つれづれに

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 先週の木曜、土曜日の同級会も終わり、平常に戻ったが、
週末は新潟で会がある。 東京の会を出ると、何かしら、
地元の閉鎖社会の異様さを改めて知ることになるが、
これはこれで地域性と割り切ればよいだけ。 新潟の会に
出ると、また、思うのだろうが。

 誰に頼まれた訳でもないのに、24時間、自分でつくった
二十日ネズミの回転輪の中で、一生懸命、走っている。
走らなければ、運動不足でメタボになって死んでいるのだろう。

 

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・・・・・・
3167, シュリーマンの話  ー4
2009年12月06日(日)

  ー抜粋のつづき
 彼は貴族ではない。清国と日本の支配階級を対比しているのではなく、市井の人々のこまごまと
した暮らしぶりの中から、日本の庶民や下級武士、坊さん、はては花魁に至るまで、きれい好きで潔く、
親切な人々を事細かく書き残しているのである。彼は、玩具、織物、刀剣、象嵌細工、木彫り等々を見て、
日本の工芸品は蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達していると評する。
 教育についても、「ヨーロッパの文明国以上に行き渡っている。
アジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対し、日本では、男も女も
皆仮名と漢字で読み書きができる」と称賛した。 彼のために、彼の目が日本びいきであるために
曇っていたのではないかという疑いを晴らしておきたい。幕末当時、日本には1万5千の寺子屋があり、
武士は100%、庶民男子50%、女子20%、江戸市中で70%の識字率で、当時のロンドンの識字率30%
などを断然凌駕し、何百年も世界一を続けていた事を申し上げておきたい。
 彼のたどり着いた疑問は二つ。
《 一つは深奥なる体系的な宗教が存在しないこと。
 もう一つは、「ここでは君主が全てであり、労働階級は無である。にもかかわらず、この国には
平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地がある》
という到達点であった。
 シュリーマン旅行記が今密かなブームを呼んでいるという。 失いつつある懐かしい日本の原風景
に触れることができるからであろうか。 最後に本書の訳は素晴らしい。気品と気骨に満ちた石井和子
さんという老婦人の訳である。 たまたま旧知の関係だったご子息にお聞きしたところ、数年前ご逝去
されたとのこと。お会いできなかったのは誠に残念である。 以上【文芸春秋 誌7月号 但木敬一著】
 ~~
 戦国時代、そして幕末・明治初期に日本を訪問した外国人の旅行者の報告書は、この旅行記とほぼ
同じである。日本人が清潔で、礼儀正しく、親切で、勇気と正義感を持ちっており、教育熱心で識字率
が高く、日常の生活用具や工芸品などの技術水準が高い。 また武士の倫理観の高さである。 
日本人は中世の頃から誇り高く、質実剛健で、教養が高く、公平な社会を築いていた。 しかし、
戦後60数年のアメリカ占領教育で、それらが多く失われてしまった。NHKが「天地人」や、
「坂之上の雲」などを放送するのも、あるべき日本人像に立ち返るべき時と言いたいからである。

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2802, イングランド・ツアー 
2008年12月06日(土)
 *集団スリに狙われて

観光地には、必ずといってよいほどスリがいる。何度か危ない場面はあったが、隙さえ
見せなければ大丈夫と思っていた。南イングランドコッツウォルズブロードウェーの自由散策
時間も終えて、バスの待っている駐車場に行ったところ、添乗員が少し時間があるのでトイレに
行ってきてくださいとのこと。200メートル先のトイレに一人で向かったところ、誰も居ない
トイレの前に30歳過ぎの男達が三人、私を見ている。大きな駐車場に我われのバスが一台。
少し危ない雰囲気だったが三人の横を通り過ぎて、トイレで用を足して帰ろうとすると、男が一人、
何時の間にか手洗いにいる。危ないと思いながら外に出て、残りの二人の横をすり抜けようとした
瞬間に、トイレの中にいたはずの男が後ろから大きなヒャーと奇声をあげた。ハッと後ろを振り
向くと、右手にマジックを持って反対の手の甲に英語で何か書け?と、早口で捲くし立てている。 
瞬間にチンピラの因縁づけと判断、無言で目を睨め付けたまま後ずさりをして、クルリと振り返って
帰ってきた。 私がマジックを持ったら何かするつもりのようだった。ただ突然に不意打ちである。
次の瞬間に他の二人が、その男を制しているようだった。 その場では、「あれは何だったのか?」
理解が出来なかった。家内に言うと、「薬を飲んでラリッテ、絡もうとしたのでは!」と、
添乗員は「酒でも酔って声でもかけたのでは?」という。
でも何か、あの雰囲気は犯罪一歩手前の何かだった。 翌日のロンドンの現地日本人ガイドが、
「最終日の自由時間でピカデリー広場に行った時、集団スリに十分に気をつけてください。
彼らは、あらゆる手段で仕掛けてきます」と何度も念をおした。その時に前日の出来事が何だったか
気づいた。一人がトイレに入ってきて私の背後にまわり、二人の近くに来たとき、奇声をあげて
後ろを向けさせたのである。次にマジックペンを握らせ、手の甲に勢いで書かせた瞬間に手を
移動させシャツにマジックをつけさせて、脅しをかけているうちに、背後から財布を抜き取る
算段だったのだ。それなら、辻褄があう。あの場合は、相手のペースに乗らないのは、経験上
よく知っている。ミラノで家内がショッピングの時に、広場をブラブラして鳩の群れを見ていた。 
何時の間にか若い男が横にいて、トウモロコシの豆をスッと突き出してきた。
アワヤ手に取りそうになったが、手を引いて、その場を移動した。そして、他の場所から男を
何気なく見ていると、他の観光客に同じようなことをしていた。初めは手に取ったときに
一ユーロ位を要求するタカリだろうと思ったが、後ろに仲間がいた。トラブルを起こしている
間に財布を抜き取ろうというのだ。 しかし、瞬間に、その人も手を引いたので、スリの現場
を見れなかったが。家内はスイスのユングフラッホで、財布を全く気づかずに摺られた
ことがあったが・・・

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2007年12月06日(木)
2437, ファッションを哲学する
                       ヾ(≧∇≦*)ゝおはよんよん♪
 哲学者の鷲田精一の「ファッション」論が面白い。人は、とりわけ女性はファッションに
多くの金をつぎ込むが、その割りには「ファッションとは何か?」を哲学者も社会学者も取り
あげない。鷲田は哲学仲間から呆れられながら考察する。 言葉と衣服は似ているのである。
ファション衣服は何ぞや?を、考える前に衣料とは何ぞや?を取上げる。
「なぜ服を着るのか」「なぜその服でなければならないのか」を考え、ファッションを通じて、
「私」や「私の身体」について考察する。「ファッションはいつも愉しいが、ときどき、
それが涙に見えることがある。」という彼の言葉は痛烈である。更に、そもそも人は何のために
服で体を隠すのか? 隠すべきものの実体は?等々、身体論を含めてわかりやすく説いている。
   ---
ー彼の論を簡潔にまとめるとー
・まず人は「らしい服をまとって人は『だれか』になる」という。警官は警官の制服、そして
 兵隊は軍服、そして消防士は消防服をきて、制服の中味になっていく。 社会的なコードと
 して一番わかりやすい。
・ファッションは社会の生きた皮膚として端的な表現をする。
 流行の服を着るということは、過去を捨て、未来のことも考慮に入れず、まさに現在
 だけを考えるということ。流行の服を追う事というのは、今を生きるという
 ことでもあるし、刹那的でもある。
・身近で加速するハイブリッド現象と捉えることができる。
 Tシャツであれ、ジーンズであり、衣服は国境や、民族文化の境界をやすやすと
 越えて浸透していく。哲学者や社会学者が異文化理解の可能性を説いている間にも、
 ファッションは確実に文化のハイブリッド化を加速する。
 カルチャーとサブカルチャーが世界を激しく横断する。
ー印象に残った部分を抜粋してみるー
 そういう虚ろな<像>を補強するために、われわれは他者とともに安定した<像>
 の様式をスタンダードとして作りあげ、それにしたがって自己のイメージを構成したり、
 ときには取り繕ったり、偽装したりもする。それをさしてロラン・バルトは、
 「モードは人間の意識にとってもっとも重大な主題(《わたしはだれか?》)と遊んでいる」
 と言ったのである。男性らしい服、子どもらしい服、会社員らしい服、喪の服をまとい
 ながら、ひとは社会のなかで「だれか」になっていくのである。ひとが自分の身体的
 存在をイメージするときのその回路を、衣服の社会的コードが拉致する。ちょうど、
 現代社会では病める自分の身体への関係が医学と医療制度によって全面的に謀介されて
 いるのと同じように。 こうしてファションは、社会の生きた皮膚として、ある時代に
 おける社会の成員の自己同一化の構造を解読するための恰好のテクストとなるものである。
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衣料品店に生まれ、ホテルの一角でファッション学生服も含めたら20年も携わっていた。
とにかく、市場とメーカーの架け橋のシステムを如何に日々作りあげ、
作り変えていくかに全てのエネルギーをかけないと、一瞬に不良在庫の山になる。
ファッションとは何かなど考えている暇は無かった。知っていたところで、システム
つくりには関係なかった。しかし、衣服とは、そういうものである。社会的コードであり、
社会成員の自己同一化の道具でもある。劇をしようとしたら、まずは服装から始める
ことを考えれば解ることだ。 昔から「馬子にも衣装」と言った。
今だったら「馬子にもブランド」?  ( ̄∠  ̄ )ノ サラバジャ! 
 後記)偶然の一致とは!面白いものだ。後の方に貼り付けてあるが、
6年前の今日に「ブランド」というテーマで書いたあった。度々あることだが・・・
   
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2006年12月06日(水)
2073, 金は人を幸せにするか?
           才八∋ウ_〆(∀`●)
 お金に関しては、何度か書いてきたが・・先日の書評「金は人を幸せにするか?」
は題材として面白い。毎日新聞の『「豊かさ」の誕生…』=W・バーンスタイン著の書評で、
その内容が紹介されていたが、なかなかよい。建前でいえば、「お金で幸せが買えるかって?
冗談じゃない。幸せは心の問題だろう。それが金で買えれば、世の中の金持ち全部幸せのはず。
質問そのものがナンセンス」が正論である。しかし本音のところ、「金は何でも買うことも
できる自由の塊、何でそんな建前をいうのか?そんなことを言えるのは充分ある人のこと。」
と、陰の声がささやく。「貧乏の極みで家庭は崩壊、借金で高利貸しに追われ、最後は不幸の
どん底、投身自殺を図ったが死に切れず・・・」 これなど不幸のカタチで何処にもあるパターン。 
倒産や失業では金欠が当面の切実の問題になる。人間の品性は「金欠と女性問題」で露わに
なる事例を山ほどみてきたので、間違いなく「金のないのは、人を不幸にする」ということ
だけは断言できる。幸せになるのもいるが、それは珍しいから小説の種になる。私の持論は、
「金で80?の幸せは買えるが、あとの20?は金で買えない。その20?こそ一番大切なことである。
しかし80?は買える。幸せとは、したいことがあり、それをやり遂げた心のさまである。
それは金では確かに買えない部分もあるが、しかし金=自由であるから、やり遂げる手段
としては、最有効になる。」である。
(字数の関係でカット2009年12月06日)・・
・・・・・・・
2005年12月06日(火)
1708, 戦略ノート -1
                     -読書日記
また斉藤孝である。        ~~匸Pヽ(・ω・`)
 ただし、この本は訳者としてだが。 俗にいう「夢・枝もの」である。
『夢』-目標・戦略ーを持ち、それに対して『枝』ー戦術ーと 根ー教養ーを長年
かけて養えば、いつの間にかほとんどのことは叶う、という手のものである。実際、
その通りだが80?の人が初めから興味を示さず、残りの20?うちの5?の人しか、長年に
わたって努力をしない。 これが人間の固定観念のなせる業だ。
この本では、成功とはなんだろうか? 富は成功の付属物にすぎない、から始まり、
  ー 成功を以下のように定義する。  φ(・ェ・o)~カキカキ
  1、自分の人生の目的を知り
  2、潜在能力を最大限に発揮するために成長し
  3、人のためになるような種をまくこと  (n´∀`)η゚・.。. .。.:*・
   ・自分の心の奥底から望むことは何か? ということを熟考して
   ・自分の後ろ盾、強みは何か? を把握
   ・何でも屋ではなく専門家になれそうすれば優先順位が明確になる
 更に 次の5つのステップで夢を見つける
  1、自分は成功できる! という強い信念を持つ
  2、プライドを捨てる。プライドが高いと能力よりも外見にとらわれ、
    安全圏を出れない
  3、不平、不満を建設的なアイデアに変える
  4、マンネリ習慣から