つれづれに

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  今日のYoutube

 毎週の金曜日の恒例の言葉、
『もう、金曜日。さて、今日のシネマは何を観るか?』
 空は雨模様。庭には、庭師が二日続けて、木の剪定。

 来週末は、今年、三度目の中学校の飲み会。
この40年、年に2~3回は、飲み会が開かれてきた。
どんどん、死んだり、居なくなって、同級会から同期会に
なってしまった。同級生では、常時、出席をする男は、
私一人になってしまった。 様々な人生が垣間見れるが、
この席でしか、みれない人たちが多い。
 



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3468. 閑話小題
2010年09月23日(木)
   * 検察の特捜主任検事を逮捕
 検察不信に関して何度か書いてきたが、ついに特捜主任検事が逮捕された。
ウヤムヤに葬りされなかったことが不思議なぐらい。押収資料を改ざんしたと
いうから、何を言わんかである。強引に逮捕され起訴された何人かの手記を
読んだことがある。彼らは自分で筋書きをつくり、その物語どおりの材料を
強引に集め起訴をする。そこには検察の手前かってな理屈が罷り通るという
のが共通項である。 その一端が、今回の事件に現われている。これまで、
国家権力を使い好き勝手に事件を捻じ曲げた所業が多くあったとが窺える。
検察上層部に上るほど、出世のための手練手管の手法を持った輩になるから
想像を絶する世界? 今回、逮捕された検事もまさか自分が逮捕されるとは
夢にだに思ってなかっただろう。 これまで手記を書いてきた被害者?が、
雑誌などで、多くのコメントや手記を出すことになる。検察もたまった
ものでない。情報化で国家権力を持った者でも、以前のように抑えることが
出来なくなってきたのである。手記からすると暴力装置を持った官僚、
それが検察、末端が警察。
  * 尖閣漁船衝突問題について
  ー産経新聞産経抄が面白い。まずは、その内容からー
【 加瀬英明氏と「元中国人」石平氏との対談集『ここまで違う日本と中国』
 を読むと「目から鱗」の話ばかりだ。 例えば「公」を大切にする日本と
「私」しかない中国。お二人は「論語」にある「父親が羊を盗む話」をあげ説明。
▼ ある人が孔子に「友人は正直者で、父親が隣の人の羊を盗んだことを知ると、
 父親を告発しました」と語る。すると孔子は怒る。「何よりも、孝が大事だ。
 父親がどんなに悪いことをやっても、外に言ってはいけない」。石平氏
孔子は公を無視している」という。
▼ これに対し中国とは別の儒教を作り上げた日本人は「孝」よりも「公」
 に尽くす「忠」を重視してきたそうだ。何事か起きると、日本人が
「相手に悪い」と思うのに対し中国人は「相手が悪い」と思う。
 明らかに「公」と「私」の精神の違いだろう。
▼ そう考えると、沖縄・尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件での中国側
 の対応はよくわかる。現場が日本領海であるとか、国際社会の秩序に従う
 とかいった「公」の気持ちはさらさらない。ただ自国の船を守り、
 日本への恨みを晴らす「私」の基準で騒ぎ、日本を恫喝しているのである。
▼ その漁船衝突事件で、こんどは日本の大学生ら約1千人の上海訪問まで
 延期になった。温家宝首相の招待で予定されていたが、中国側が
「今はふさわしくない」と断ってきたのだそうだ。報復のつもりだろう。
 楽しみにしていた若者たちには気の毒だ。
▼ 容易に理解し合えそうもない精神構造の違いを覆い隠して交流してみても、
 あまり意味があるとは思えない。事件を通じ違いを知ったとすれば、その方
が真の友好につながる。断られたことを感謝してもいいぐらいだ。】
 ―
 以上だが、中国頼みの日本は、アメリカと中国の狭間にたって翻弄され、
結局は資産とノウハウを奪い去られる運命か。「第二次世界大戦で、日本が
中国でしてきた所業を、今度は日本にして何が悪い」という論も成立する。
中国とアメリカの間の「独り紙相撲の日本」という様相をおびてきた。 


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3093,久々にジョーク -1
2009年09月23日(水)

 一時期にジョークに興味を持って100以上を収集した。どれもこれも面白いもの
ばかり。ところが、ある時期から、これはという面白いものが無くなってしまった。
ハッキリいうと、ジョークは聞くほうに、それなりの素養が無いと笑いが生じない。
周囲には、その捻りの妙の可笑しさが解る人は極少?で、何時の間にか、酒席でも
話すのを止めてしまった。先日、借りてきた「続・ジョーク世界一」に、面白いもの
があった。下ネタの、聖(ひじり)ものと、老婆もの。 最後の一言で落とすのが、
ブラックものの面白さである。 それにしても久々にニヤリとした。
  * 神の思し召し
医師と密会していた女性、やがて妊娠することに。困り果てた二人はいろいろ対策を
考えたが、名案が浮かばない。出産の日がどんどん近づいてくる。丁度そのころ、
一人の神父が腸の手術をするため入院してきた。医師はひらめいた。
「神父の手術を終えたところで、赤ん坊が誕生したと言って神父に押しつけよう」
医師に計画を打ち明けられたが、女性は懐疑的だった。「それしか道はないんだ。
やってみよう」 医師は女性の出産と神父の手術を同時におこない、神父に
向かって言った。「神父さま、こう言っても信じられないでしょうけど・・・」
「何だったね、何があったんだね?」問い返す神父に耳元に
「神父様のお腹に赤ちゃんが宿ってました。幸い赤ちゃんは元気です」
「そんなバカな。ありえない」「そのありえないことが起きたんです。
わたしがこの手で取り上げたんですから、間違いありません」「奇跡だ!」
「ええ、奇跡です」 奇跡の言葉に弱い神父は`すべては神の思し召し′と、
結果を受け入れ、赤ん坊を連れて修道院へ戻った。それから十五年経ったある日、
神父は息子を呼んで語り始めた。「おまえも十五歳になったんだから、わたしは
真実を語らなければならない。実は・・わたしは、おまえの父親ではなく…」
「何なんですか?」「母親なんだ」驚いた少年は問い返した。 
「じゃあ、お父さんは誰なんですか?」「これは絶対に内緒だぞ。おまえの
父さんはとなり町のあの大きな教会の司教さま・・・」
 ~~~
解)ジョークの批評も野暮だが・・。 医師の不倫と、神父への冒涜、
更に神父同士の男色の捻りまで入っている。最後の一言で、一瞬でブラックの
笑いに誘い込む。 私のストックの中の「聖職もの」としては、次のものが面白い。
《 *旅たち* 修道院から、少女たちが旅立とうとしています。女性院長が
はなむけの言葉を贈ります。「いいですか。修道院の外には危険がいっぱいです。
一番気をつけなければいけないのは、男という生き物です。あなたたちにお酒や食事、
お金をくれるのと引き換えに、あなたたちの服を脱がせ、とんでもないことをします」
「院長。男って、そういうときお酒や食事、お金をくれるんですか?」「そうですとも」
「でも院長。ここの司祭さまはクッキーだけでしたよ」
                              つづく
・・・・・・・
2728,  議論に絶対負けない法 -3
2008年09月23日(火)
  「議論に絶対負けない法」-3   ー読書日記

物語になるまで、筋書きに対する準備に徹する、それも楽しんでやれるかどうかである。  
以下は、この本の一番好きな部分である。成功のノウハウが、この部分に全て含まれる!
と、いってよいほど。この天才的な弁護士が百戦百勝している最大の秘訣である。好き
こそ、ものの上手けれというが、何事も好きになり、その準備を楽しまなければならない。
 Pー195
 *私が百戦百勝している最大の秘訣

 準備!そこから魔法がはじまる! だが私がそう言うと、若い弁護士は当てが
外れたような顔をする。彼らは労働と呼ばれる退屈なものを迂回できるような、楽な
方法を知りたいのだ。本当の準備は労働などではないと彼らに説明できればいいのだが…。 
準備とは、創造する喜びだ。準備とは人生を苦労して前進すること、悩みながら生きて
いくこと、波にもまれながら生きていくこと、人生を喜んで受け入れること、人生を
自分自身に塗り付けること、人生を生きることだ。
 モーツァルトに労働したことがあるかと尋ねてみたとしたら、おそらくノーと答えた
のではないだろうか。だが彼の人生、彼の呼吸が、彼の音楽だった。不朽の音譜という
形でなされた彼の議論は、人生のすべてを費やした周到な準備の成果だった。
並はずれたIQを持っているが準備をするほど賢明ではない人よりも、力強い議論の
準備を整えている普通の人になりたい。準備とは、あくまでも「心の底」の栄養だ。 
結局、天才とは脳細胞の幸運な並び方を言うのではない。天才とは土ネルギー、
単に何かに向けられたエネルギーにすぎない。天才とは準備なのだ。  
 議論の準備をしている時、私は労働していない。この本を書く時も労働などしていない。
遊んでいるのだ。準備をする時の私は子供だ。子供だから遊びに飽きることは決してない。
富あふれ・胸を躍らせる。ネズパーズ族の酋長のスモーホール酋長が言ったように、
「若者は決して労働してはならい。労働する者は夢を見ることができない、そして
知恵は夢の中で得られるものなのだ」あなたは共同経営者に会社の方針を変えることを
納得させ、勝ちたいのだろうか。配偶者に話をして転職に同意させ、そして勝ちたい
のだろうか。陪審員に自分の主張は正しいことを納得させたいのだろうか。
それなら、よく調べ、勉強し、実践し、準備しなさい。遊びなさい。議論の準備を
しなさい。自分の考えをくわしく書きなさい。新しいアイディアが魔法の穴から飛び
出してくるのを注意して見ていなさい。議論に関して知っておかなければならない
ことは何かだけではなく、人類の歴史上、最も興味深い人物tつまり、あなたについて
知らなければならないことは何かを発見した時の気分を味わいなさい。私はいまだに
他の弁護士から「スペンスさん、あなたは法廷でどんな魔法を使うんですか」
と聞かれる。私は暗審員に催眠術をかけたということで被告側のリーダー的な人物
から訴えられた。 さらに、法廷でそれまで仕事をしてきたなかで、これほど熱心に
陪審員が原告に有利な評決を下したがったケースは一度も見たことがない、と論じた。
彼は実際に前もって私の勝敗の記録を調べ、弁論という正当な方法によるもので
あるはずがないと主張し、自分の議論が正しいことを立証するために、私がリズミカル
に手を動かし、声を使って命令的で抵抗しがたい音楽のような音を出して催眠術を
用いたと指摘した。そして、これは今自分が暴いたただのくだらないトリックで、
裁判所によって禁止されるべきトリックだ、と論じた。言うまでもなく、相手方は
準備というものを理解していなかった。彼は私をスヴェンガーリのような催眠術師
だと誤解していた。彼は自分自身の主張について勉強して準備をするよりもむしろ、
私を攻撃するための準備をしてきたのだ。私が何週間も、時には何カ月もかけて
たった一人で自分の主張の準備をしていることなど、彼には少しもわからなかった。
彼の目に映ったのは、周到に準備した事実の貯えを持つことによって思いのままに
ふるまうことのできる一人の弁護士だった。裁判官はことの成り行きを理解し、
もちろんその弁護士の申し立てを却下した。 私が階審員に論じる番がくると、
その弁護士は何度も立ち上がって異議を申し立て、私をさえぎり、私の議論のカを
無効にしようとした。
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後記)以前、銀座ナンバーワンのママとホステスのノウハウについて、取りあげた。
店というステージに立つ前の顧客への決めの細かいサービス(誕生祝い、ゴルフ、
ビフォアー・・)に徹している。準備準備準備準備なのである。それを趣味にする
位に努力しないと、相手に伝わらないことは一番に本人が知っている。

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2007年09月23日(日)
2364, 哲学とは何か、考えてみようか?
        Good☆Morning (p≧w≦q)オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァ♪

池田晶子から、再び中島義道に戻るのも良いだろう。脳の筋肉を使わないと
独りよがりの理屈の捏ね回しになってしまう。色いろな本を手がかりに、自分で
脳の筋肉を使うしかない。その手っ取り早いのが哲学である。それも、同じことを
同じように、何度も繰り返しながら、一人ブツブツと独り言を呟きながら・・
私の場合特に、自分の経験を照らし合わせて理解することが多い。何ごとも初めは
心と頭を空にして(空即是色から始めないと)新しいことは出来ない。
解ったふりとか、それまでの些細な知識や経験は、全て邪魔になる。それが創造。 
哲学は何ごとも一度横において、原点を見つめることである。
ーーー
「狂人三歩手前」 ー中島義道
ー夏には哲学がよく似合うー  P-51
メルローーポンティは言う。「真の哲学とは世界を見ることを学びなおすことである」
脳髄の中はクルクル思考が回っている。この「私」とは何者なのか?太陽が眩しい
「いま」という時、それは何なのか?太陽から私の身体までのこの空間とは何なのか? 
このごろとくに考えること。それは、「見えるもの」は「見えないもの」に支えられて
初めて見えるということだ。他人の心も見えない…膨大な数の「見えないもの」に
支えられて、特定の風景がいま眼前に広がっている。ここにメルローーポンティと
カントを繋ぐ線があるのではないか。カントの言う「経験を可能にする条件」とは、
「見えるもの」を見えるようにする「見えないもの」なのだ。フムフムいいそ、いいそ。
哲学者とは、夏の海岸でも、こういうことを絶えず考えているヘンな奴である。
メルローーポンテイは次のようにも言う。「哲学者とは、目覚めそして話す人間の
ことである」(『眼と精神』)。「目覚めている」とは、絶えず周囲世界を見ている
ということである。そして「話す」とは、それを絶えず言語化しているということ。
この条件さえ満たせば、誰でも哲学者になれる。というより、すでに哲学者である。
いや・もう一つの条件を加えておこう。どんな場合でも、周囲世界に埋没していない
こと。いかなる事件が起ころうが、適度な距離をもって冷静に世界を眺めていること、
つまり、「冷たい」厭な人間であること。プラトンは哲学の開始を「驚き」と言ったが、
ひとの驚くことを驚かず、人が驚かないことに驚くといい換えてもいい。
テロが起ころうが、いかなる残虐な事件が起ころうが、驚かないが(私は地下鉄
サロン事件にもアメリカの同時多発テロにも全然驚かなかった)、「見えることの」
の不思議さに警き、いつも「いま」であることの不思議さに驚く。
思うに・女性哲学者が皆無なのは、こうした「驚きのズレ」がないためかもしれない。
少なくとも、私は五十数年にわたる人生において、こういう驚きのメカニズムを有した
女性にお目にかかったことがない。勿論、不安定なあるいは病的な人はいくらでもいる。
しかし、一通り