つれづれに
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アメリカの補佐官がさっそく、詰腹を切らされた。
大統領就任の僅か、一ヶ月後である。さもありなん。
おまけに今度は北朝鮮。 兄の金正日が弟に暗殺された。
政治が劇場化してきたが、それにしても、お二人の程度が低すぎる。
・・・・・・
2873, 成長モデルから 脱成長モデルへ -1
2009年02月15日(日)
「もはや成長という幻想を捨てよう」ー佐伯啓思
中央公論 08年12月号が、なかなか説得力のある内容であった。
ーまずは、そのいくつかを抜粋してみる。
「今回の経済危機の原因は長期的に見ると、20世紀を通じて続けてきたアメリカ型資本主義
による経済発展の行き詰まりである。 資本主義の本質は、物的生産力を無限に拡張して
いくことにある。だが先進国では70~80年代に社会が成熟段階に達してしまい、人々が
さほどモノを欲しがらなくなった。その結果、製造業に投資しても大きな利潤が出ないので、
余ったカネを金融市場に集めてバブルを常に起こすことで、経済発展をしてきた。
人々が高いお金を払ってまでも手に入れたいと思う『モノ』がもはや亡くなりつつある、
ということであろう。だからそ、製造業は、過酷なまでの価格競争によって、価格を下げる
ほか無いのである。・・・ 今日、『経済活動の過剰』という問題に真っ正面から取り組む
べきではなかろうか。確かに、今日、資源はますます希少となり、食糧も希少化しつつある。
食糧の奪い合いが始まろうとしているし、アメリカ人は借金をしてまで貪欲にモノを買い
続けている。人間の欲望は無限であり、モノは有限である。」
ーー
「グローバル化の第2の波である帝国主義の真相を、英国の経済学者でえあるボブソンは
恒久的な消費の低下にあると見ていた。・・ ケインズこそ、現代資本主義の最大の問題
を消費の低迷に見ていたのである。 かくも豊かな社会が到来すれば、人々はもはや
その関心を『モノ』には向けなくなるであろう。その結果、消費は低迷し、それが資本主義
の長期的停滞をもたらすだろう、というのがケインズの予想であった。
『豊かさの中の停滞』である。豊かさのまっただ中でこそ、資本主義は深刻な問題を生み
出す、というのである。」
ーー
「『貧困への恐怖』と『豊さへの渇望』がもはや経済活力の源とならない。・・・もし
そうだとすれば、規制緩和や市場競争促進政策は、いっそうの生産能力過剰をもたらす
だけのことであり、それに伴う有効な需要の伸長がないとすれば、よほど無理なコスト
競争、価格競争をしなければ企業は存続できないであろう。これは経済活動にあまりに
過度な負担を強いることになる。この負担は、まさに、ワーキングプア、フリーター、
派遣労働、所得格差、労働強化、産業空洞化、地方の疲弊という形で表れているのである。
(中略)今日、われわれは、消費者としてはできるだけ安いものを買おうとしている。
投資家としては株で利益を得たいと思っている。しかし、そのことがまさに、市場競争
を激化させ、組織的な労働を解体し、結果として、労働者としての『われわれ』は
大変な目にあっているのである。」
~~~
解)この考え方を、もし日本だけで当てはめたら国家そのものが破滅してしまう。
何故なら、それを狙った他国が逆の方針をするからだ。日本が「ゆとり教育」で、その
世代の骨抜きが進行している間に、中国が一子政策を採り 両親のエネルギーを一人の
子供に集中したのである。だから現在の日本の衰退が深刻なのである。
しかし、世界がブロック化をして、その中で互いに規制することは可能だろう。
日本の衰退を、「成長モデルから衰退モデルへ」と衰退を脱生長と言い換え、気が
ついたら国家破滅!の危機になる。 人口縮小に合わせて経済規模を均衡縮小を割り
切ってする政策にすることは、間違ってはない。
つづく
・・・・・・・
2008年02月15日(金)
2508, 世界をだました男
「世界をだました男」 (新潮文庫) ー読書日記
フランク アバネイル (著), スタン レディング (著),
以前にビデオレンタルで借りてみたが、あまり印象に残っていない。先日たまたま
図書館で借りてきた後に、アマゾンの中古本を買って読んだが、なるほど面白い!
殆どが実話というが、さかりのついた男のあの手この手の必死さが面白い。
色いろな示唆のある内容で満ちている。この内容の概略をまとめるだけの価値はある。
生粋の詐欺師の話として割り切って読むと面白い。政治家は、この手の詐欺師まがい
が多いのは見ているとわかる!
ーー
6歳から21歳までアメリカやヨーロッパで詐欺を繰り返して二百五十万ドルを
荒稼ぎだした。連邦刑務所で服役後、数々の職業を経て、その手法を逆手に
とって詐欺対策コンサルタントに。
(以下字数の関係でカット 09年02月15日)
・・・・・・・・・
2007年02月15日(木)
2144, 「狂い」のすすめ -1
(~Q~;) おはよう~~ファ~ サム!
閑吟抄の中の、「ちろリ ちろり ちんちろり ・・・・一期は夢 ただ狂え」
を切り口に、世間に縛られないで 自由に生きなさい!と論じている。
まさに何時も、ここで書いていることである。私にとって、今ひとつ物足りない
ところがあるが、団塊の世代のマニュアル人間が定年を迎えようとしている現在、
丁度良い内容である。人生に意味など無い、生まれ、飯を喰って、くそをして、
死ぬだけだ。 あるのは「いま ここ」だけ!
ーまずは、その概要からー ー読書日記
著者:ひろさちや :集英社
世間や常識の奴隷になるよりも「ただ狂え」。狂者の自覚を持つことで見えてくる
こととは…。人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく
生きようと呼びかける。
ー表紙裏の内容紹介ー
今の世の中、狂っていると思うことはありませんか。世間の常識を信用したばかり
に悔しい思いをすることもあるでしょう。そうです、今は社会のほうがちょっと
おかしいのです。当代きっての仏教思想家である著者は、だからこそ「ただ狂え」、
狂者の自覚をもって生きなさい、と言います。そうすれば、かえってまともになれる
からです。人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく生き
ましょう。「狂い」と「遊び」、今を生きていくうえで必要な術はここにあるのです。
-面白そうな所を何箇所か抜粋してみた-
*『人生に意味なんてありません。「生き甲斐」なんてペテンです。』
*「日本人は人生を知りません。人間らしく生きることができず、エコノミック・アニマル、
すなわち畜生の生き方をしています。日本人は狂っているのです。」
*「上等の靴を履いてぶくぶく太った日本の子どもと、裸足でやせたインドの子どもと、
どっちがまともなんでしょうか!? そして、どちらが幸せでしょうか!?
わたしたちの『常識』『物差し』は狂っていませんか!?」
*「ともあれ、遊牧民族は、敵と味方をはっきり分けて考えることができます。
だから楽なんです。 ところがわれわれ農耕民族の末裔である日本人は、敵か
味方かわからない世間を相手にせねばなりません。それがしんどいのです。」
*「浄土経典である『大無量寿経』においては、《人、世間の愛欲の中に在りて、
独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る》と言われています。
この「独生・独死・独去・独来」が人間の本質なんです。」
・・・・・・・
2005年02月15日(火)
1414, スローフード
欧州でまず驚くのはスローフードとスローライフの生活パターンである。
最近、日本でもスローライフ、スローフードが流行りだした。アメリカ発の便利
・効率を優先するファーストフードに対して、スローフードを見直す運動である。
イタリアのブラという街で生まれた運動で、日本スローフード協会によると、
次の三つを指標にかかげている。
1、消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理、質のよい食品、ワインなどの酒を守る。
2、質のよい素材を提供する小生産者を守る。
3、子供達を含め、消費者に味の教育を進める。
アメリカのコンビニエンスという考え方が、食べることにも及んで、画一化が進みすぎて、
ものごとを「味わう」ことが少なくなってしまっている。その反省に立って、食事その
ものを見直す運動である。これは、人生にもいえることで、「スローライフ」の見直しも出てきた。
人生を画一的な面だけでとらえず、ジックリと味あう生き方である。「それぞれのライフ
ワークで、自分という素材を生かすことを優先していこう」という考え方である。
先日見た映画の中で、船長と妙齢な婦人3人と母娘のディナーでの会話が素晴らしい。
それぞれが初対面で、違う国の出身。一人一人が多くの過去を持っている。それを何気
なく自己紹介で言うのだが、何の嫌味もなく洒落を言いながら食事をしながら話すセンス
が素晴らしい。 スローフードの典型であろう。欧州人は、ともに食事をすることを最も大事
にしている。生き方と食事に大きなつながりがあることを、長い歴史の上で体験的に知っている。
時間と手間隙をかけた心のこもった食事を、心を込めてとることこそが、今の時代に求められて
いるのだろう。特にスペインは、一日の時間の組み立て方が、欧州の他の国と全く違っている。
朝は、他の欧米と同じ9時頃に始めるが、午後1時か2時から4時ぐらいまで昼休みを取る。
その間、一度家に帰ってシェスタという昼寝をする。(セックスも、その時にすませる人が多いとか)
そして8時過ぎまで働く。その後街に出て、バールと呼ばれる居酒屋でアンチョビなどのツマミ
でいっぱい引っ掛けて、顔見知りや家族と楽しむ。街中あちこちにバールがあり、その時間どこも
満席である。その後、家に帰って食事をする。とにかくバールの値段が安い。
彼らにとって、スローフード・スローライフは数百年続いている文化でしかない。スローフード
などが流行りだすのはイタリアやスペインなどと同じく国が衰退を始めたということだ。
これも事実だから仕方がない。新潟でも全国チェーンの湯葉料理の「梅の花」が出店した。
昼飯を二時間以上かけて主婦などのグループがとる。五頭山の麓にある、釜飯の店など、
その走りなのだろう。金持ちの外食スタイルのカジュアル版ということか!
・・・・・・・・・
2004年02月15日(日)
1047、「22歳の日記」の終わりに
今日で学生時代の日記が終わっていた。何時から何時までという日付の無いフリーの日記帳だが、
丁度よいタイミングで最後のページで、最終日の今日だけレポート用紙が貼り付けてあった。
いま一冊の日記帳にあと半年位は書いていたと思うが、ハッキリした記憶が無い。
この日記を書き移していて「恵まれていた環境にいた」とつくづく思う。
「寮生活に、一ヶ月の欧州旅行、ゼミ、クラブ、教授、両親、友人」と多彩な環境が重なって
いたことに驚いた。そこには地方出身の、土がタップリついた、純朴な姿がそのままあった。
この時期に培ったものが一生ついてまわることを、振り返って実感する。それと真面目な姿も、
今も昔も一緒である? 大学の専門分野の授業が結構面白かったことと、全く知らない分野を、
色いろ知ったのが最大の収穫であった。また知識や情報や人脈の重要さを実感をした。
知的好奇心がこの時期にやっと芽生えたのだから、かなり遅咲きであった。
大学の知識などは、実社会に出てからの経験や読書などの蓄積からみたら、微々でしかない。
「大学を出てないから駄目だ」という自分の思い込みという石をつくらないで済んだのも
収穫であった。当時の学生時代の背景が、昭和40年代前半だったというのも恵まれていた。
特別恵まれていたのではなく求めるものがあったから、見返りに対象が反応した部分もあった。
この時代のポップスは黄金時代といわれている。高度成長期の波に乗って、素晴らしい歌が
次々出ていた。恵まれた時代にあたった世代は、最後の最後まで恵まれるようだ。年金も、
丁度よいようになっている。同世代の人をみていると、仕事などでハッピーエンドの人が多い。
学生時代に真面目に過ごした人は、その後の人生で順調のようだ。マージャンや女性狂いを
していた人は、あまり恵まれた人生ではない。知識や生活の基盤をつくっていなかったためだ。
その一人が自分でもあるが。寮にクラブにアルバイトに酒にと、全て中途半端であった。
しかし、それに気づいて産能大に入りなおして基盤直しをした?が、それでも取り返しが
つかなかった。それほど甘いものではない。基盤はそう簡単には造り替える事はできない。
この日記から、温みを感じ取れるのも確かである。私の人生を振り返って「恵まれていた、
ついていた、面白かった、ありがとう」がキーワードにある。この日記を見る限り学生時代
も全く同じである。この日記を、つまらないという人と、リアルで面白いという人が二分
していたようだが、少なくとも私にとっては、リアルで面白い内容であった。自分の地偕の、
あるフロアーに迷い込んだようなものだからだ。この日記の最後にも感想を書いてある。
もう、こんな赤裸々な日記は書けない!
・・・・・・・
2003年02月15日(土)
まれに見るバカ -読書日記 -2
ー印象的なところを抜粋するとー
人はバカに生まれるのでない。バカになるのである。親子という縦の系列によって
バカになり、友人・社会という横のつながりによってもバカになる。・・・
なぜ容易くバカになるのか。理由ははっきりしている。人間は楽な事を選ぶ生き物だからだ。
できることなら責任なんか負いたくない。他人の心配などまっぴらである。
難しいことより易しいこと、苦しいことより楽しいこと。不自由より自由。貧乏より裕福。
まどろこしい事よりすぐ成果が見えること、に流される。努力するのも金輪際イヤである。
これらの諸条件を満たすのは必然的にバカになる。自分中心主義で、物知らずに、自分の頭で
考えることができない。考える努力もしない。だから人に頼りたくなり人の責任にしたくなる。
このようにして人はいとも簡単にバカを志向する。だから親がバカだと子供はつらい。
「バカ」を刷り込まれるからだ。バカになるのに訓練や努力はまったく必要でない。
欲望と感情だけがあればよい。そしてどんな人間でも欲望と感情だけはもっているのである。
もしバカになったら、それはどこまでも自分の責任である。責任がなくとも自分で
負わなくてはならない。
・・・・
バカがひとりで死ぬまで山の中で生きているのならどんな罪もない。
しかしそのときは「バカ」であることじたいが無意味であろう。
ひとりだけならバカも賢いもないのである。 バカの罪状以下のごとし。
ーつづく
・・・・・・・・・
2002年02月15日(金)
331、自分を愛すること
我々は「自分を愛することを罪悪」と知らないうちに,教え込まれてこなかったか。
人間のいや生物の「遺伝子にはエゴイズムが書きこめれている」という。
まず自分のエゴイズムをハッキリと認めよう。そしてそのコントロールをすべきだ。
自己への愛が自己陶酔やエゴイズムと混同され、否定されている。私たちの大部分が、
実は愛を経験していなかったのではないか?経験してきたのは、実は[報酬]であった。
どこかの「チンドンヤ」のように第三者の容認を目指しているのを、本当の愛といえるだろうか?
第三者の影を探し続けている「子狐」的偽愛・偏愛を愛と勘違いしていた。
まず自分自身を愛し、魂を育てることが「愛」の第一歩である。その前に人を愛そうと
したり、人に愛されることを求める。それはオカシイと考えもしない、世界の大部分が
そういう人で満ちている。別にエゴイズムを勧めているのではない。他人に対する愛の希求を、
まず自分に向けよ!自分の魂に慈愛を与えよ!である。自分のやりたい事を見つけやることが、
魂に慈愛を与えることになる。
それを第三者に求めることを「愛」と勘違いしている。真にやりたいことを、第三者に
求めていないか? 第三者にそれがある訳が無いことを解ってない。新約聖書に
「汝を愛するように、隣人を愛せ」という最も象徴的な真理がある。汝を愛せない人間が
隣人を愛することができるのだろうか。聖書もまず隣人を愛せとか、自分への愛を否定は
していない。宗教的な文章になってきた。それを知っている人間は他人のそれも解る。
自己欺瞞が世界に満ちている。解ってない人間が奇麗事を言う。他人のアラを探す、
無能だからそれしかないのだ。こういう一生を「無能松の一生」という。
私の知人に典型的な奴がいる。もっとも、悲しいことに一番に自分に似ている!
・・・・・・・
2月15日 1969年
昨夜のことで、本当に自分が嫌になる。いい加減な自分に嫌悪感を感じる。
あとは、思い残すことなく社会に出よう。学生時代は終わったのだ。
ーこれからの予定として
2月17日に先生のところに最後の挨拶 2月19日にゼミの工場見学11時~18時
その後、2日間長岡に帰る。2月26日にジャスコ入社式のため四日市に出発
3月2日まで、入社前教育
ーーーー
以上で半年続いた日記が終わっている。
その続きを書いていたかどうかは記憶がない。書いていたかどうかは五分五分である。
この一年後、カード型の分類日記を一年間書いた記憶がある。その一年後、全てを捨てて
しまった。本当は捨てなければよかった。この日記よりもっと激しいことが書いたあった。
それだけ、その後の一年は激しい一年であった。心身ともボロボロになっていた。
大學を出て、十数年は誰もがそうだろうが、一生分の問題を吐き出し解決してきた。
三十代半ばからは楽だったのは、それまで精一杯生きたからだ。
それにしても、凄い?20代~30代を過ごしてきたものだ。他の人のことは解らないが、
私は限界ギリギリだった。読んでいて気づいていると思うが、やはり背景は恵まれていたのだ。
時代に、両親に、そして先生に、友人に。月並みの言い方になるが「ありがとうございます」
という言葉の重みをつくづく感じる。今も、当時も一番足りない気持である。「ありがとう」
という言葉は、言い尽きないのが人生と振り返って実感する。 この時代の人達に
「ありがとうございます」と手を合わせて、この青春日記を終了する。
少なくとも書き写している間は当時にタイムスリップをしていた。毎日続いた一時の
タイムスリップも、今日で終わってしまった!あまり過去に住むのは良くない。
今年の9月からの同月同日の日記として、再び貼り付けるかどうかは、その時考えるが
「もう見たくはない」のが現在の気持ちだ。半年も経てば気持ちが変わる可能性があるが。
当時のこの男の頭をなぜてやりたい。そして「35年前よ、さようなら!」と、腕がちぎれる
ほど何時までも手を振りたい気持ちである。当時と同じように少し感傷的になってしまった!
「あたらしき 明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に うそは無けれど~ 啄木」
この日記帳の表紙にデザインとして書いてあった詩である。
日記帳の下欄には、啄木の詩や日記や書簡集が印刷をしてあった。
しかし詩心は芽生えなかった!
ーーー
明日からは、換わりに、次のシリーズとして、 このホームページの
「お笑いのコーナー」の、ジョークと小話を貼り付ける。 少し品のないところもあるが!
100話以上ある。
5月まで続く予定である。
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今日のYoutube
アメリカの補佐官がさっそく、詰腹を切らされた。
大統領就任の僅か、一ヶ月後である。さもありなん。
おまけに今度は北朝鮮。 兄の金正日が弟に暗殺された。
政治が劇場化してきたが、それにしても、お二人の程度が低すぎる。
・・・・・・
2873, 成長モデルから 脱成長モデルへ -1
2009年02月15日(日)
「もはや成長という幻想を捨てよう」ー佐伯啓思
中央公論 08年12月号が、なかなか説得力のある内容であった。
ーまずは、そのいくつかを抜粋してみる。
「今回の経済危機の原因は長期的に見ると、20世紀を通じて続けてきたアメリカ型資本主義
による経済発展の行き詰まりである。 資本主義の本質は、物的生産力を無限に拡張して
いくことにある。だが先進国では70~80年代に社会が成熟段階に達してしまい、人々が
さほどモノを欲しがらなくなった。その結果、製造業に投資しても大きな利潤が出ないので、
余ったカネを金融市場に集めてバブルを常に起こすことで、経済発展をしてきた。
人々が高いお金を払ってまでも手に入れたいと思う『モノ』がもはや亡くなりつつある、
ということであろう。だからそ、製造業は、過酷なまでの価格競争によって、価格を下げる
ほか無いのである。・・・ 今日、『経済活動の過剰』という問題に真っ正面から取り組む
べきではなかろうか。確かに、今日、資源はますます希少となり、食糧も希少化しつつある。
食糧の奪い合いが始まろうとしているし、アメリカ人は借金をしてまで貪欲にモノを買い
続けている。人間の欲望は無限であり、モノは有限である。」
ーー
「グローバル化の第2の波である帝国主義の真相を、英国の経済学者でえあるボブソンは
恒久的な消費の低下にあると見ていた。・・ ケインズこそ、現代資本主義の最大の問題
を消費の低迷に見ていたのである。 かくも豊かな社会が到来すれば、人々はもはや
その関心を『モノ』には向けなくなるであろう。その結果、消費は低迷し、それが資本主義
の長期的停滞をもたらすだろう、というのがケインズの予想であった。
『豊かさの中の停滞』である。豊かさのまっただ中でこそ、資本主義は深刻な問題を生み
出す、というのである。」
ーー
「『貧困への恐怖』と『豊さへの渇望』がもはや経済活力の源とならない。・・・もし
そうだとすれば、規制緩和や市場競争促進政策は、いっそうの生産能力過剰をもたらす
だけのことであり、それに伴う有効な需要の伸長がないとすれば、よほど無理なコスト
競争、価格競争をしなければ企業は存続できないであろう。これは経済活動にあまりに
過度な負担を強いることになる。この負担は、まさに、ワーキングプア、フリーター、
派遣労働、所得格差、労働強化、産業空洞化、地方の疲弊という形で表れているのである。
(中略)今日、われわれは、消費者としてはできるだけ安いものを買おうとしている。
投資家としては株で利益を得たいと思っている。しかし、そのことがまさに、市場競争
を激化させ、組織的な労働を解体し、結果として、労働者としての『われわれ』は
大変な目にあっているのである。」
~~~
解)この考え方を、もし日本だけで当てはめたら国家そのものが破滅してしまう。
何故なら、それを狙った他国が逆の方針をするからだ。日本が「ゆとり教育」で、その
世代の骨抜きが進行している間に、中国が一子政策を採り 両親のエネルギーを一人の
子供に集中したのである。だから現在の日本の衰退が深刻なのである。
しかし、世界がブロック化をして、その中で互いに規制することは可能だろう。
日本の衰退を、「成長モデルから衰退モデルへ」と衰退を脱生長と言い換え、気が
ついたら国家破滅!の危機になる。 人口縮小に合わせて経済規模を均衡縮小を割り
切ってする政策にすることは、間違ってはない。
つづく
・・・・・・・
2008年02月15日(金)
2508, 世界をだました男
「世界をだました男」 (新潮文庫) ー読書日記
フランク アバネイル (著), スタン レディング (著),
以前にビデオレンタルで借りてみたが、あまり印象に残っていない。先日たまたま
図書館で借りてきた後に、アマゾンの中古本を買って読んだが、なるほど面白い!
殆どが実話というが、さかりのついた男のあの手この手の必死さが面白い。
色いろな示唆のある内容で満ちている。この内容の概略をまとめるだけの価値はある。
生粋の詐欺師の話として割り切って読むと面白い。政治家は、この手の詐欺師まがい
が多いのは見ているとわかる!
ーー
6歳から21歳までアメリカやヨーロッパで詐欺を繰り返して二百五十万ドルを
荒稼ぎだした。連邦刑務所で服役後、数々の職業を経て、その手法を逆手に
とって詐欺対策コンサルタントに。
(以下字数の関係でカット 09年02月15日)
・・・・・・・・・
2007年02月15日(木)
2144, 「狂い」のすすめ -1
(~Q~;) おはよう~~ファ~ サム!
閑吟抄の中の、「ちろリ ちろり ちんちろり ・・・・一期は夢 ただ狂え」
を切り口に、世間に縛られないで 自由に生きなさい!と論じている。
まさに何時も、ここで書いていることである。私にとって、今ひとつ物足りない
ところがあるが、団塊の世代のマニュアル人間が定年を迎えようとしている現在、
丁度良い内容である。人生に意味など無い、生まれ、飯を喰って、くそをして、
死ぬだけだ。 あるのは「いま ここ」だけ!
ーまずは、その概要からー ー読書日記
著者:ひろさちや :集英社
世間や常識の奴隷になるよりも「ただ狂え」。狂者の自覚を持つことで見えてくる
こととは…。人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく
生きようと呼びかける。
ー表紙裏の内容紹介ー
今の世の中、狂っていると思うことはありませんか。世間の常識を信用したばかり
に悔しい思いをすることもあるでしょう。そうです、今は社会のほうがちょっと
おかしいのです。当代きっての仏教思想家である著者は、だからこそ「ただ狂え」、
狂者の自覚をもって生きなさい、と言います。そうすれば、かえってまともになれる
からです。人生に意味を求めず、現在の自分をしっかりと肯定し、自分を楽しく生き
ましょう。「狂い」と「遊び」、今を生きていくうえで必要な術はここにあるのです。
-面白そうな所を何箇所か抜粋してみた-
*『人生に意味なんてありません。「生き甲斐」なんてペテンです。』
*「日本人は人生を知りません。人間らしく生きることができず、エコノミック・アニマル、
すなわち畜生の生き方をしています。日本人は狂っているのです。」
*「上等の靴を履いてぶくぶく太った日本の子どもと、裸足でやせたインドの子どもと、
どっちがまともなんでしょうか!? そして、どちらが幸せでしょうか!?
わたしたちの『常識』『物差し』は狂っていませんか!?」
*「ともあれ、遊牧民族は、敵と味方をはっきり分けて考えることができます。
だから楽なんです。 ところがわれわれ農耕民族の末裔である日本人は、敵か
味方かわからない世間を相手にせねばなりません。それがしんどいのです。」
*「浄土経典である『大無量寿経』においては、《人、世間の愛欲の中に在りて、
独り生れ、独り死し、独り去り、独り来る》と言われています。
この「独生・独死・独去・独来」が人間の本質なんです。」
・・・・・・・
2005年02月15日(火)
1414, スローフード
欧州でまず驚くのはスローフードとスローライフの生活パターンである。
最近、日本でもスローライフ、スローフードが流行りだした。アメリカ発の便利
・効率を優先するファーストフードに対して、スローフードを見直す運動である。
イタリアのブラという街で生まれた運動で、日本スローフード協会によると、
次の三つを指標にかかげている。
1、消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理、質のよい食品、ワインなどの酒を守る。
2、質のよい素材を提供する小生産者を守る。
3、子供達を含め、消費者に味の教育を進める。
アメリカのコンビニエンスという考え方が、食べることにも及んで、画一化が進みすぎて、
ものごとを「味わう」ことが少なくなってしまっている。その反省に立って、食事その
ものを見直す運動である。これは、人生にもいえることで、「スローライフ」の見直しも出てきた。
人生を画一的な面だけでとらえず、ジックリと味あう生き方である。「それぞれのライフ
ワークで、自分という素材を生かすことを優先していこう」という考え方である。
先日見た映画の中で、船長と妙齢な婦人3人と母娘のディナーでの会話が素晴らしい。
それぞれが初対面で、違う国の出身。一人一人が多くの過去を持っている。それを何気
なく自己紹介で言うのだが、何の嫌味もなく洒落を言いながら食事をしながら話すセンス
が素晴らしい。 スローフードの典型であろう。欧州人は、ともに食事をすることを最も大事
にしている。生き方と食事に大きなつながりがあることを、長い歴史の上で体験的に知っている。
時間と手間隙をかけた心のこもった食事を、心を込めてとることこそが、今の時代に求められて
いるのだろう。特にスペインは、一日の時間の組み立て方が、欧州の他の国と全く違っている。
朝は、他の欧米と同じ9時頃に始めるが、午後1時か2時から4時ぐらいまで昼休みを取る。
その間、一度家に帰ってシェスタという昼寝をする。(セックスも、その時にすませる人が多いとか)
そして8時過ぎまで働く。その後街に出て、バールと呼ばれる居酒屋でアンチョビなどのツマミ
でいっぱい引っ掛けて、顔見知りや家族と楽しむ。街中あちこちにバールがあり、その時間どこも
満席である。その後、家に帰って食事をする。とにかくバールの値段が安い。
彼らにとって、スローフード・スローライフは数百年続いている文化でしかない。スローフード
などが流行りだすのはイタリアやスペインなどと同じく国が衰退を始めたということだ。
これも事実だから仕方がない。新潟でも全国チェーンの湯葉料理の「梅の花」が出店した。
昼飯を二時間以上かけて主婦などのグループがとる。五頭山の麓にある、釜飯の店など、
その走りなのだろう。金持ちの外食スタイルのカジュアル版ということか!
・・・・・・・・・
2004年02月15日(日)
1047、「22歳の日記」の終わりに
今日で学生時代の日記が終わっていた。何時から何時までという日付の無いフリーの日記帳だが、
丁度よいタイミングで最後のページで、最終日の今日だけレポート用紙が貼り付けてあった。
いま一冊の日記帳にあと半年位は書いていたと思うが、ハッキリした記憶が無い。
この日記を書き移していて「恵まれていた環境にいた」とつくづく思う。
「寮生活に、一ヶ月の欧州旅行、ゼミ、クラブ、教授、両親、友人」と多彩な環境が重なって
いたことに驚いた。そこには地方出身の、土がタップリついた、純朴な姿がそのままあった。
この時期に培ったものが一生ついてまわることを、振り返って実感する。それと真面目な姿も、
今も昔も一緒である? 大学の専門分野の授業が結構面白かったことと、全く知らない分野を、
色いろ知ったのが最大の収穫であった。また知識や情報や人脈の重要さを実感をした。
知的好奇心がこの時期にやっと芽生えたのだから、かなり遅咲きであった。
大学の知識などは、実社会に出てからの経験や読書などの蓄積からみたら、微々でしかない。
「大学を出てないから駄目だ」という自分の思い込みという石をつくらないで済んだのも
収穫であった。当時の学生時代の背景が、昭和40年代前半だったというのも恵まれていた。
特別恵まれていたのではなく求めるものがあったから、見返りに対象が反応した部分もあった。
この時代のポップスは黄金時代といわれている。高度成長期の波に乗って、素晴らしい歌が
次々出ていた。恵まれた時代にあたった世代は、最後の最後まで恵まれるようだ。年金も、
丁度よいようになっている。同世代の人をみていると、仕事などでハッピーエンドの人が多い。
学生時代に真面目に過ごした人は、その後の人生で順調のようだ。マージャンや女性狂いを
していた人は、あまり恵まれた人生ではない。知識や生活の基盤をつくっていなかったためだ。
その一人が自分でもあるが。寮にクラブにアルバイトに酒にと、全て中途半端であった。
しかし、それに気づいて産能大に入りなおして基盤直しをした?が、それでも取り返しが
つかなかった。それほど甘いものではない。基盤はそう簡単には造り替える事はできない。
この日記から、温みを感じ取れるのも確かである。私の人生を振り返って「恵まれていた、
ついていた、面白かった、ありがとう」がキーワードにある。この日記を見る限り学生時代
も全く同じである。この日記を、つまらないという人と、リアルで面白いという人が二分
していたようだが、少なくとも私にとっては、リアルで面白い内容であった。自分の地偕の、
あるフロアーに迷い込んだようなものだからだ。この日記の最後にも感想を書いてある。
もう、こんな赤裸々な日記は書けない!
・・・・・・・
2003年02月15日(土)
まれに見るバカ -読書日記 -2
ー印象的なところを抜粋するとー
人はバカに生まれるのでない。バカになるのである。親子という縦の系列によって
バカになり、友人・社会という横のつながりによってもバカになる。・・・
なぜ容易くバカになるのか。理由ははっきりしている。人間は楽な事を選ぶ生き物だからだ。
できることなら責任なんか負いたくない。他人の心配などまっぴらである。
難しいことより易しいこと、苦しいことより楽しいこと。不自由より自由。貧乏より裕福。
まどろこしい事よりすぐ成果が見えること、に流される。努力するのも金輪際イヤである。
これらの諸条件を満たすのは必然的にバカになる。自分中心主義で、物知らずに、自分の頭で
考えることができない。考える努力もしない。だから人に頼りたくなり人の責任にしたくなる。
このようにして人はいとも簡単にバカを志向する。だから親がバカだと子供はつらい。
「バカ」を刷り込まれるからだ。バカになるのに訓練や努力はまったく必要でない。
欲望と感情だけがあればよい。そしてどんな人間でも欲望と感情だけはもっているのである。
もしバカになったら、それはどこまでも自分の責任である。責任がなくとも自分で
負わなくてはならない。
・・・・
バカがひとりで死ぬまで山の中で生きているのならどんな罪もない。
しかしそのときは「バカ」であることじたいが無意味であろう。
ひとりだけならバカも賢いもないのである。 バカの罪状以下のごとし。
ーつづく
・・・・・・・・・
2002年02月15日(金)
331、自分を愛すること
我々は「自分を愛することを罪悪」と知らないうちに,教え込まれてこなかったか。
人間のいや生物の「遺伝子にはエゴイズムが書きこめれている」という。
まず自分のエゴイズムをハッキリと認めよう。そしてそのコントロールをすべきだ。
自己への愛が自己陶酔やエゴイズムと混同され、否定されている。私たちの大部分が、
実は愛を経験していなかったのではないか?経験してきたのは、実は[報酬]であった。
どこかの「チンドンヤ」のように第三者の容認を目指しているのを、本当の愛といえるだろうか?
第三者の影を探し続けている「子狐」的偽愛・偏愛を愛と勘違いしていた。
まず自分自身を愛し、魂を育てることが「愛」の第一歩である。その前に人を愛そうと
したり、人に愛されることを求める。それはオカシイと考えもしない、世界の大部分が
そういう人で満ちている。別にエゴイズムを勧めているのではない。他人に対する愛の希求を、
まず自分に向けよ!自分の魂に慈愛を与えよ!である。自分のやりたい事を見つけやることが、
魂に慈愛を与えることになる。
それを第三者に求めることを「愛」と勘違いしている。真にやりたいことを、第三者に
求めていないか? 第三者にそれがある訳が無いことを解ってない。新約聖書に
「汝を愛するように、隣人を愛せ」という最も象徴的な真理がある。汝を愛せない人間が
隣人を愛することができるのだろうか。聖書もまず隣人を愛せとか、自分への愛を否定は
していない。宗教的な文章になってきた。それを知っている人間は他人のそれも解る。
自己欺瞞が世界に満ちている。解ってない人間が奇麗事を言う。他人のアラを探す、
無能だからそれしかないのだ。こういう一生を「無能松の一生」という。
私の知人に典型的な奴がいる。もっとも、悲しいことに一番に自分に似ている!
・・・・・・・
2月15日 1969年
昨夜のことで、本当に自分が嫌になる。いい加減な自分に嫌悪感を感じる。
あとは、思い残すことなく社会に出よう。学生時代は終わったのだ。
ーこれからの予定として
2月17日に先生のところに最後の挨拶 2月19日にゼミの工場見学11時~18時
その後、2日間長岡に帰る。2月26日にジャスコ入社式のため四日市に出発
3月2日まで、入社前教育
ーーーー
以上で半年続いた日記が終わっている。
その続きを書いていたかどうかは記憶がない。書いていたかどうかは五分五分である。
この一年後、カード型の分類日記を一年間書いた記憶がある。その一年後、全てを捨てて
しまった。本当は捨てなければよかった。この日記よりもっと激しいことが書いたあった。
それだけ、その後の一年は激しい一年であった。心身ともボロボロになっていた。
大學を出て、十数年は誰もがそうだろうが、一生分の問題を吐き出し解決してきた。
三十代半ばからは楽だったのは、それまで精一杯生きたからだ。
それにしても、凄い?20代~30代を過ごしてきたものだ。他の人のことは解らないが、
私は限界ギリギリだった。読んでいて気づいていると思うが、やはり背景は恵まれていたのだ。
時代に、両親に、そして先生に、友人に。月並みの言い方になるが「ありがとうございます」
という言葉の重みをつくづく感じる。今も、当時も一番足りない気持である。「ありがとう」
という言葉は、言い尽きないのが人生と振り返って実感する。 この時代の人達に
「ありがとうございます」と手を合わせて、この青春日記を終了する。
少なくとも書き写している間は当時にタイムスリップをしていた。毎日続いた一時の
タイムスリップも、今日で終わってしまった!あまり過去に住むのは良くない。
今年の9月からの同月同日の日記として、再び貼り付けるかどうかは、その時考えるが
「もう見たくはない」のが現在の気持ちだ。半年も経てば気持ちが変わる可能性があるが。
当時のこの男の頭をなぜてやりたい。そして「35年前よ、さようなら!」と、腕がちぎれる
ほど何時までも手を振りたい気持ちである。当時と同じように少し感傷的になってしまった!
「あたらしき 明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に うそは無けれど~ 啄木」
この日記帳の表紙にデザインとして書いてあった詩である。
日記帳の下欄には、啄木の詩や日記や書簡集が印刷をしてあった。
しかし詩心は芽生えなかった!
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明日からは、換わりに、次のシリーズとして、 このホームページの
「お笑いのコーナー」の、ジョークと小話を貼り付ける。 少し品のないところもあるが!
100話以上ある。
5月まで続く予定である。