つれづれに

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 昨日のシネマは、今日から始まる、
『インディペンデントディ』をみたいため、一日、順延。
スポーツジムが休日で、かつ雨もあって、終日、在宅。 
それにしても、ジメジメした天気である。




・・・・・・・
4497, 怒らないって本当は恐い! ー12
2013年07月09日(火)                      
   * 怒らない作法      『怒りの作法』小川仁志
 矛盾しているが、ここで「怒らないという方法」について言及している。
≪ 怒らなくても問題が解決する時に、あえて怒る必要がない。その場合、静観
する勇気も必要で、淡々と処理をする。相手が怒っている場合、特に注意すべき。
ネガティブの人、卑小な人を相手にすると、同じレベルまで落ちる危険がある。
 ニーチェは、他人の成功を妬んだり、自身の弱さを他人への復讐心に変えていく
ような人間を「ハエ」と表現、そこで「そんなハエを叩いて人生を過ごしては
いけない」と警鐘。もう一つ、人間が一人考え行動できることに限界がある。
そういう限界に謙虚になるのも必要なこと。怒って解決できる物事ばかりでない、
気が熟するの待つことも必要である。その間に、知恵を増やすか、仲間を増やし、
力を増やしてから、改めて怒れば良い。その意味で、信長型ではいけません。
待つという意味では秀吉型でも足りない、家康型でなければいけません。・・≫
▼ 一連の事業撤退のプロセスで、地方経済の惨状認識の実感と周囲の段差に
 驚き、怒りさえ感じた。商売柄、津波の到来が早い立ち位置にあっただけだが。 
ニーチェは「ハエ」と表現したが、私は「シラミ」である。そういう私もシラミ
だが、ただシラミを自覚している。いや自覚できないのがシラミだから? 
 私は?・・ だから、そろそろ気持ちに余裕が出来て、改めて見渡すと、
危険度が増しているのが分かる。民主党も酷いが、自民党も酷い。あの戦犯の
二人が首相と副首相になり、更に悪い間違いをしようとしている。その付けを
支払うのは国民である。その自民党に国民が多く支持いているのだから。 
確かに政治的にみて憲法改革は必要。甘い餌で釣ることもありだが。
 怒るには覚悟がいるが、怒らないことにも覚悟がいる。その場をともかく
遣り過し、タイムラグを置く。 そのため「シラミ」と頭の中で繰り返す。
これが一番、効果があるが、「三ヶ月に一度は、嫌なことはあるもの」と覚悟。
面白いもので慣れ。シラミ、ハエは事実は事実であると確信すると割り切れる。
「娑婆娑婆」である。その意味で、この経験は私の人生の物語にとって必然
だったことになる。 受け止め方の問題でしかないが・・

・・・・・・
4123, 予言の書「日本の自殺」 ー11
2012年07月09日(月)
  * 戦後民主主義の弊害
 アメリカに与えられた擬似民主主義を、現在でも大事に守っている府ぬけた
日本も、ここまでくると呆れ果ててしまう。まずは憲法改正と、原爆所持は最低
条件である。そして海洋国家として空母を7~8艘の配備をすべきである。
決して極右的発想でない。 中国と北朝鮮が隣接して隙を伺っている現実が、
その必要性を求めている。この国民では無理だろうが・・・
 ー次の箇所が正しく疑似民主主義の徴候を書き出している。
  所詮は、アメリカに充てがわれた民主主義国家。
【 平等主義のイデオロギーに限らず、「戦後民主主義」という名の疑似民主主義
 のイデオロギーは、すべて現代1975年時の日本の「自殺のイデオロギー」と
して機能している。それをわれわれが疑似民主主義と呼ぶ理由は、それが民主主義
本来のあり方とは似て非なるものだからである。それは混沌とした意識にとっては
確かに民主主義と大変類似したものに見えるかも知れないが、決定的に重要な
いくつかの本質点において、本来の民主主義とは明確に異質のものだからである。
 ~疑似民主主義は次のような幾つかの特徴を持っている。病理診断の言葉を使う
  ならば、これを疑似民主主義の徴候群と呼んでもよい。
* 疑似民主主義の第一徴候群は、その非科学的性格である。疑似民主主義は、
 イデオロギー上の独断的命題の無批判的受容から出発する。 
 そのドグマに従って行動するなら、必ずや全人類の解放が実現され、
 一切の社会問題が完全な解決をみるであろうと、そのイデオロギーは主張する。
 その命題は唯一、絶対的なものであり、完全で、誤りなきものである。
 問題の鍵は、どれだけ多くの大衆が、どれだけ強く、また熱烈にこの福音を
 信ずるかにかかっている。 「信ぜよ。さらば救われん」なのである。
* 疑似民主主義の第二徴候群は、その画一的、一元的、全体主義的性向である。
  多数決原理の誤った認識の仕方に端的に示されている。疑似民主主義は本来、
  多元主義のための一時的、かつ極めて限定された調整のための手段、便法として
  工夫された多数決を、一元主義、画一主義、全体主義のための武器に巧妙に転用
  するのである。 多様なものの見方の存在を否認する方向で作用することになる。
* 疑似民主主義の第三徴候群とは、権利の一面的強調の仕方にある。 
  疑似民主主義にとっては、義務も責任もどうでもよいことである。
  できるだけ権利、権利と主張し、取れるだけのものは取り、しかも
  義務と責任はできる限り拒絶する。
* 疑似民主主義の第四徴候群とは、批判と反対のみで、建設的な提案能力に
  著しく欠けるということである。個人や社会のアラ捜しをすることは、
  易しいが、問題解決の提案は骨の折れることであり、責任も生じる。
* 疑似民主主義の第五徴候群とは、エリート否定、大衆迎合的な性格である。
  真の民主主義はエリートやリーダーシップを否定するものでないばかりか、
  それに重い責任を課するものである。専門家を否定し、リーダーシップを
  否定するなら、その結果として、どうしようもない衆愚政治の泥沼に落ち
  込んでいくほかない。
* 疑似民主主義の第六徴候群とは、コスト的観点の欠如である。 
  疑似民主主義は、その権利主張の一面的性格、提案能力の欠如、
  大衆迎合主義などから、大衆の気に入りそうなことを並べたてるだけで、
  その制約条件を覆いかくそうとする。こうした偽善的なポーズで、大衆の
  人気取りをしている限り、国家は破産し、社会は滅亡するしかないのである。】
▼ 以上の懸念のとおり、これらの症候に冒された隠れ社会主義政党が与党に
 なった結果、収入の二倍の国家予算を組み、動きが取れない事態をつくっても
 平然としている。それも国民が擬似民主主義の徴候群におかされた結果だが、
 それにしても酷い。
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3757, 下流の宴
2011年07月09日(土)
 NHKで「下流の宴」という面白そうな連続ドラマをあったが、見るほどで
ないと見過ごしていた。しかし、先日の夕方に二回分の再放送を見て、そのシビア
の内容に苦笑してしまった。エリート・サラリーマンの母親(医者の娘)の息子が
中卒でフリーター。何とか受験校に心を入れ替えてチャレンジさせたいのに、その
彼女が、母親の目には下流家庭の娘。その娘に、「私は医者の娘、旦那も一流会社
勤め。貴女のような家庭とは身分が違うのです」と言い放つ。しかし、その旦那は、
リストラ対象で自分たちも下流に?なろうとしている、で・・・侮辱を受けた娘は、
「私が医大に入学すれば、結婚を許してくれますか?」というところで、終わった。
しかし、これはあくまでドラマでしかない。小中学校の基礎が出来てない人が、
猛勉強で今さら! が現実。私の一番上の姉が、その母親に考え方がそっくり。
婿取り娘で、長岡社交界が彼女の庭。彼女が意識している庭の住人は、上流だとは
当時も、現在も私には思えないから喜劇にしかみえない。もちろん、その人たちは
上・中流など全く意識にはない。自分のことを一番知っている? しかし学歴と
学力のない姉は付き合いを、その庭の人たちに絞り、見栄に全てを入れていた。
(字数の関係上カット、2012年07月09日)
 ・・・・・・・
3392, 911・考えない・日本人  ー8
2010年07月09日(金)
             「911・考えない・日本人 」林 秀彦 (著)
 著者の哲学についての解釈が書いてある。自身の言葉だから、納得する。
特に「哲学することの要点は、驚異と認識、懐疑と確実性、自己喪失と自己発見」
は、分かりやすい。  = 哲学とは =    (P-217)
* 科学のように進歩発展があるものではなく、その確実性を求める
 ものでもなく、人間が共に語り合って確認しあう過程のこと。
* 哲学とは、人間が「目覚める」ための試みである。
* どんな人間でも、自分が人間であることを意識し、自分の運命や
 経験を意識すれば、誰でも参加できるものが哲学。
* 哲学は、誰でも、人間である限り手にすることができるものである。
 ただし、他人に教えてもらって覚えるものではなく、
 自分自身でトライするものである。
* 哲学は真理を自分のものにすることが目的ではなく、
 それを求める過程のことである。
* 哲学は人間同士の交わりである。
* 哲学は自分が人間となるために現実と関係を持ち、その現実に集中すること。
* 哲学の根源は、人間が森羅万象に持つ驚きと疑いから発するものである。
 徹底的な疑いが心の中に起きていない限り、哲学することは不可能である。
* 哲学の起源はそれぞれの人間が、自分自身の弱さと無力さを認めることで
 あった。その自分のカの及ばないことを無関係だと思い、無関心に
 なるならば、人間は哲学を失い、非人間化する。
* 世界の存在は頼りないものであり、信じられないことに満ちている。
 それらに疑問を持ち、考えない限り人間は人間の価値を失う。
* 人間が人間同士助け合う動物だという考え方は欺瞞であり、常に人間は
 孤独であり、平和には常に限界がある。故にどんな場合でも人間は自分独りで
 自分にとって確実なことを見出さなければならない。それが哲学することである。
* 人間が自分の挫折をどのように経験するかということが、
 その人間を決定する要点
* その個人的な困難と困惑の中から、目標を探り出すことが哲学である。
* 哲学することの要点は、次のようものである。すなわち、驚異と認識、
 懐疑と確実性、自己喪失と自己発見。
  ~~
独りで血の滲むように考えてきたことが、上記のことから読み取れることが
出来る。多彩な経験と挫折が豊富?にあるからだ。人間は考えるからこそ、
人間の人間たる所以である。より多く世界を見て、より多く考え、
感動すること!それが哲学につながる。


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