つれづれに

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  今日のYoutube

 昨日は、終日、寝室でTVを見てすごす。
ブルーレイで録画した、「バラガオスの女ダイバーの海中の海イグアナとか、
ペンギン、海鵜などの交流が、自然の中で、何とも感動的であった。 
 女ダイバーは、素潜り専門で、魚や、海中生物との交流が出来る特別の才能を持つ。
何れの場面も感動もの。 TVの圧倒的性能もあるのだろうが・・・ 好きこそモノの上手けれ、
とは、よく言ったもの。 動物は言葉を持たない代わりに、他者に対する心の対し、鋭敏。

 写真は「ゲントの祭壇画」 日本ではあまり知られてないが欧州、とりわけスペイン圏内では
有名な祭壇画という。少女たちの各自の性格が生々しく表現されているのに息をのんだ。


・・・・・・
3693, 自己を見つめる -15
2011年05月06日(金)
          「 自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
   * 幸福について (不幸について) ー2
【 不幸は、その出来事の客観的説明の当否のいかんを越え、また、その人の主観的資質の
鋭敏さの度合いのいかんを越えて、その人に、いやおうなく襲いかかる絶対的事実である。 
不幸は、その人の時間的歴史的な人生遍歴の過程のなかに突如、痛苦を与える刑罰として立ち
現れる、不可抗的な不倶戴天の敵である。不幸とは、その人を根底から震憾させる苦悩の化身である。
そうした不幸は、この世の中のいたるところで、不運、事故、災難、災害、病気、心痛、貧困、労苦、
不遇、虐待、軋礫、失敗、挫折、対立、不和、紛争、戦争などの種々様々な姿において、たえず
出現の隙を窺っている悪夢である。したがって、不幸は、ものの見方を変えることによって、
消去したり、転換したりすることのできるような、たんに主観的な事柄では断じてない。
それは、深刻な苦難として、この世の中に、乗り越えがたい障壁の姿で、厳然と存在する。
それゆえに、こうした不幸においては、何よりも、その出来事が、その人にとって、この上なく
不当で、許し難いものとして感受されるという点が大切である。なぜ、自分は、このように、
辛く、苦しい、耐えがたい悲惨や屈辱や困難を課せられねばならないのか、どうして、自分は、
このように、見捨てられ、罵倒され、除け者にされ、迫害される憂めに会ねばならないのか、と、
いくら自問しても、その理由が分からず、ただひたすら、苦悶し、絶望するところに、不幸と苦悩
の本質があるのである。そのことは、旧約聖書ヨブ記のなかに典型的に示されているとおりである。
善人のヨブは、あるとき、理由もなく、身の毛もよだつような苦難と不幸のすべてに襲われ、ついに、
ヨブは、神を呪うほどの絶望と絶叫のなかに陥ってしまう。こうしたヨブの心境こそは、この世の
不幸と苦難に逢着したすべての人間が抱く感懐であり、苦悶であろう。・・・】
 ーー
 人の間で生きている人間は、他者と自分とを比較し、色々憶測する傾向を持つ。 従って、
大小種種の、不平不満、卑下慢心、確執や争いが、あらゆるところに、絶え間なく起こる。 
それは絶えず、出現を窺っている悪夢であるが、一度、檻から出たら、本人とて抑えることが
出来ない猛獣として暴れまわる。それが他虐になり、次に自虐として、深手を負うことになる。
ニーチェが度々引用したように「難破しながらも、よく航海したものだ」と授戒することが
出来た人なら、直ぐに次の新たな取り組みをすることができる。 しかし、意志薄弱者は、ただ
恨む対象を探し、そこに執着し前進が出来なくなる。その辺のことが理解できないのは、それまで
生きてきた中で経験を消化してこなかったことに由来する。不幸は自分で招くこともある。
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3328, HPを開設、10年目!
2010年05月06日(木)
 一昨日で、このHPを開設して10年目に入った。旅行中も出発前に書きだめをして、会社の人に
頼んで書き込んできたので、ほぼ休んだことはない。 時どきスランプになるが何とか続けてきたが、
書きあげる重要性が日ごと分かってくる。 一つのことを続けると、その習慣が自分自身になる。  
ここまでくると、私の精神というより、魂の中核になる。HPではレポート用紙で15枚分までの
字数の制限があるので、数年前から毎日カットせざるをえないが、身を削るようで辛い。 
それだけエネルギーが入っている。 第三者の目を意識しながら、自分の思いの倉庫(墓場?)
として、その時どきの、浮かんだ思い、習得した知識、面白そうな情報、潮流を書き出してきた。 
あと一年で10年になるが、書きたいことは書き出したつもり。 その時どきの時節のメルクマール
として、情報タンクとして非常に有効になっている。また毎日、過去分の同月同日に書いた内容を
読み返すことができるのが一番のメリット。「書きだめをして何になるのか?」といわれても、
返す言葉はないが、これが魂の中核なのだから、中心点に向かって一日2~3時間、気持ちを集中し
続けている、それが全てである。絵、俳句など、それぞれ人によって違うが。
 まず文章のテーマを考え、情報を集めて、書いて、何度か修正するプロセスが考えるということ。
いま書いている文章の読者は、未来の自分であり、過去から現在にいたる因縁ある人であり、
新たな因縁のある人。文章を書き、それを公開するのは恐ろしいところがある。自分を曝け出して
しまうからである。 今さら、仕方ないだろう!と、何度呟いたことか。書き上げて、アップロード
した瞬間に、見事なぐらいに内容を忘れてしまう。気持ちが入るほど、そうなってくる。 
したがて一年ごとに、その内容と出会うと、驚くことしばしば。 数年前の今日こんなことを考えて
いたのか、こんな本を読んでいたのか、こんなことに出会っていたのか、等々に驚かされる。
それは既に過ぎ去った過去の自分である。過去の自分は現在からみたら、見知らぬ誰か?なのである。 
まして、20年、30年、40年前の自分は、尚のこと言える。その反面、現在と全く変わってない自分を、
過去の言動で知ることになる。 書き続けることは、考え続けることでもある。その積み重ねは、
間違いなく考えを熟成させてくれる。 それと書物の中で著者との邂逅がスムースになる。と同時に、
相手の能力も直感できる。 それは、生の人間でもいえる。ネット世界が、この10年で広がった。
「現実世界とは別に、ネット世界が地球上に出来てしまった」のである。 これがむしろ主になって
きたのである。何ごとも10年! あと一年で、大きな節目ということか。 一応、21世紀を
垣間見れたようだ、特にネットのお陰で!
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2953,人はどうしてオヤジになるか? -3
2009年05月06日(水)
 * オバサン前段階のアラサーとアラフォー
   ―女の最後の輝く時ー
 最近、アラサーとアラフォーという言葉がマスコミ上で目に付くようになった。40歳前後の女性
を指してaround 40を略してアラフォーという。日本的風土では働く女性は「仕事と結婚」の両立が
大きな問題になっていた。しかしこの世代は、男女雇用機会均等法のもとで社会進出を果たし、
自由に選択できるようになった。しかし、これが人生の転機を遅くさせ、大きな問題になっている。
アラフォーはアラサーから派生した言葉。アラサーとはaround 30を略した言葉で「30歳前後の女性」
を指す。2005年の女性誌が使ったことから広まった。彼女らは90年代中頃にコギャル文化を体験して
おり、団塊ジュニアに続く世代区分としてアラサーを用いるようになった。それに次いで登場した
アラフォーの概念で、1964年から1973年に産まれた人となる。40歳前後は、オバサン化するか
どうかの瀬戸際である。もう一度女として花を咲かせるかどうかの?20年ほど前になるが、
ある大手の保険代理店の支店長が言った言葉が印象的だった。「女性の一番美しいのは40歳前後。
その年頃の女性は人生の分かれ道、何ともいえない色気が沸きあがっており、危ない時期でもある。 
彼女らとは塀の上で仕事をしているので、一つ間違えると塀の向こう側に落ちてしまう」そういえば、
スナックなどのアルバイト女性に、その頃の女性が目に付くが、なるほど色気が満ちている。
しかし45歳を過ぎると同時に、坂道を転げ落ちるのように変化するのも事実。 それにしても
アラサー、アラフォーとは、上手く命名したものである。《そこのお嬢さん! 鏡ばかり
見てないで(外装だけでなく)内装も手入れしておきなさい!》最近は、兄さんにも言えるが!
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2589, 日本の真実
2008年05月06日(火)
「ドル覇権の崩壊」と「連鎖する大暴落」の警告が、あまりに当たっているので、副島隆彦
「日本の真実」を、アマゾンで買って読んでみた。「日本はアメリカの属国、日本の支配者層は、
その傀儡の売国奴でしかない!」と、辛らつに切り捨てている。また、そう直視すると見えない
真実が見えてくる。角栄や栄作など、隷属国家の悲哀を一番良く知っているのだろう。
角栄と、福田赳夫アメリカに呼びつけられて、ある人物に大声で怒鳴れれている
現場の生々しい話を聞いたことがある。二人が震えていた姿が痛ましかったとか・・・
しかし、その御陰で、アメリカ型消費社会を享受することが出来たのである。
その毒饅頭のおかげで、脳までやられてしまったのが現在の日本の有様である。
 ーまずは、その概要からー
「最高支配層だけが知っている日本の真実」  ー副島 隆彦 (著)
ー表紙裏の「著者からのコメント」が面白い!ー
 本書が提供するのは「日本の最高支配層の人間たちだけ」が知識と情報として占有し、隠し通し、
一般国民には絶対近づくことをさせなかった諸事実である。なぜ一般国民には大きな事実が知ら
されないのか? その理由は、現在の世界覇権国であるアメリカ合衆国の属国群のひとつであり、
しかも属国の優等生として卑屈極まりない現状にある私たち日本国の支配層の人間たちが、
帝国からもたらせれる高度の情報と知識を独占することによって、それら最高情報が生み出す
価値を自分たちだけで享受し、そのことから来る圧倒的な優位性によって国内権力者層として
存在しているからである。だから、これらの秘密を公然と暴き立て、一般国民に知らせ、広める
ことが、私たちの日本国にどうしても必要なことである。そうすることで、一方で帝国から常に
脅され、脅かされている現在の惨めな彼ら指導者たちと一般国民の間に壁が消えて、日本人が
一致団結して、国難に立ち向かうことができるのである。 「編著者のことば」より
  ー目次
  (字数制限のためカット 2011年5月6日)
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2007年05月06日(日)
 2224, 自分の居場所ヽ         (★>з<)o○[ォハヨ]○o(>ε<☆)ノ    
昔から、どの世界に行っても「自分の居場所のつくり方」は上手い方であった。八人兄弟の末っ子と、
商家の生活環境もあって、大所帯の中で独りで自分の居場所を何時もつくっていたためである。
その条件が、誰とも就かず離れずの間隔を幼児時期から身に着けさせていた。人間は、両親との人間
関係の相性が人間性のベースとなる。両親の愛情をたっぷり受ければ愛情に満たされた人間性になる。
両親の不仲の中で愛情が空回りになった子供は愛情不足になる。その不足を友人や恋愛相手に求めて
しまい、バランスが崩れてしまい、自己嫌悪になるケースが多い。その根本が、親への愛情に対する
不平不満である。愛情不足の人は、何時も自分の居場所に不安を感じとり、何処かに母の存在を求めて
居場所の確保追われることになる。(これは当人は気づいてない)その確保を探し求めても、所詮は
虚構を求めているだけでしかない。その解決は自分でしか出来ないが、「まあ、しょうがない!
居場所は居直る心の状態しかない!」と自分の心の奥で悟るしかない。その心の在りかたが、解決になる。
それは「あるがままの自分を受け入れるしかない」開き直りである。自分がつくり上げてきた自分の
過去の決断・行動を全て受容することになる。その気持ちが、「自分の居場所にいる心のあり方」
と同じ心理状態となる。たったこれだけのことが解るのに、何十年の人生の旅が必要であった。
反対に親に自分をからみ取られて、母親というウバンマに一生を犠牲になるケースは、その辺の
ザコン息子や娘がザラにいるだろう。60歳過ぎたら、自分の人生は無かった?という虚無感である。
私の4人の姉は、両親の強烈な影響の下から抜け出ることが出来なかった。
そういう私も似たようなものだが、私の場合積極的にその影響を受容した?から、
後悔はないが・・・。
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ところで、上記は深い意味の自分の居場所について論じたが、いままで具体的に? 
居場所づくりとして何をしてきたかというと、
・まずは飲み屋か、酒飲み友達を探す。(見るところ、それが異性であったり、喫茶店だったり、
 人によりそれぞれ違う。)
・次に座り机と座布団と、本棚と愛読書、蛍光電灯である。その時どきによって違うが、宗教
 などの心のよりどころなる愛読書を置く。現在でも通勤の往き帰りの鞄の中に4冊以上の本を携える。
 座った席がそれだけで自分の居場所になってしまう。
・そしてコーヒーのセット。
・次に探すのが、昼飯の行きつけの店と本屋の確保である。意識しようがしまいが、誰もが
 多かれ少なかれ同じようなことをする。私は群れるが嫌いなので「会」は極力出ない。
 その反面、一対一か、3人まで会には出るようにしている。
地方で、特に新潟で一対一で話せる価値観を共有できる人との出会いは少ない。 
面白いものが出来たものである。これは、また違う機会に・・・☆^(*・ω・)ノ~~~βyё βyё♪
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2006年05月06日(土) 1859, 体罰は教育?
              才八∋ウ_〆(∀`●)
昨日のモーニングショーで、最近釈放されたばかりの戸塚ヨットスクール戸塚宏氏とタレント系?
ヤンキー先生の討論をしていた。ミスマッチといえるほど戸塚氏の方が一方的な内容で、老教授が
若い学生を教えているようであった。(ヤンキー先生=ヤンキー上りが売りで生徒をみちびく教育をしている)
「目的は、体罰そのものではない! 体罰は本人の行動を導く為の一つの手段でしかない。
親がとことん力を尽くして、それでも無理な子供を作り直している」等々、聞いていて一言一言が深い
経験を通して得た理論だけに、説得力のあるものだ。ヤンキー先生の彼なりの手法もあるのだろうが、
二人の経験の量と質の差は致し方ない。戸塚氏の「自分のところに入れて鍛え直して、親を超えさせて
家に帰すことだ」という言葉もよい。親そのものに問題があるのだから親を超えさせないと、一時
しのぎになってしまうからだ。 (以下、字数の関係でカットしました。2008/05/06) 
                      ヾ(^ω^*) バイ
・・・・・・・
2005年05月06日(金)
1494, いま・現在についてー2
「どうせ死んでしまう」ー1  ー読書日記ー         
 ー私は哲学病ー
究極の、刹那的な言葉といえば[どうせ死んでしまう]である。「これを言っちゃーお終いよ」という
言葉である。しかし、尽きるところ、それである。「いま」を考える時、キーワードとして「永遠」がある。
しかし、「どうせ死んでしまう」という言葉を考えると「永遠」と「いま」という言葉に行当たる。
生は限られている。所詮はどうせ死んでしまうのである。それがハッキリしているから、いろいろな問題が
発生するのだ。個々人にとって、自分の死が基点になる。自分にとって自分の死が大ごとで、全てといってよい。
目前に死を覚悟した時、「いま」という瞬間に気持ちが集中する。そして、その一瞬一瞬に永遠を感じる。
 (以下、字数の関係でカットしました。2009/)
・・・・・・・
2004年05月06日(木)
1129, 「一生のうちにすべきこと、しなくていいこと」ー2
 谷沢永一 2000/10/19『PHP研究所』 
二年前に書いた文章の続編である。図書館で借りてきて、返してしまったために中断をしていた。
先日おなじ本を借りてきて、以前書いたことを思い出し、検索をかけたところ、二年前に書いてあった。
『しなくてよいこと』は、『すべきこと』より知っておくべきことと、前の文章(あとでコピー)を読み返して、
つくづく思った。知っていれば、しないでよい苦労を避けることができる。こういう知識に対して無知の人
があまりに多い。他人事でないが。『すべきこと』も、まったくそのとおりである。
ー以下は
「すべきこと、しなくてよいこと、してはいけないこと」の抜粋である。
ーすべきこと(抜粋)
 ・真の友をもつ ・人生設計を立てる ・生きるためのお金を得る ・本を読む ・夢をもつ ・感動
 ・人生のブレーンをもつ ・結婚 ・趣味を持つ ・前向きに生きる ・一人旅 ・音楽を聴く 
 ・失敗を経験する .
ーしなくていいこと(抜粋)
 ・分相応 ・世間体をつくろう ・他人と比べる ・出世競争 ・嫉妬 ・功績を誇る 
 ・不正をただす
 ・自分の過去をクヨクヨ思う and etc.
ーしてはいけないこと(全項目)
 ・言行不一致 ・頼み事 ・金を借りる ・子供を私物化する ・自分がされたくないことを人にする 
 ・運のない人とつきあう ・卑屈な生き方 ・自分の欠点をかなしむ ・マイナス条件を数え上げる 
 ・知識を誇る ・嘘をつく
ー後記
 ・お金を、知人から借りることは私の常識外なのだが、以外と平気で借りにくる人がいる。
 そこに甘さが、ありありと出ているのが本人には判らないのだろう。
 ・「運のない人とつきあう」これも然りである。 冷たいようだが、絶対に近づけてならない。
 必ず酷い目にあう。周辺の人を巻き込んでしまうのだ。自分が不遇の時は、逆に人に近づかないことだ。
 ・「知識を誇る」も、ひとつ間違えばしてしまうことだ。この随想日記も、それに近い行為なのかも。
 自分の知識蔵庫として貯めこんでいるのだが、知らないうちに『誇って』 いるのかもしれない。
 「随想なんて、けっきょくは自慢話でしかない」と誰かが看破していたが。
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2003年05月06日(火)
762, あるホームページ
 (字数の関係でカット2,008年5月6日)
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2002年05月06日(月)
 398,新潟駅前界隈ー2
ほとんどの店(飲食店)が瀕死の状態である。止めるに止められない状態といってよい。以前から私は
個人で飲むときは、一軒目は3500円が最高限度である。二軒目も4000円か5000円止まり。
彼らに馬鹿にされたものだ「3500円までの男」とか言われて。でも今は一般に3000円で9時まで
どう過ごすかが、一般の飲む基準になっているという、それも週一度。 店主の役割は「客の視線で
店を見なくてはならない」が、彼らは自分の都合でお客を見ている。殆どの店が死に瀕しても、
その視線を捨てる事が出来ない。さっさと潰れろといいたい、まさか目の前で言うわけにいかないが。
彼らに聞いた事だが、自分に生命保険をかけて失敗したら死んで借金を返す世界があるという。
   (字数制限のためカット 2011年5月6日)
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2001年05月06日(日)
 ホームページの可能性
ホームページを開設して感じた事は自身の大きな変化の予感である。貧しい?内面と過去の公開。
特に日記の公開のこのコーナーは恐くおもしろそうだ。もしHP?ホームページの改良を重ねていくと、
数年後はおそらく最後にコピーした久垣啓一氏の実感に近ずくのではなかろうか。個人の発信というのが
これからのキーワードなってくるだろう。これに映像が加われば今の常識で考えられない世界が
広がってくるだろう。どうなっていくか楽しみだ。
ホームページとは        (久垣啓一)
ホームページは、重層的な関係の中に浮かぶ開かれた自分そのものである。
ホームページは、情報への感度を飛躍的に高める。
ホームページは、豊かな時間を演出してくれる。
ホームページは、コミュニケーション能力を高めてくれる。
ホームページは、出会いと感動の宝庫である。
ホームページは、巨大なデータベースである。
ホームページは、巨大な渦巻きの中心である。
ホームページは、どらえもんの「どこでもドア」である。
ホームページは、生きる喜びを与えてくれる。
ホームページは、家族の関係を豊かにする。