVでも、Youtubeなど
の投稿録画を見ることが出来る・・ ネットゲームを知らない人と気ままに
遊びたくなってきた。 で、再びパソコン教室に通う時期が来たようだ。
居間では横にiPadを置き、TVドラマの合間にネット・サーフィンかゲーム。
ますます馬鹿になっている。 大馬鹿ならよいが、中馬鹿のようだから、
どうもこうも! 最近の話題はTVの内容が多いか。

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3603, 閑話小題
2011年02月05日(土)
   * ほんの5年前までは
 5~6年前までは「自分の生活は中の中」と答えた人が53パーセント、中の下が27パー、合計八割が
中流と思っていた。現在はどうだろう? 中流といえば350万~650万、上流に近いのが700万以上
あたりか。 2005年に下流社会という言葉が流行語になって格差社会を象徴する言葉になった。この時の
下流は、食うや食わずの状態ではなく、中の下くらいに位置する人を対象にした言葉だったが、この数年
では下の人を対象にするようになっている。
 貧困に「相対的貧困率」という数字がある。平均世帯所得の半分以下の世帯の数が、全世帯に占める
割合をいうが、1984年~1994年の7~8パーセントが、2000年には一挙に倍近い15パーに増えてしまった。 
最近では、20パーを遥かに超えているのだろう。 下流とは、ウィキペディアによると
≪2007年の国民生活基礎調査では、日本の2006年の等価可処分所得の中央値(254万円)の半分(127万円)
未満が、相対的貧困率の対象。これは、単身者では手取り所得が127万円、2人世帯では180万円、3人世帯
では224万円、4人世帯では254万円に相当する。≫ リーマンショック以来、この数字は急激に悪化して
いるから、2割は、貧困層。ところで、世界の相対的貧困率は、いくらだろうか? 感覚的にみて、
日本の半分以下だろう。とすると、10年、20年かけフラット化していくプロセスに入ったということか。
 ― 
   * 百円ショップの楽しみ
 2~3ヶ月に一度は百円ショップに行っている。 新潟では昼休みの運動に歩いて10分ほどの駅南の
「セリア」に。通勤の帰りには元ダイエーが撤退したあとの越後交通ビルの2Fに「ダイソー」がある。
一回に千円程度を買うのが楽しみ。殆どが衝動買いだが、外れは2割位?。 鞄の中と、机の周りは
百円ショップの商品で溢れている。ノート、電子機器などを入れる袋もの、小物を一時的に置くカゴ、
などなど。 数日前に買ったのが、自転車のカバー。 電動アシスト自転車を千円位のカバーをかけて
いたが、強風で何処かに飛んでしまっていた。 そこで、HCで買おうとしたら、家内が曰く
「百円ショップで、一度見てからにしたら!」といわれ先日、セリアに行ったら、材質は落ちるが、留め
金付のものがあった。百円ショップの商品は機能だけに絞ってあって百円に押し込んである考え方は良い。
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2010年02月05日(金)
* 狂ってしまった猿
 ニューヨークのブロンクス動物園のアフリカゾーンに近い大型類人猿舎に「鏡の間」という場所があり、
そこに立つと当人の姿が、鉄柵越しの鏡に映る。その看板に「The most dangerous animal in the world.」
と書いてある。世界で最も危険な動物が「人間」とは痛烈な皮肉である。「象」「ライオン」などの野獣
とは比較にならないほど危険な動物が、生存を賭けた人間世界形成している。鏡の下には、
「24時間ごとに19万万匹の割合で増えているこの動物は、他の動物を絶滅させたことのある唯一の動物です。
この動物は、今では地上の動物の全てを絶滅させてしまう力を手に入れました」と付記されていた。
これは1963年に、自然保護の分野で著名なウィリアム・コンウィン博士によって設けられ、この警告も
博士の言葉。既に10数年前に、大型類人猿舎は撤去され、「鏡の間」も消滅してしまっている。
年中サカリがついている、スケベな動物と加えてなかった? 宇宙から地球を眺めてみると、まさに
地球の生命圏を消滅させてしまう、狂ってしまった猿という自覚できるようになってきたのが唯一の救い。
その最大の狂いを生じさせたのが、アッラーという神を発明したこと? 
数千年たった現在でも縛られているのだから・・・
「世界で最も??な動物」の??を、‘馬鹿、助平、知性的、凶暴、等々と色いろ当てはめると?
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2863, アメリカ発 世界自動車危機 -2
 2009年02月05日(木)
この番組で、電気自動車を取り上げていたが、脱化石燃料の流れ加速しそうだ。自動車の心臓部分
はガソリン・エンジンだが、それが電気モーターに変わると、これまでの自動車の概念が変る。
・「自動車が電気商品になってしまう」のである。 現在一台あたり3万点の部品が、2万点で済む。
・前部のエンジン・スペースが、大幅に減ってしまうのである。
・更にガソリンエンジンのため、車体は鉄と決まっていたが、電気モーターの場合は熱を持たない
 ために、プラスチックやカーボンも可能になり、軽量化が劇的に進み、エネルギー効率も良くなる。
・電気は家庭のコンセントからでも充電可能になり、結果としてガソリンスタンドは激減。
・これまでのような原油値上がり、即ガソリン代の高騰の構図はなくなる。
 これからの10年間は、部品メーカーを含めた劇的な産業構造の転換が起こる。ガソリンエンジン
などの部品メーカーは、存在そのものが問われるのである。いや既存メーカーの存在意義も問われる
のである。 既存のシステムが逆に重荷になる。
(字数の関係でカット2009年2月05日)
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2008年02月05日(火)
2498, 無くてはならぬもの -6
 ー 一度だけの人生 ― どこに根を張るかー
 P-196  他人とばかり比べないで世界中に、私はたった一人しかいないんだ、とかけがいのない自分
という存在ということを、もういちど、しっかり見出してほしい、と。あなた方の人生は誰にも代わって
もらうことはできないし、しかもそれは二度と繰り返すことができない一度限りの人生なのだ。それが
本当にわかってないと、人生をどう生きるか、という問題は、真剣に考えていくことができない。
 p-199  たとえどんな小さな仕事でも、自分が一生をかけてやりとげる、そういう人生の目的を見出し
てほしい。そうして二度と戻ってこない一日一日を、そのことに打ち込んでゆく。それは無限の希望である。
天才とは、努力をする人間なのである、といった人がいる。私たちの個性というのは、何かに生涯を通して
何かに打ち込んでいく、そういう努力を通して形成されていくもの。あなたは社会的に成功しなくてもよい。
自分がやりたい事を一度かぎりの人生に打ち込んで努力してみたらよいではないか。そのことに10年打ち
込んでみたらどうか。その道ではエキスパートになるだろう。一流大学を出ているなど、誰も問題にしない。
どんな小さなことでも、これが自分がしたいことを生涯を通して行えば、世界のために何か貢献することが
できるのである。それで途中で倒れることがあっても、一日一日を、そういう仕事にうちこんでいれば、
人生はそれで良いのではないだろうか。
 P-202 亡くなった和辻哲郎が若いときに書いた「樹の根」というエッセーを思い出す。
「偶然再興」の中に収められ文章であるが、「・・・ある時、砂に食い込んだ松の木の複雑な根を見守る
ことができた。地上と地下姿があまりにも違っていたのである。楽しそうに葉先をそろえた針葉と、それに
比べて地下の根は。戦い、もがき、苦しみ、精一杯の努力をしつくしたように、枝から枝と分かれて、
乱れた女の髪のごとく、地上の枝幹の総量より多いと思われる太い根、細い根を無数にもって、いっせいに
大地に抱きついている。私は、こういう根があることを知っていた。しかしそれを、目の前にまざまざと
見たときに、思わず驚異の情に打たれぬわけには行かなかった。
ーーー
「順境には枝を張れ、逆境には根を張れ」という言葉があるが、当時、この「樹の根」のエッセーの言葉が
心の支えであった。個性とは、自分が人生をかけて打ち込んだ中でこそ生まれるもので、むしろ逆境の中で
こそ形成される。38年ぶりに読み返してみたが、私にとって「人生を支えてくれた三冊の本」の一冊。
実は読み返して今、気づいた。それでは他の二冊は何か? 近々に取り上げてみようか。 大本教
出口王仁三郎の本と、新約聖書である。
・・・・・・・・・
2007年02月05日(月)
2134, 時間についての一考察 -1
    b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪
最近ますます哲学づいている。今日は「時間」について考えてみる。その中で「いま、ここ」-現在ー
の意味が深い。考えてみても解ったような解らないような難しい問題である。「いま、ここ」という永遠
への控えの間?には非常に深遠な光と陰を感じる。 感動した瞬間、感激した瞬間、そして心の奥底から
感謝した瞬間、怒り心頭に達した瞬間、人を殺してやりたい位に憎んだ瞬間、そのどれも自分を構成して
いる骨組みである。その時々のことは、ほぼリアルに記憶に残っている。その瞬間・瞬間は、過去・未来
ではなく「その時点での今・現在」に経験したことである。
(字数制限のためカット 2010年2月5日)
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2006年02月05日(日)
1769, 閑話小題
ー エ!まさかー
先月の末の話になるが、長岡のある料理屋が閉鎖をしたと朝日新聞の新潟版に別枠で大きく取扱われていた。
店主が店の2Fで心不全で亡くなっていたのが翌日になって発見されたとか。戦前(この言葉も古いが。
それから七十数年も続いた店で、両親に何度か連れられていった記憶が鮮明に残っている。タンシチュウや、
エビフライなど独特の味付けだった。昨年の暮れ、家内とその店の向かったが途中で吹雪いたため、駅前の
居酒屋に入ってしまった。一昨夜、長岡で飲んだおり居酒屋とスナックでその話をしたところ、自?という。
4~5軒まわった店では全員がそのことをしっていた。いま殿町では、その話でモチッキリという。どの店も
不景気で他人事でないだけに身に沁みるという。有名な飲食店が数年前に店主が病死をして閉店をしたのも、
実は自?だったとか、あの店も、その店の誰かも、実をいうと??で・・、そのほとんどが借金苦だった
という。これだけ災害が続けばお客の足が遠のくのもわかるが。          
・・・・・・・
2005年02月05日(土)
 1404, 立花隆の旅について
この人の本を読むと、その博学と行動力の凄さに驚きざるを得ない。深い人間洞察を何気なく言ってのける。
長年かけた知識構築の結果といえば、それまで。人間洞察を旅を通して語っているから尚のこと解りやすい。
人生は旅であるからだ。今回借りてきた、「思索紀行」-ぼくはこんな旅をしてきたの序論のなかの
「旅と人間について」の次の文章でもいえる。ーすべての人の現在は、結局、その人の過去の経験の集大成と
してある。その人が過去に読んだり、見たり、聞いたりして、考え、感じたすべてのこと、誰かと交わして
印象深い会話のすべて、心のなかで自問自答したことのすべてが、その人の最も本質的な現存在を構成する。
考えた末に、あるいは深い考えなしにしたすべての行動、その行動から得られた結末に対して反省や省察
加えたすべて、あるいは獲得されたさまざまの反射反応が、その人の行動パターンを作っていく。人間存在
をこのようなものと捉えるとき、その人の全ての形成要因として旅の持つ意味の大きさがわかるだろう。
日常に支配された、パターン化された行動の繰り返しからは、新しいものは何も生まれては来ない。
知性も感性も眠り込むだけだろう。意欲行動も生まれては来ない。 人間の脳は、知情意のすべてにわたって、
ルーチン化されたものはいっさい意識の上にのぼらせないで処理できるようになっている。そして、その
ように処理されたものは、記憶にもされないようになっている。 意識の上にのぼり記憶されるのは、新奇
さの要素があるものだけなのだ。旅は日常性からの脱却そのものだから、その過程で得られたすべてが新奇
の要素を持ち、記憶されると同時に、その人の個性と知情意のシステムにユニークな刻印を刻んでいく。
旅で経験するすべてのことがその人を変えていく。その人を作りかえていく。旅の前と後では、その人は
同じ人であり得ない。旅の意味をもう少し拡張して、人の日常生活ですら無数の小さな旅の集積ととらえる
なら、人は無数の旅の、あるいは「大きな旅の無数な構成要素」がもたらす小さな変化の集積体として
常住不断の変化をとげつつある存在といってよい。
 ーー
以上であるが、人間と旅の本質をズバリ言い当てている。旅行に行って帰ってくると、それまでの自分とは
別人になったような感覚になる。行った先の自然や文明文化から受けた感動によるものだ。旅行で感動した
幾つかが、自分の人生の魂の奥に沈んで、人生の大きな骨格になっている。そして一回行った旅行は、
それぞれが今も現実的に続いている。TVや書物で、その後も多くの疑似体験ができるからだ。何処かしら
週に2~3回は情報媒体を通して、その続きの経験をしている。この随想日記も、過去の出来事、考えた
こと経験の集積ぶつを拾い上げ書き出している。汲んでも汲んでも尽きることなく出てくる。
・・・・・・・・・
2004年02月05日(木)
1037, 「わたしは悪い不動産屋」  
 読書日記-1
本屋で何回も立ち読みをしていたが、ついに買ってしまった。知り尽くしている私が読んでも、面白い
のだから素人は是非読むことを勧めます。こと不動産業界に関しては、一般の素人は非常に用心すべき世界。
最近よく目にするマンションでAP?とかいうマンションがあるが、知る人ぞ知る危ない典型の??である。
建設業界やマンション業界すべてを、素人なら危ない世界と認識しておくべきだ。内装の一枚内側の設備
などは、どうなっているか解らない。会社は何処も火の車、何時潰れたもおかしくないのが内情。彼等は
どこで手を抜くか、目に見えない配管とかの隠れたところしかない。その結果は、買って10年~20年
経ってから欠陥として出てくるから始末が悪い。間違いなく10年~15年で五分の一以下に確実になるのに
20~30年ローンで買わされている。無知そのものが罪だというが、露骨に自分に帰ってくる世界である。
マンションを10年前に買った人のいまの相場を聞いてみればよい。殆どが5分の1以下である。
ファッションの服やバックは、一年経てば五分の一である。コストからみると、買った瞬間2分の1である。
本人もそれでよいと納得した買っているので、それはそれでよい。それと同じ感覚でマンションや住宅を
買ってしまうことが問題なのである。新興のマンションメーカーはファッションマンションとして割り
切ってお客の無知を狙っているのだ。それが消費者の意向ならそれでよいと。酷いといえば酷いが、
飛びつく無知も無知である。
  以下はホームページから調べた概要である。   ー つづく
 ーーーーーーー
 のっけから意表をつくタイトルだが、実際にはない土地を売るなどのいわゆる地面師みたいな
本当に悪い不動産屋なら、捕まって免許剥奪、不動産屋も解雇である。 従って、この本で扱うのは、
あくまで合法の範囲で、どのように不動産屋がインチキ臭いことをするのかといった話である。
(字数の関係でカット2009年2月05日)
・・・・・・・
2003年02月05日(水)
672,嘆きの部屋

・高校同級の土田氏が入院でわずか3週間で亡くなった。 食道がんで肺に転移もう末期だったという。
 一瞬で地獄の底に突き落とされた恐怖は言語に絶するものだったろう。「病院には嘆きの部屋」があると
 モッケイクラブを事務所の部屋で開いていた時に、看護学校の末期医療専門の女先生が話してくれた。
・絶望のその気持ちや混乱を大声で喚くことで静める防音の部屋がどこの病院にもあるという。もう他人事
 ではない年齢だ。それまで生きてきた全ての人生を圧縮した時間が流れるという。キュ-プラー・ロス
 という「死ぬ瞬間」という本を出している死の見取りを専門にしてきた人が、その本で究極の死を受け
 入れの心理過程を書いている。確かまずは拒否、怒り、取引ー自分との、受容。
・父が死ぬまでの一年間、しっかりとその時間の中でそのプロセスをみた。 生への渇望ーその砂漠の
 真ん中に一人取り残された生への渇きの極限状態だ。 その時父に「昔の哲学者がー本人にとって死は
 ない!という話をした。死んだ瞬間それは自分でないから、生きている限り自分の死は存在しない。
 存在するのは他人の死だけだーエピクロス」と。父がその時ホッとした顔で「死について初めて解った
 ような気がした」と答えた対話が鮮明に残っている。それまでの父の口癖は「死んでしまえばそれまでよ!」
・死ぬのは仕方がないことである。ただ後悔をして死にたくない! いや、後悔したっていいじゃないか、
 死んでしまえば全て無なのだから。 生まれる時も独り、死ぬ時も独り。生きている時も独りだ。 
 ただ忘れているだけでしかない。考えてみれば、生まれる前の状態に戻るだけ。誰もが生まれる前の状態
 と、死んだ後の状態が生きている時でも取り囲んでいる。寝ている状態はその際に戻っているのだろう!   
  以上、死のおさらいでした!
 ・・・・・・
 2002年02月05日(火)
 322、一人旅 ー「北海道」編
「北海道、九州、紀伊半島能登半島一周」と、それなりに経験しているが世界一周一人旅の経験はない。
人見知りするためか、どちらかというと「一人旅」は苦手!と思って振り返ってみると結構経験をしていた。
若い時の一番人見知りの時期ほど旅をしているのは、若さのエネルギーか?そのいくつかを書いてみよう。
今回は北海道である。大学の4年の時である。今でいうと自己逃避か、はやまた気取りか。いやそうしなく
てはならない「自身の何か?」であった。かっこよく言えば行き詰った自己打開ということだったのか?
といって、それほど無理した旅行でなかった!殆ど記憶に残ってないが、確か列車の乗り継いで青森へ!
そして連絡船で函館?そして札幌、釧路、根室、知床、網走と汽車を乗り継いだ。書いていていて、多く
のことを思い出してきた。世界への一人旅へ出なかったのが悔やまれる?いや当時はまだ無理だったのか?
あの時何故日記を書かなかったのか?書いておけばよかった!何か何処かの山の上によじ登り、尾根を歩いた
のを思い出した!一人に対して何の寂しさとか、不安は何もなかった?いやあったが忘れてしまったのか?
函館の函館山から見た夜景を鮮明に思い出した。屈斜路湖摩周湖、層雲峡と・・・一応振り返ってみると、
やるべき時にやるべき事はやっていたようだ。30数年たって、この旅行を初めて振り返ってみた。
行方不明のアルバムに写真が残っている筈だが。青春時代はいつも大きい壁があった。 その為フラスト
レーションがマグマのように溜まっていた。それがエネルギーになっていたのだろう。
・・・・・・・・
2月5日 1969年
 11時に「価格理論」の試験であった。あれだけ必死の勉強をしたが、満足がいかなかった。
帰りは、川崎と一緒だった。帰寮後は、今日の試験のショックでやる気が起きない。いや、昨日のことも
あるか。産関論の試験勉強をする。あまり熱が入らない。しかし途中から集中ができた。の中でヤマを
かけたが、どうなるか分からない。気持ちは刹那的である。