つれづれに

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  今日のYoutube

 昨日のシネマは、『ドクター・ストレンジ』。
 今年に入って三回目。 評価は85点。 面白いのはデジタル化による背景の豪華さ、
派手さ。年齢のためか、刺激が強すぎる場面が多すぎること。 それと、映画館の座席で、
その直後から何時も腰痛がでること。としも、面白いことは変わりない。



・・・・・・
2863, アメリカ発 世界自動車危機 -2
2009年02月05日(木)

この番組で、電気自動車を取り上げていたが、脱化石燃料の流れ加速しそうだ。
自動車の心臓部分はガソリン・エンジンだが、それが電気モーターに変わると、
これまでの自動車の概念が変る。
・「自動車が電気商品になってしまう」のである。 現在一台あたり3万点の部品が、
2万点で済むという。
・前部のエンジン・スペースが、大幅に減ってしまうのである。
・更にガソリンエンジンのため、車体は鉄と決まっていたが、電気モーターの場合は熱を
持たないために、プラスチックやカーボンも可能になり、軽量化が劇的に進み、
エネルギー効率も良くなる。
・電気は家庭のコンセントからでも充電可能になり、結果としてガソリンスタンドは激減。
・これまでのような原油値上がり、即ガソリン代の高騰の構図はなくなる。

これからの10年間は、部品メーカーを含めた劇的な産業構造の転換が起こる。
ガソリンエンジンなどの部品メーカーは、存在そのものが問われるのである。
いや既存メーカーの存在意義も問われるのである。 既存のシステムが逆に重荷になる。
電気エンジンとなれば、電機メーカーはお手のもの。 冷蔵庫を作るように気楽に自動車産業
に参入可能になる。そのため原油の需要が劇的に減る反面、原子力水力発電や、太陽光や風車
などの自然のエネルギーを使用した発電に重心が移動することになる。 
自動車産業はビックスリーの壊滅と同時に産業構造の大転換期に入ってしまった。
トヨタを含めた既存大手の存在意義が根こそぎ問われる時代になった、ということだ。
そのキッカケが、この金融恐慌だったのである。 大きな時代の変わり目は、エネルギーの
転換期が必ず起こってきた。石油などの化石燃料から、他の燃料への転換期になったのである。 
オバマ大統領は、それを政策として掲げているから正論を掲げ正道を進もうとしているのだが・・
その前に、米国産軍共同体か、石油メジャーに暗殺される可能性が大。トヨタパナソニック
吸収合併される日が来るかもしれない。 その前に変身出来るかだが? 現在のトヨタ炎上を
バネに出来るかどうかにかかるが、時代がそれを待ってくれるかどうかだ。

 ・・・・・・・・
2008年02月05日(火)
2498, 無くてはならぬもの -6
 ? 一度だけの人生 ―どこに根を張るかー

 P-196
他人とばかり比べないで世界中に、私はたった一人しかいないんだ、とかけがいのない自分という
存在ということを、もういちど、しっかり見出してほしい、と。あなた方の人生は誰にも代わって
もらうことはできないし、しかもそれは二度と繰り返すことができない一度限りの人生なのだ。
それが本当にわかってないと人生をどう生きるか、という問題は、真剣に考えていくことができない。
 p-199
たとえどんな小さな仕事でも、自分が一生をかけてやりとげる、そういう人生の目的を
見出してほしい。そうして二度と戻ってこない一日一日を、そのことに打ち込んでゆく。
それは無限の希望なのである。天才とは、努力をする人間なのである、といった人がいる。
私たちの個性というのは、何かに生涯を通して何かに打ち込んでいく、そういう努力を通して形成
されていくもの。あなたは社会的に成功しなくてもよい。自分がやりたい事を一度かぎりの人生に
打ち込んで努力してみたらよいではないか。そのことに10年打ち込んでみたらどうか。その道では
エキスパートになるだろう。一流大学を出ているなど、誰も問題にはしない。どんな小さなことでも、
これが自分がしたいことを生涯を通して行えば、世界のために何か貢献することができるのである。
それで途中で倒れることがあっても、一日一日を、そういう仕事にうちこんでいれば、人生は
それで良いのではないだろうか。
 P-202
亡くなった和辻哲郎が若いときに書いた「樹の根」というエッセーを思い出す。
「偶然再興」の中に収められ文章であるが、「・・・ある時、砂に食い込んだ松の木の複雑な
根を見守ることができた。地上と地下姿があまりにも違っていたのである。楽しそうに葉先を
そろえた針葉と、それに比べて地下の根は。戦い、もがき、苦しみ、精一杯の努力をしつくした
ように、枝から枝と分かれて、乱れた女の髪のごとく、地上の枝幹の総量より多いと思われる
太い根、細い根を無数にもって、いっせいに大地に抱きついている。私は、こういう根がある
ことを知っていた。しかしそれを、目の前にまざまざと見たときに、思わず驚異の情に打たれぬ
わけには行かなかった。
ーーー
「順境には枝を張れ、逆境には根を張れ」という言葉があるが、当時、この「樹の根」のエッセー
の言葉が心の支えであった。個性とは、自分が人生をかけて打ち込んだ中でこそ生まれるもので、
むしろ逆境の中でこそ形成される。38年ぶりに読み返してみたが、私にとって「人生を支えて
くれた三冊の本」の一冊であった。実は読み返して今、気づいた。それでは他の二冊は何か? 
近々に取り上げてみようか。大本教出口王仁三郎の本と、新約聖書である。

・・・・・・・・・
2007年02月05日(月)
2134, 時間についての一考察 -1
    b(^o^)dおっ W(^O^)Wはー♪

最近ますます哲学づいている。今日は「時間」について考えてみる。その中で「いま、ここ」
-現在ーの意味が深い。考えてみても解ったような解らないような難しい問題である。
「いま、ここ」という永遠への控えの間?には非常に深遠な光と陰を感じる。 感動した瞬間、
感激した瞬間、そして心の奥底から感謝した瞬間、怒り心頭に達した瞬間、人を殺してやりたい
位に憎んだ瞬間、そのどれも自分を構成している骨組みである。その時々のことは、ほぼリアル
に記憶に残っている。その瞬間・瞬間は、過去・未来ではなく「その時点での今・現在」に
経験したことである。我々が経験することができるのは、この今・現在しかない。その時点の
一秒前でも後でも絶対にありえないこと。その「今・現在」を現に考えている間にボロボロと
過去に過ぎ去っていく。しかし未来はあるのかといえば、「それはあるだろう」という想像でしかない。
砂時計の落ちていく細い部分を「今・現在」という例えがあるが、それはあくまでも砂時計でしかない。
 時間に関しては、「哲学はこんなふうに」(スポンヴィル)の中の『第10章 時間』で次の
ように述べている。
 ==
・・・抵抗も創造も行動も、現在においてしかー現在のほかには何もないのだからー
なされえず、現在の後にはまた別の現在が続くだけである。
ストア哲学者が言うように、いまに生きることは夢想でも理想でもユートピアでもない。
これこそが、生きるということのきわめて簡単であると同時に、はなはだ厄介な真理なのだ。
永遠はどうなるのか?アウグスティヌスが考えたように、永遠とは「永遠の今日」のことであるなら、
明日のために永遠を待つのは無意味になる。これも、アウグスティヌスの言葉だが、永遠とは
「永遠の現在」のことであるなら、それは現在そのものであるだろう。なにしろ実際、つねに
現在であり、つねに顕在的であり、常に活動していることこそが、時間の真理なのだから。
 スピノザは「エチカ」の中でこう述べていた。「我々は自分たちは永遠であると感じ、体験している」。
これは、我々が死なないという意味でも、我々が時間の中にいないという意味でもない。
これが言わんとしていることは、死は我々から何一つ奪い去るものではなく(死んだ我々から奪い
取るのは、存在していない未来だけなのだから)、時間も我々から何一つ奪い去るものではなく
(現在がすべてなのだから)、最後に永遠を希望するのはばかげているー我々はすでにそこに
いるのだからーということである。ウィゲンシュタインが彼なりの言い方でこう言っている。
「もし永遠ということで、終わりなき持続でなく無時間を考えるなら、
                 現在を生きるもの永遠の生を持っていることになるだろう」。
そうであるならば、我々は全員いつでも永遠の生をもっており、すでに救われているのだ。・・
   ==
少し難しそうな話だが、常に現在しかないし、現在考えている過去も、未来も、それを現在考えて
いるという意味で現在に含まれる。永遠とは「永遠の現在」のことで、その永遠は常にその時点の
現在の中にこそある、ということ。この辺りが時間を考える意味で一番面白いところである。
 いま・ここを、さらに次回に抜粋をしながら考えてみる。
                             b(^o^)ノ バイ!
・・・・・・・・
2006年02月05日(日)
1769, 閑話小題
   ー エ!まさかー
先月の末の話になるが、長岡のある料理屋が閉鎖をしたと朝日新聞の新潟版に別枠で大きく
取り扱われていた。店主が店の2Fで心不全で亡くなっていたのが翌日になって発見されたとか。
戦前(この言葉も古いが)から七十数年も続いた店で、両親に何度か連れられていった記憶が
鮮明に残っている。タンシチュウや、エビフライなど独特の味付けだった。昨年の暮れ、家内と
その店の向かったが途中で吹雪いたため、途中で帰ってきた。スナックでその話をしたところ、
自殺という。4~5軒まわった店では全員がそのことをしっていた。いま殿町では、その話で
モチッキリという。どの店も不景気で他人事でないだけに身に沁みるという。
有名な飲食店が数年前に店主が病死をして閉店をしたのも、実は自?だったとか、あの店も、
その店の誰かも、実をいうと??で・・、そのほとんどが借金苦だったという。これだけ
災害が続けばお客の足が遠のくのもわかるが。
              
・・・・・・・
2005年02月05日(土)
1404, 立花隆の旅について

この人の本を読むと、その博学と行動力の凄さに驚きざるを得ない。
深い人間洞察を何気なく言ってのける。長年かけた知識構築の結果といえば、それまでだが。
人間洞察を旅を通して語っているから尚のこと解りやすい。人生は旅であるからだ。今回借りてきた、
「思索紀行」-ぼくはこんな旅をしてきたの序論のなかの「旅と人間について」の次の文章でもいえる。
ーすべての人の現在は、結局、その人の過去の経験の集大成としてある。誰かと交わして印象深い会話の
すべて、心のなかで自問自答したことのすべてが、その人の最も本質的な現存在を構成する。
考えた末に、あるいは深い考えなしにしたすべての行動、その行動から得られた結末に対して反省や
省察を加えたすべて、あるいは獲得されたさまざまの反射反応が、その人の行動パターンを作っていく。
人間存在をこのようなものと捉えるとき、その人の全ての形成要因として旅の持つ意味の大きさがわかる。
日常に支配された、パターン化された行動の繰り返しからは、新しいものは何も生まれては来ない。
知性も感性も眠り込むだけだろう。意欲行動も生まれては来ない。 人間の脳は、知情意のすべてに
わたって、ルーチン化されたものはいっさい意識の上にのぼらせないで処理できるようになっている。
そして、そのように処理されたものは、記憶にもされないようになっている。 意識の上にのぼり
記憶されるのは、新奇さの要素があるものだけなのだ。旅は日常性からの脱却そのものだから、
その過程で得られたすべてが新奇の要素を持ち、記憶されると同時に、その人の個性と知情意のシステム
にユニークな刻印を刻んでいく。旅で経験するすべてのことがその人を変えていく。
その人を作りかえていく。旅の前と後では、その人は同じ人であり得ない。旅の意味をもう少し拡張
して、人の日常生活ですら無数の小さな旅の集積ととらえるなら、人は無数の旅の、あるいは
「大きな旅の無数な構成要素」がもたらす小さな変化の集積体として常住不断の変化をとげつつある
存在といってよい。
 ーー
以上であるが、人間と旅の本質をズバリ言い当てている。旅行に行って帰ってくると、それまでの
自分とは別人になったような感覚になる。行った先の自然や文明文化から受けた感動によるものだ。
旅行で感動した幾つかが、自分の人生の魂の奥に沈んで、人生の大きな骨格になっている。
そして一回行った旅行は、それぞれが今も現実的に続いている。TVや書物で、その後も多くの
疑似体験ができるからだ。何処かしら週に2~3回は情報媒体を通して、その続きの経験をしている。
この随想日記も、過去の出来事、考えたこと、経験の集積ぶつを拾い上げ書き出している。 
汲んでも汲んでも尽きることなく出てくる。

・・・・・・・・・
2004年02月05日(木)
1037, 「わたしは悪い不動産屋」  
 読書日記-1

本屋で何回も立ち読みをしていたが、ついに買ってしまった。
知り尽くしている私が読んでも、面白いのだから素人は是非読むことを勧めます。
こと不動産業界に関しては、一般の素人は非常に用心すべき世界である。最近よく