つれづれに

イメージ 1

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

  今日のYoutube


 今朝は母親の20回忌の命日。一時間のミニチャリの後、墓参りに。
信濃川の水量は、昨日同様に大め。 
 
 昨日のシネマは、『BFG ビッグ・フレンドリー・ジャイアンツ』を観てきた。
スピルバークがディズニーの組んだファンタジーなら面白くないはずはないと、
決めたが、まあ面白かった。 それでも 評価は85点
 ネット上の評価は 5点満点の3・4点で、高くはないが、毎週、
ドンパチものを観ているため、時々は、ファンタジーも良い。
 特撮の進歩が、映画内容を格段と面白くする。

黒人が警察の射殺された事件で、妻が、その場面を撮影した
写真が、ネット上に公開されていた。こうなると、公開処刑の感もある。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160924-00010000-afpbbnewsv-int
http://www.afpbb.com/articles/-/3101673
 これでは、暴動が起きて当然である。


・・・・・・
・・・・・・
4941,閑話小題 ー夜半にみた恐ろしい夢
2014年09月24日(水)

* 夜半にみた恐ろしい夢
 昨日の朝方2時半頃だったか、恐ろしく生々しい夢をみた。
ーそのショートショートとは
《 居間でウトウトしていると、突然、立派な袈裟を着た僧侶が部屋に入ってきた。
 ハッとし夢から覚め、何だと思った次の瞬間、全身ねずみ色の姿が現れ出た。
そこで、恐怖でパニック、悲鳴と共に思いきり蹴飛ばした、と同時に目覚めた。
その時、実際に上布団を蹴っていた。隣に寝ていた家内は、気づかなかった。 
時どき家内に、「夢か何かで魘されていて煩い!」と、文句を言われていたが、
成るほど! 坊様と、ねずみ色の影の二重構造の夢とは面白い!お迎えが近いのか? 
何だろう! その前日の小学校の同期会で、同級の悪ガキだった男が、
「数ヶ月前に切腹をした。片足、いや両足が棺桶に入っている。80歳までは
生きれると思っていたが・・」と、死の恐怖に怯えていたことを思い出した直後の夢。
「他人事でないぞ」という想いが、この物語として夢になった、か。 三年前の
節目から、同級会の度に嫌味を言われたが、三度目に「この男、危ない事態になる!
(私の節目の傷口に触れたため)」と直感したが、案の定、こういうカタチになった?。
意味ある偶然だが、「危ない何かが起きる!」と思ったのは確か。 
更に辛辣なのが何人もいるが、いまだ元気だから、これ、起こってしまった現実の、
あと講釈。夜半にみた夢は、それを注意にきた坊様と解釈すると、筋が通るが・・
「自分の傷口を、傷ついた他人の血で洗うと、毒がまわるから気をつけろ!」
という注意か。この年齢になれば、「どの道、直ぐに死ぬのだから!」 
少し早いか遅いかの差でしかない。 ところが、この下書きを終え居間に戻った
昨日の夕方、家内が、『明日、お母さんの命日、知っているの』  
さて母の墓参り、般若心経をあげにいくとする。 そういえば、二日前の
この随日で、母のことを書いていた。 この二つの文が、そのまま、母親への
供養である。 私にとって両親はベストの親と感謝している!
・・・・・・
4574,  二代目のスポーツ自転車 ースポーツ自転車の勧めー5
2013年09月24日(火)
   * 二代(台)目のスポーツ自転車
 注文していた電動アシストのクロスバイク(自転車)が、一昨日、自転車
専門チェーンの「あさひ」に届いたと連絡があった。4年間乗ったマウンテン
バイクについで二台目のスポーツ自転車になる。まずスピードがマウンテン
より2倍近く出るのがよい。これで何が変わるか楽しみだったが、単純だが、
一時間のポタリングの周遊範囲が自動的にスピードに比例し二倍になった。 
なるほど人間と同じで、機能に制約されていたのである。
人間も知識と情報により左右されるのと同じ。もっとも乗る前から、コース
をどこにしようか考えてはいたが、実際に走ってみると見えてくる。信濃川
土手の二つの大橋一周から、土手の下にある河川敷のコースも見つけ走ること
にした。当面は、秋という季節柄、一時間から一時間半から二時間とすると
三倍の距離、走ることになる。連休と物珍しさもあるが、朝夕、買った当日と
昨日、二時間走ってきた。乗り心地はMTB(マウンテンバイク)は、小回り
がきいて、軽く、目線が地面近いローラースケートという感じだが、
クロスバイクは、ズッシリとして、目線が高く、スピード感がある。
今までレースタイプにスイスイ追い越されていったが、今度は、追い越す方に
移行するが、4年間、MTBを乗ってきた者にとって、大きな違いになる。
欠点は、一時停車の時、つま先立ちになること。 しかし、スポーツ自転車の
基本は、つま先立ちになるまでサドルを上げることというから、一週間位の
訓練で身に付きそう。こぎ出す前は、男またぎでなく、女またぎがスポーツ
自転車の基本。停車の時は、一度、サドルから前に腰を外し、両脚を地面に
つけるのが基本。そう言われればTVで見ていると、そうである。
 これで二種類のスポーツ自転車を持ったことで、ポタリストか、ペダリスト?
の仲間入り。一応、自転車愛好家と自認できる。ところで、買う気になって、
スポーツ専門店の売り場に入ったのと、冷やかしとでは違って見えてくる。 
自転車初心者コースの本を読んだこともあるが、それにしても種類が豊富である。
 店舗だと、大たいの店が、メーカー品だと一割引、ネットでは二割引になる。 
ネットで買うのと、店舗で説明を受けた一割の差は何か?というと、自転車に
まつわる情報の差であった。そこで、店舗で一割のサービスを受けることに
したが、それだけの情報とサービスはあった。旧来の自転車屋は、パンクや
ブレーキの修理を必要とする、土着の商売。地元の長岡では、20~30年前
まで100軒あった店が20軒に激減したという。自転車本体が、スーパーや、
HCの攻勢で、売れなくなったため。「あさひ」の店頭は、殆どが見本陳列で
取り寄せがベース。 その分、多くの見本がある。 あと冬季間まで二ヶ月、
まずは距離を走らなくては! 元気のうちである。
・・・・・・
4199, 呪いの時代 ー15
2012年09月24日(月)                          
   * 「ほんとうの私」という幻想からの脱却  『呪いの時代』内田樹
<実は私たちは「ほんとうの私」という幻想に縛られている>というドキッ!と
する説が、ここで書かれている。誰の心奧にも理想と現実のギャップが潜んでいる。
それが何時の間にか、理想の自分が「ほんとうの自分」という幻想になり、
それが「正味の自分」にとって替わっていたとしたら・・ 何だろう何時も
独り呟いている  「本当の自分とは?」 ーその辺からー
≪ ・・その「幻想的なオレ」が、ある日、何かを呪ったのである。呪いの標的
となったものは、具体的なものや、誰かでなく、妄想し、『本当の自分』が所有
するべきもの、占めているべき地位を不当に簒奪している誰かである。
その呪いは、何時の間にか現実の力を持ってしまい、破壊の塊になってしまう。
破壊の力は現実の身体に根拠を持つ限りそれほど害にはならない。
攻撃が破壊的になるには、それが身体を離脱して「幻想」レベルに達したとき
なのです。だから、私たちにとって喫緊の問題は、妄想的に構築された
「ほんとうの私」に主体の座を明け渡さず、生身の、具体的な生活に捉えられた、
あまりぱっとしない「正味の自分」こそ主体としてあくまで維持することです。
しかし、そのぱっとしない「正味の自分」を現代日本のメディアは全力を
挙げて拒否し、それを幻想的な「ほんとうの自分」に置き換えようと私たちに
促しつつけている。≫
 ▼ この文章から思いたってくるのは、 <「ほんとうの私」は実は幻想。
 周辺に見られていると思っていた 「正味の自分」が、自分の実像でないか?>
である。社会に出て、それぞれの世界で生きてきて、常に「ほんとうの私」という
幻想が「正味の自分」を見ていた覚えがある。それが私を突き動かしてきた。
しかし、このようにコペルニクス的なドンデン返しの真理を突きつけられると、
根こそぎ人生を考え直さなければならない。そのため、神は老後の期間を与えた
のだろう。話は少し変わるが、土曜の午前中に家族の外見変身をテーマにした
番組がある。家内が見ているので、自然と見るようになった。
変身願望の家族、特に主婦に、番組が美容とブランド品の服飾で変身させ、
あたかも本当の貴女は少し手を加えれば美しいのですよ!と幻想的セレブの
家族を演出する。見る方も、本人たちも、その着せ替え幻想を楽しむバレエティ。
それはそれで良いが、少し豊かになり背伸びをすると、 その幻想世界と
現実世界が入れ替わってしまう。森林(現役)に住んでいる内は良いが、一歩
サバンナに踏み入れると正味の自分に向き合わざるをえなくなる。その時、
私たちは「ほんとうの私」という幻想に縛られていた自分に気づく。
(それさえ気づかない人が多い)それと同じことが、総中流社会から総下流
幻想が移行しつつある日本である。バブル崩壊後、国民の過半数が実質、預金
ゼロになるなど総下流化の様相。その怒りが呪いになっている。
「ほんとうの私」という幻想こそが、悪魔の正体。呪いは、自滅につながる。
なる程、呪い呪われの時代である。これが当分続くとしたら、
正味の自分の心のシェルターを用意すべきか。その正味の自分も幻想?
 ・・・・・・
3834, ツール(道具)について考えてみる ー1
2011年09月24日(土)
 電動アシスト自転車を使い始めて二年になるが、その日から日常が変わって
しまった。足馴しに自転車で自宅から20分ほどの信濃川の長岡大橋から
大手大橋を一時間ほど一周したが、自動アシストのためペダルのストレスが半減。
そのためか信濃川一周のポタリングが快適であることに気づいた。空気が新鮮で、
野鳥が多く飛び交い、川幅が広く、流れが緩やか。そこから見る360度の視界
がまた良い。川向こうから街中に向かう長岡大橋の上からのパノラマはライン川
の風景に決して劣らない。それと何より、自宅の生活圏から一歩外に出た開放感
が良い。自宅近くの栖吉川を30年近くウォーキングをしてていたが、丁度
その頃に工事で遠回りをしないと何時ものコースを行けないこともあり、切り
替え時だった。 以来、12月から3月を除いた連日、信濃川周辺のポタリング
は日常生活の大きな柱。新たな手段が生活を変えてしまった。10年前にパソコン
をものにする最後のチャンスと必死の思いでパソコン教室に通いだし、このHPを
立ち上げた。それ以来、パソコンとネットが生活の核になっている。 
過去を振り返ってみて学生時代に残した日記が、当時のままを記憶として
残してくれている。「書くこと、書き残すことの秘儀」というか、その価値を
数十年後になって読み返して気づいたこともあって、一日一文をHPに書き残す
ことにし、それが現在も続いている。事業のためとか、自己顕示欲のためでなく、
「いま、ここ」を書き出すこと、書き残すことの価値を知っているからこそ
続いている。日々の痕跡を残すために、ブログほど便利なツールはない。
そのためには開き直りと、公開の結果のマイナスの危険を承知した上に、
それ以上の何かの利点を直感しているから書き続けている。要は、道具が逆に
行動、習慣を決めてしまうのである。 道具というと聞こえは悪いが
「ツール」というと、納得する。
 ・・・・・・・
3469, 基本的信頼
2010年09月24日(金)
 人間には二種類ある。 基本的信頼が強い人と、基本的不信の強い人である。
それは「自分だけは大丈夫」という原初的な感覚につながっている。 何時も
言っているが、身近に幼児期に両親の愛情がタップリ入っている人がいる。
その過剰は自分は特別の存在という感覚が強い反面、非常に精神的に強い側面がある。
乳幼児は非常に無力で、助けてくれる人を必要としており、基本的信頼が満たされて
いると「世界は自分を大切に扱ってくれる人がいる」という感覚を得ることが出来る。 
この感覚は人格の一番奥底に存在する安心感、自己信頼感を形成をする。
この感覚が強ければ強いほど何かが起こっても何とかなると考えられ、自分の希望は
叶えられるという全能感を得ることが出来る。基本的信頼を与える存在は、母親か
母親的存在で、子供を自分のように愛せるかどうかで、この感覚が左右する。
E.エリクソンによると、「基本的信頼感の獲得」という乳児期の発達課題は、
良質な母性的養育関係を通して達成される。「自分は見捨てられていない」
「ここにいていいんだ」「自分には価値がある、受け入れられている」
という基本的な信頼感を、乳幼児は求めているのである。片親の子供は就職に不利
というが、企業も経験的に組織人として基本的信頼がベースにある人を選択するのも、
こういう事情がある。それは人間的な温かみとして表出している。これだけは、
隠そうとして隠せない。その意味で両親の素質と相性は大きく子供に影響している。
とはいえ、兄・姉を見ていると同じ環境で育っても大きく違う。それは、両親との
相性が大きく左右している。そうこう考えると、多人数の姉・兄の末っ子で両親に
特に愛された実感があるだけで充分に恵まれていた。過剰の愛情は「我がまま」
という副産物もついてくるが。今日は母の命日で亡くなって14年になる。

・・・・・・
3094,久々にジョーク -2
2009年09月24日(木)
 * 三つの願い
 愛猫と二人暮らしの八十歳の老婆。天気がいいのでベランダで椅子を揺り動かして
いると、足もとにランプが落ちているのに気づいた。それを拾い上げ、ほこりを払っ