他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive
今日のYoutube
この週末で「大相撲」が終わり、「春の高校野球」が始まり、
来週末にはプロ野球が開幕、そして桜の開花になっていく。
・・・・・・
5118, 社会主義の実現を信じた狂信者という悪魔 ~3
2015年03月20日(金)
―ポル・ポト―ある悪夢の歴史~フィリップ ショート (著)ー
* ポル・ポト ―自国民の二割を虐殺した男
~まずはアマゾンの商品説明より
≪ カンボジアで二十世紀の歴史に汚点を残す大量虐殺がなぜ起きたのか?
人口700万人のうち150万人が犠牲になった、クメール・ルージュ/カンボジア
共産党首領ポル・ポトの伝記。極度の秘密主義を貫いた彼の生涯は、これまで
闇に包まれていた。しかし本書は、その軌跡を追い、クメール・ルージュ組織、
粛清、権力奪取、大量虐殺、失墜、死までを、綿密な取材とインタビュー、
膨大な資料を駆使して克明に描き出した、「決定版」といえる大著。
パリ留学から帰国したポル・ポトはクメール・ルージュを組織し、都市=
ブルジョア思想に毒された場所、農村=革命の前衛という図式を掲げて農村を
オルグ、独自の共産主義路線を推し進める。彼は背後に隠れ、血の粛清に
基づく恐怖政治で支配を固め、プノンペン占領を果たす。都市人口の大量移動、
通貨・商業の廃止、家族制度の廃止と共同の食事、強制労働など、極端な空想
社会主義は多大な犠牲者を生むことになる。まさに「悪夢の歴史」だ。
大量虐殺はなぜ起きたのか? 蛮行と悲劇の全貌を暴いた本書は我々に問い
かけるが、それは重く、根深い。≫
▼ ポルポトは空想社会主義を信じ、通貨・商業の廃止、強制労働、家族制度
の廃止を貫き、反抗する者はすべて拷問・虐殺。結果として国民の4分の1を
抹殺した。両親から引離された子供が、その拷問の執行者。1970年頃から2000年
頃までのカンボジアで起きた権力闘争や虐殺などの詳細の多くの書籍で語られ
ているが、その内容たるや、想像を絶している。出世のため、地方の役人が
しでかし、それを見て見ぬふりの毛沢東とは違い、その指示をした確信犯。
ヒトラー、毛沢東、スターリンに匹敵する虐殺が、10数年前までアジアであった
事実は何とも痛ましい。国力の向上には優勝劣敗の弱肉強食のシステムが必要
だが、大多数を占める弱者を如何に守るかが問題になる。それも文化人を狙い
うちにしたのだから、絶望的な所業である。他にも、中国による、チベット民族
120万人の虐殺があるが、何故か世界のマスコミは誰も語ろうとしない。
・・・・・・
4753,そんなに長生きしたいですか ー5
2014年03月20日(木)
『日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか』久坂部 羊著
* 老人力より、満足力、感謝力を
著者は私より10歳若いので、老いの実感が少し違うのは仕方がない。
老いは、60歳代は重症の病がない限り、ある意味、一生で最良の時節!
が分ってない? 夕暮れ時の楽しさである。70歳代も、その延長とみるのは、
無理があるが、人による。兄姉4人が70代だが、実際の心情は分からないが、
不幸でもなさそうだ。問題は、後期高齢者といわれる75歳以降。
ーここで紹介しているインディアンの教えの次の一節が良い!
《 おまえは(若者)わたし(老人)に言う、
去年という年に住むご老人よ、
昔の歌を歌うご老人よ、
目を覚まして
現実の世界を見てごらんなさいと。
わたしはおまえに言う、
どこにも住んでいない若者よ、
雑音しか聞くことのない若者よ、
世界はわたしの内部で育ってきた
だからわたしは歳月とともに豊かなのだ。
(「今日は死ぬのにもってこいの日』ナンシー・ウッド著
老人は弱るからこそ、深い知恵をつけられる。失敗し、挫折し、何度も
あきらめを経験するからこそ、新しい地平が見える。若さや元気ばかりに
すがりついていては、知恵や満足から遠ざかるばかりです。
だから幸福な老後を目指すなら、自らの境遇をあれこれ言う前に、
満足力のをつけたほうが早道ではないか。
・・ 老人の知恵として、欲望にはきりがないと悟り、‘無頓着力’
‘満足力’‘感謝力’をつけたほうがいい。 それができれば、
浅はかな若者たちも自然な敬意を抱くようになるでしょう。 》
▼ 若いうちは、感激力、感動力、感涙力が優先されるが、老いたら、満足力、
感謝力、諦念力が必要というのは、現在、実感していること。ここでいう
「世界はわたしの内部で育ってきた だからわたしは豊かなのだ」は、老いて
こそ、実感できる言葉。老いれば老いるほど、世界は私の中に収まり、さらに
広がっていく!ネット社会は、その点、非常に便利になる。今のところ長生き
したいが、歳を重ねるにつれ、どう変化していくか? 歳月、人を待たず。
・・・・・・
4386, 「うつ」かもしれない ー2
2013年03月20日(水)
ー「うつ」かもしれない ー死に至る病とどう闘うか~磯部潮著
ウツは躁鬱の躁の反動による「哀」の肥大による。その他にも連れ合いの
喪失、病気、失敗、トラブルなどあるが・・ バランスをとるには気分を切り
替えて、その肥大に喜と楽を加えることだ。これは意識すれば可能である。
* ウツは、「喜怒楽」の低下による「哀」の相対的増加による
≪ 「うつ」というのはある意味、人間の正常な反応の一つです。喜怒哀楽の
「哀」であり、私たちの日常に溢れています。ではなぜ「哀」だけが突出するか。
実は、こういう疑問の立て方に最大の欠陥があるのではないか。つまり「哀」
の突出ではなくて、「喜怒楽」の低下による「哀」の相対的増加こそが、
「うつ」をもたらしていると思うのです。人間の基本的な感情である「喜び」
「怒り」「楽しさ」は、ある意味、積極的な他人との関わりのなかでしか
産出され得ない。それに対し「哀しさ」は、積極的な他人との関りだけでなく、
関りから撤退することでも産出されます。つまり、対人的な関わりの希薄さの
先鋭化こそが、「うつ」の増加を促進させる最大の因子ではないかと思う。
戦争のときに「うつ」が減るとされるのは、戦時中は人々の結びつきが強く
なるからかもしれません。現代は価値観の多様化した社会だと言われています。
そして思考力に若干の柔軟性を欠くとされる「うつ」の人たちは、そのような
価値観の急速な変遷に対応することが困難であるために、「うつ」になると
考えられてきました(10年程前までは、診断根拠として「うつ」になりやすい
性格「病前性格」が重視されていました。価値観の急速な変化に耐えられない
ために「うつ」になるというのは、「病前性格」があると想定した上での
仮説です)。そういう一面も確かに存在するでしょう。≫
▼ ウツを「喜怒楽」の低下による「哀」の相対的増加によるという見方は
初めて。そのため独り遊びが出来れば、ウツになりようがない。独り遊びは
喜怒楽を満たしてバランスをとる効果がある。 女性が男の二倍もウツ病になる
のは、独り遊びのチャンスが少ない社会構造にもある。 今回も、二年間が
大きな節目と精神面には気をつけていた。まずは、冬期間二時間、夏場は三時間
の運動をする。この随想日記に集中する。週に一回はシネマに行く。読書の時間
を必ず持つ。就眠直後の4~5時間は熟睡する工夫をした。スーパーやドラッグ
ストアで、一人で酒と肴や身の回りの買物をする。月に1~2度は飲みに出る。
年に数度は地元から出ること、などを意識的にすることで何とか乗り越えてきた。
これは喜と楽を自分でつくり出すことになる。一日一生と、淡々とスケジュール
をこなしていれば、哀しみは肥大しない。それが出来ないのが、病。これも無知
による要素が大きい。群れてきた人は特に注意!「独りになれよ!群れてないで」
・・・・・・
4012, 事業生活39年の、独り語り ー1
2012年03月20日(火)
* 意志の確定
倒産から一年経つ。 過ぎてしまえば、アッという間だったが、ハードラン
ディングであることは間違いない。一年間は頭を冷やすということで事業総括
をしなかった?9・11テロ以来の10年の年計グラフの数字が、時代の大きな
断絶、「20世紀型既存業態の事業は全て終わった」と、語りかけていた。
ネット世界が、もう一つ、現実世界の上に出来上がり、グローバル化を促進、
NO・1しか事業として成立しえない世界が現れてきた。そう見極め判断すれば、
割り切るしかない。そして、リーマンショックと、東北大震災である。
私にとって40年近い事業が、この結果に終わったことは致命傷。
しかし事業人生の総括を一年経った現在、しておかなければならない。
元々、実家が商家であり、終戦直後に生まれた時から、創業の真っ只中が幼児期
だったため、激しい日々が3つ児の魂に刻まれていた。 そして20歳の時に、
自分も創業をしたい!という気持ちが立ち上がってしまったことを以前ここで
書いていた。 まずは、そのコピーから
* 20歳の頃ーある教授との出会い-1 2002/02/25
≪ この頃は大きなターニングポイントの時期であった。土がたっぷり付いて
いた田舎青年が、それを必死に振り払い「自分に目覚め始めよう」としていた
時期であった。キリスト教倫理の教授に「将来の自分の設計」のテーマを夏休み
に与えられ、「生まれて初めて」に真剣に将来を考たレポートを出した。
その内容に対し心の入った文章の返事が返ってきた。200人の学生に対し、
これだけ長い心のこもった返事を書くもかと感激をした。それとも
「自分の熱意を込めた内容に対する特別の返事」だったのか?
鈴木教授という名前と、授業内容が心のこもった内容であった事を憶えている。
私のその時書いた内容は、一ヶ月考え抜いた内容。初めて第三者に自分の心情を
書いた。いや書かされたのかも知れない。要旨は「両親の生き方」に対し
姉兄はその激しさ厳しさにしり込みをした。そして安易な生き方を選んだが、
自分は父の生き方を選ぶことにする。 今になって特に「父の生きかた」に
男として魅力を感じるようになった。もしかしたら、「兄二人が20歳過ぎで
不幸な死に方をした」ことも書いたかもしれない。心のこもった返事とは
「その中で、よく父の生き方を肯定をした。そしてその生きかたを選んだ貴方の
決心が心から嬉しい。貴方が自分自身で考え抜いて判断したこと、そのことが
素晴らしい!」というな内容。この時点で自分の生き方が変わった。
いや決まったように思える。もともと決まっていたのかもしれないが。
俄然それから目標がハッキリした。
「事業を起こそう!人と違った生き方をしてやろう!父が目標だ!≫
▼ それから45年後に倒産に至ったが、傷は、それほど深くない。
ハッピーエンドとしても、大して変わりがないというと、虚勢になるが、
しかし私の人生は肯定するしかない。しかし充実はしていた。これを書いた
夏休み以降から俄然、日々が面白くなった。まずは、自分づくりが始まった。
志を立て、目標を持つと人生は変わる。そして授業の科目を見渡すと、全てが、
そのための学問。そして、寮の先輩も同僚も、全てが個性的人間に見えてきた。
丁度、将来に目覚める時期だった。
・・・・・・
3646, これまでの人生は何だったの?
2011年03月20日(日)
地震 ―つれづれに 二題 ー9
* これまでの人生は何だったの?
九死に一生を得て、避難所に来た人のインタビューが生々しい上に哲学的。
ある中年女性が、「全ての生活を失って、これまでの生活と人生は何だろうか
考えてしまった」と呆然自失とした言葉が印象的。死など考えてもみなかった
人が突然、「あと数ヶ月」と宣告されて、これまでの人生を振り返った時の
言葉と同じである。これまでの生活全て目前で喪失してしまった純朴な人が、
走馬灯のように現象世界を呆然と振り返ったとき、「人生50年夢幻」の実感が
みてとれる。これは、まる一週間前に起きてしまった日本という国にとっても
同じ。この日を境に日本は、大きく変わってしまったのである。この事実を
見極めないと、判断を間違ってしまう。 また、「現在起こっていることが、
いまだ現実として受け入れられない」という言葉も、悪夢としてしか受け
とめられないのである。空ろな顔をした少女が行方不明の母親を探しながら
絶望的な声で「オカーさん」と叫んでいる姿は何をか言わんである。
一瞬で大津波が生活に襲ってきたとき、ただヒタスラ逃げるしかない。
そこで助かった人は、身ひとつしか残ってない。家族と家など全て失い、
避難所で何もなすすべが無い人が多く見かけられる。まさにホームレスの状態。
「私一人が生き残ったが、それが良かったかどうか、今でも分からない」
は、厳しい!
* TVを見るたびに、絶望的な事態になっていく!
ホウレン草と牛乳に基準値を超える放射能量が検出されたのに続き、
今度は水道から放射性ヨウ素が検出された。福島の、この時期のホウレン草
はビニールハウスでの栽培というし、牛乳の中にというと、タダゴトでない。
かなりの放射能が既に放出されているという事実を表している。最悪に向かって
ことが進むと、本州は壊滅するというのが。決してデマでないことになる。
死の雨が農産物に行渡れば、我々に待っているのは言わずと知れたこと。
だから在日の外国人は、そそくさと帰国していったのである。函館か、九州に
でも長期旅行と考えてもみたが、何を今さら・・ 充分に生きてきたから、
数年早いか遅いなら、ジタバタすることもない?
この数年、地球破滅を取り扱った映画を何本かみてきてが、
直面するとは、今でも信じられない日々である。
・・・・・・・・
3281, 5千台、トヨタ車販売をした人の死
2010年03月20日(土)
会社の車の保険の更新が毎年、この時期にある。いつもトヨタの営業の人から
電話がある時期にかかわらず、電話が来ないので事務の人が電話をしたところ、
「二日前に急に具合が悪くなり病院に行ったが、肺炎で昨日亡くなった」という。
そういえば去年のいま時分、数年ぶりに事務所に訪ねてきたが、ビックリする
ほど痩せこけていた。本人が言うには、「インドに行って帰ってきたら歩けない
ほど目眩がしたので病院に行ったら、何か訳の解らない奇病。 半年間、入院
をしていたが命にかかわる病だった」という。「たまたま紹介をしてもらった
先生が良かったので助かった」とか。初めに見てもらった病院の先生が好い
加減な先生で、処方箋の薬を貰いに行った薬局の窓口に人が、「あの先生は
当てにならない、他の病院に行った方が良いですよ」というので、知人の紹介で
新しい医者に行ったところ、奇病が分かって半年間、入院し命が助かったという。
この中に現在の医師問題など多くの医療問題が隠されている。
で、昨日の地元紙の朝刊に、本人の死亡広告が出ていたが、アッサリと人は
亡くなるものと驚いた。 加齢とともに、こういうことが多くなるのだろう。
(字数制限のためカット 2012年3月20日)
・・・・・・・・
2906, ユングの世界のような夢
2009年03月20日(金)
最近不思議なユング的?な夢をみる機会が多い。夢自体が不思議であるが。
ーその一つを披瀝してみよう
あるビルのような場所にいて、右の数メートル先にエレベーターがある。
そのエレベーターは、違う次元へ上がるようで、危険なイメージが漂っている。
ところが、上からエレベーターが下りてきて、数人の人間がドアから出てくる。
ところが全身何も着てない上に、全身が全て皮膚だけのノッペラの人間のカタチ
をした一団。階上から逃げてきたようで、私が反対にある違うエレベーターに
彼等を誘導し下界に連れて行く。その後そこに戻るが、禁断の上階への
エレベーターに乗ってみたくなる。思い切って乗ると、いつの間にか異次元の
天空に自分がいる。 時は40年前の20代前半である。そこには当時の
懐かしい人がいる。何もかも解放された天空の中で、全てが許されて洗い
流されている。しかし自分は、ここいることに疑問を持つ。もしかしたら、
あの皮膚だけの人たちと同じように、自分のそれからの過去が消されるのでは
と不安になる。 そのあたりで夢から醒める。
▼ 出来すぎたユングの世界ともいえる内容である。死と生の二つが重なり
あった内容とも解釈できる。上階へのエレベーターで上がっていった先は
時空を超えた純粋意識。下界へのエレベーターは現実社会の世界で、横に
流れている日常である。面白いのは上階〈上界)から降りてきた人が
ノッペラの皮膚だけの(個性を削ぎ取られた)人間集団である。
その彼等を違う下り専用のエレベーターというところも面白い。心の構図
ということか。この随想日記で、人生をビルに喩え、10年単位でフロアーを
分けて何をすべきか云々を書いたのが影響したのか。その時に屋上から
見える外界のイメージが天国へと一歩踏み込んだ場所だろうか。
・・・・・・・・
2542, ロシアの小話、8つ( おまけ ) ー2
2008年03月20日(木)
・交通事情
*東京発モスクワ向けアエロフロート機内で突然モーターが動かなくなった。
乗客はパニックに陥った。すると操縦席のドアが開いて、パラシュート姿の
機長が出てきた。「皆様ご安心下さい。地上に救援を求めに行ってまいります」
*新潟発ナホトカ行きの大型旅客船が沈みかけている。 船内放送「乗船の
皆様方の中で、切符を分割払いでお求めになったお客様。どうぞ1番初めに
救命ボートにお乗り下さい」
・「もしもしニコライ先生ですか?女房が盲腸の発作で大変なんです。すぐに
来て下さい!」「落ち着きなさい。あなたの奥さんは私が3年前に盲腸の手術
をしましたよ。いいですか?人間には2つ目の盲腸はありえないんですから」
「はい、その通りです。でも先生、人間に2人目の妻がいても不思議ないですよね」
・「酔っぱらうってどういうこと」「ここにグラスが二つあるだろう
四つに見え出したら 酔っぱらったってことだ」
「お父ちゃん そこにグラスは一つしかないよ」
・ 「あなた、指を入れるときは、指輪はずすっていう約束だったじゃないの」
「これ、腕時計だよ」
・旦那が予定外の帰宅。妻は愛人を無理やり窓から飛び下ろさせた。
落ちながら男は思う、「神様、私はなんて愚かなのでしょう!彼女のところ
に首を突っ込んだが最後、今地面に叩きつけられて私は死ぬ。家には妻、
子供、団欒。あそこに座っていれば、テレビでも見ていれば、茶でも
飲んでいれば....。」 ボサッ。 柔らかい土の上に落ちました。
体を起こし汚れを叩き落として、「畜生、頭の中にやたらとくだらん
ことが浮かんで来るもんだぜ。」
・一人の男がバーに入り、バーテンダーに賭けを申し出た。 彼は言った。
「あそこの床にグラスを置いて、20フィート離れたとこから小便を一滴も
こぼさずに命中させてやる。これに50ドル 賭けよう。ただし、こぼれた
小便はお前さんが掃除しなけりゃならんがね 」 バーテンダーがこの賭けに
乗ったので、男はグラスを床に置いた。そして、そこから20フィート(約6m)
離れると、小便をバーの中全体に撒き散らした。小便は通路、床、バーの
中にいた者のグラス、そしてバーテンダーにまでひっかかった。
バーテンダーは、勝ち取った50ドルに笑みを浮かべながらバー内を清掃した。
すると、賭けに負けたはずの男が笑い出した。 バーテンダーは訊いた。
「おい、あんたは50ドル負けたんだぜ。なんで笑ってられるんだ 」
男は答えた。 「外の歩道に突っ立ってるヤツがいるだろ。オレは、
あいつに200ドルを賭けたのさ。このバーに入って、小便を撒き散ら
して、バーテンダーに、笑みを浮かべながら掃除させてやるってね 」
(字数制限のためカット 2012年3月20日)
――
2004/10/31
1307, 一冊のアルバム
地震に明け暮れているので、話題を変えてみる。
事務所の移動で、秘境ツアーなどのアルバムを整理していたら、
未使用の小さなアルバムが出たきた。
一面一枚の20枚しか貼れないが、台紙のあるチャンとしたアルバムである。
買っておいて忘れたのだろう。
そこで、「さてどう使おうか?」と考えてみた。その結論として、
「過去の旅行のベスト20枚」を貼り付けることにした。
そして、それが良かった。何度みても飽きない。
私にとって、どんなものより素晴らしい宝物である。
「これは!」という写真は、一回の旅行に数枚はある。
それを更に、20枚に集約したのだ。開けば、それだけでハイになる。
アルバムはそうそう開いて見ない。いちいちアルバムを開くのが
面倒だからだ。それなら数千枚の写真を、二十枚に纏めればよいのだ。
そして、常にカバンに入れておくことにした。
詩も、言葉の中に全てを集約して残すのだから、
究極の凝縮のカタチである。
母が多くの道楽の末に行きついたのが「詩」であった。
事業にしても、
お金にしても、
不動産にしても、
写真にしても、
古道具にしても、
後継者にしても、
残るのは、生きてきた実感としての
「真実としての言葉」と
「写真」
「信頼」そして
「子供」だけである。
話しが大きく逸れてしまったが、貼ってある順に紹介してみる。
・パキスタンの桃源郷といわれているフンザ近郊の小高い崖の上で
一人で、足を開いて片手を上げているショット
・パキスタンのカラコルム・ハイウエーのがけ崩れの落石の中、
現地人に手を引かれ走り抜けているショット
・機上から、天山山脈を撮ったショット
・タンザニアの大晦日の現地運転手の特別招待のパーテーで、
多くの運転手たちと0時を過ぎた瞬間の写真
・フィンランドの登山列車で、トンネルの合間のビューポイントの滝で、
一時停車をして写真を撮っていた。ところが、急に音楽が鳴り出して
遠くの滝の岩間で赤いドレスの女が踊りだしたショット
(列車のお客に見せる為のショー)
・スイスの山頂の氷河に着いたが、霧で視界はゼロだった。
その時、霧が急に風で飛ばされ、氷河が自らの姿を現した。
家内と二人、感動で呆然として氷河の美しさに見とれていた。
ー帰国後、同行の人が、そのショットを上から撮っていて
くれていて、送ってくれた一枚
・スイス・マッターホルンでの凧揚げのショットと、マッターホルン
・モロッコ・マラケシュの「ジャマ・エル・フナ広場」の夕景
・モロッコのサバクで撮った、朝日が写しでした「私たちの砂上の影絵」
幻想的な極上の写真
・ヨルダンのぺトラの前でのショット
・シナイ山の山上でのショット
・フィジーでパラ・セーリング(モーターボートでパラシュートを
引っ張り空を飛ぶ)で、空から撮った写真と、地上からそのショット
を撮った写真
・リオのカーニバル
・北スペインのパンプローナの牛追い祭り。
最終日のファイナル・ギャザリングで、大衆が踊り歌っているショット
・ギアナ高地でボートからテーブル・マウンテンを写したショット。
それと機上から撮ったテーブル・マウンテン
・メキシコのテオティワカン遺跡の「月のピラミット」の頂上のショット
・パルミラ(シリア)列柱通り
・ケニアのヌーの河渡りを見たあとの帰り道、夕陽と雲の織りなす夕景
・ワニとシマウマの死闘のあと、最後にシマウマが陸に逃げ切った瞬間
のショット(私の人生の最高の一枚である)
・ネパールのカトマンズ近郊の山から、ヒマラヤ山脈を望む
・イスラエルのマサダの砦の山頂からのショット。 ユダヤ人
1000人が自害した時の闘いの生々しさが、今も残っている
・そして、最後はブラジルのイグアスの滝をヘリから撮ったショット
以上だが、恐らく死ぬ時、この一冊を抱きしめているだろう。
――
2004/09/27
1273, 2000年前のポンペイ
先日、TVで「ポンペイ」を特集をしていた。
十数年前にイタリアに旅行した時に立ち寄った、ポンペイの街の記憶と
TVの内容が重なって、非常に興味を持ってみることができた。
ーまずはポンペイの概略を書いてみる
ナポリの南東にあるヴェスヴィオス山のふもとの町。
古代ローマ時代には貴族たちの別荘地として発展し、
パクス・ロマーナ期の繁栄ぶりはめざましいものがあった。
当時の人口は2万。公共施設が次々と建てられ、建物の構えは
ローマにひけをとらないほどだった。
悲劇は、AC79年8月24日にやってきた。
ヴェスヴィオス山が突然、大爆発を起こしたのである。
大地は鳴動して山頂は吹っ飛び、火口がぽっかり口をあけた。
きのこ雲は天に達し、くもった空の下に、三日三晩、火山灰と
火山弾が降り注ぎ、泥流は火口をあふれ出し、町を襲った。
ポンペイの町にも大量の石や灰が積もり、噴火の翌日までにその灰
の深さは5~7mにも達した。屋根の損壊や有毒ガスによる窒息に
よる犠牲者の数は人口の1割にあたる2000人と考えられている。
(字数制限のためカット 2016年3月20日)