つれづれに

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   今日のYoutube

 昨夜は、新潟で木鶏クラブの新年会。
久々もあってか、新潟ハイ! の状態。
最終新幹線に乗り遅れ、鈍行列車で帰ってきたが、
家に着いたのが、0時過ぎ。5時過ぎに起床。
随想日記を書あげた。 それでも眠気が全くない。



 
・・・・・・
2872, 貧困率 
2009年02月14日(土)
 最近になって、「貧困率」という言葉が話題になることが多い。
 -そこでウィキペディアで調べてみた
  貧困率は、「絶対的貧困率」と「相対的貧困率」とに大別される。
絶対的貧困率
 当該国や地域で生活していける最低水準を下回る収入しか得られない国民が
 全国民に占める割合の事。相対的貧困率よりも実状を反映しやすいという
 特徴があるが、逆に言えば、「生活していける水準」をどのように設定するか
 によってさまざまな基準があり、設定者の主観が入りやすいという危険を持つ。
相対的貧困率
 国民の経済格差を表す指標で、「年収が全国民の年収の中央値の半分に
 満たない国民の割合」の事。絶対的貧困率と違い数学的な指標なので主観が
 入りにくい。しかし絶対的貧困率と異なり国によって「貧困」のレベルが
 大きく異ってしまうという特徴を持つ。この為裕福な国Aにすむ人が
 相対的貧困率の意味で「貧困」であっても、貧しい国Bにすむ人々よりも
 ずっと豊かな暮らしをしている、という事もありうる。よって相対的貧困率
 「貧困率」という名前であるが、貧困を表す指標ととらえるよりも国民の経済
 格差を表す指標ととらえたほうが正しい。
 --以上だが、貧困率アメリカは17パーに次いで、日本は15パーの二位。
 アメリカでは黒人・ヒスパニック系が25~30パーセントに対して白人は10パー。
2000年には日米ともに13・5パーだったことから、その数字はジワジワと上がる。
社会保障の行き届いている北欧はわずか5~6パーからみれば、異常な数字。
現在の日本の平均収入が307万円だから、大よそ150万がラインだが、実際には
月15万×12ケ月=180万辺り。総中流時代という言葉が懐かしい時代になった。
ゆとり教育」の世代が社会の中核になってきたが、ますます貧富の差が大きく
なる要素が増えてしまった。 とはいえ社会主義政策の結果の総貧困社会も困る。
社会主義者は現在でも、やり方が間違っていただけと言ってはいるが・・
貧困の恐怖が人間のエネルギーの元になってきたが、それさえ感じられない世代
を「ゆとり教育」が作りあげてしまった。結果として、能力カースト制度を子供
時代から作り上げてしまった罪は大きい。国が衰える背景には、マイナスの
重なりがある。情報社会は、格差の実態をアカラサマに露出するから鬱積が
溜まり爆発するのである。自由主義の拡大は、結果として豊かになる自由もある
が、貧困になる自由もある。「自由、平等、博愛」は人類の永遠のテーマ。 
これも動物である限り共同幻想ということ?
・・・・・・・・・
2008年02月14日(木)
2507, 地頭が良い人      b(’0’)d おっ w(゚Д゚)w ハァ?
 私の知人に何人か、地頭の良い人がいる。本人も自身の地頭の良いことを
自認している。これは学歴の高低ではなく、彼は常に何かを目標を立てて、
ポイントを把握して、最重要順に実行する手順に入る習性が身についている。
人生の節目を知っており、その時節には自然と変身を始めている。こういう人は、
人の話を良く聞く。そして、その話(情報)を、己の言葉に置き換え行動の手順
に置き換える。小林秀雄の「無私の精神」という文章に行動家の精神パターンを
書いていた。行動家は無私の精神構造になっていて、全てを知った上で、己を
抑え目標を達成する。ある意味で、それをゲーム化をして楽しむことのできる人。
ところで、昨日の日経新聞の新聞広告に「地頭を鍛えるー問題解決に活かす
フェルミ推定』」-という本があった。気になったので、アマゾンで内容を
調べてみた。買うほどの内容ではないが、一応、概略を私なりにまとめてみた。
 ==
 地頭力とは「未知の領域で問題を解決していく能力の事で、環境変化が激しい
過去の経験が未来の成功を保証するとは限らない現在において重要な 能力と
定義される。まずは、IT化によって手軽な情報を安易に利用してコピーする
『コピペ族』が増加しているが、真に頭を使いこなす者は減少していると
前書きで述べている。地頭力の本質は、「結論から」「全体から」「単純に」
考える3つの思考力である。すなわち「結論から」考える仮説思考力、
「全体から」考えるフレームワーク思考力、「単純に」考える抽象化思考力だ。
地頭が良い人とは この3つの思考力は鍛えることができるものであり、地頭力
鍛える強力なツールとなるのが「フェルミ推定」である。「シカゴにピアノ調律師
は何人いるか?」。こうした荒唐無稽とも思える問いへの解答を導き出す考え方の
プロセスを問うのが、「フェルミ推定」だ。「フェルミ推定」と呼ばれるのは、
原子力の父」として知られ、ノーベル物理学賞受賞者でもある、エンリコ・
フェルミ(1901~1954)に由来する。本書では、「日本全国に電柱は何本あるか?」
といった例題やその解答例から「フェルミ推定」のプロセスを紹介しつつ、
「好奇心」「論理的思考力」「直感力」という地頭力のベースとそれらのベース
の上に重なる仮説思考力、フレームワーク思考力、抽象化思考力の3つの構成要素
とその鍛え方を解説している。」未知のテーマに向かうとき圧倒的に効率よく
対処する方法、思考力を 鍛えるための方法、仕事のアウトプットを増やす方法
として大変参考 になる。特に「完璧主義」的傾向のある人はこういう現実的な
やり方 もあるのだということをインプットしておくことはきっと自分の能力
をさらに高めるきっかけとなるのではないかと。地頭力とは「未知の領域で問題
を解決していく能力の事で、環境変化が激しい過去の経験が未来の成功を保証する
とは限らない現在において重要な 能力と定義される。「フェルミ推定」とは 
把握する事が難しく、ある意味荒唐無稽ともいえる 数量について何らかの
推定ロジックによって短時間で概数を求める方法です。
(字数の関係でカット2012年02月14日)

・・・・・・
2143, さおだけ屋はなぜ潰れないのか?
2007年02月14日(水)
  オッ(*^○^*)ハ~ヨウサン!
  
     いつも本屋の平台にあったが、初心者用の会計本と何度か手にとってみたが、
    それ以上には興味の無い本だった。
    ところが図書館でこの本を見つけたので早速借りてきて目をとおした。
    月に一度は土日に『毎度お騒がせのチリ紙交換です』という替わりに
   『さおやー、さおだけー、たけやーさおだけ、二本で1000円のサオです。』
    とあいも変わらず聞こえてくる声がある。
    何をしているのだろうか?と誰もが思うのが当然である。

 この種明かしは簡単である。
金物屋が、副業で暇な時間を見つけてテリトリーの中を、在庫原価をゼロに落とした
サオをアタカも専門店のようにしてマイクで走るのである。
そのサオ屋は情報収集をしているのである。
『二本で1000円の物もいいけど、オススメはこの一本5000円のさおだけだよ』
『これだけだったら、お子さんや孫の代まで長持ちするからお徳だよ」
『2本だったら8000円にしとくよ』というので、ついつい高級なサオだけを
一本買ってしまう。ひっかかってしまったのである。

     しかし、まだまだある。その干し物台の土台とか、
    他の何か相手の需要を探してセールスをするのである。
    土台の作り直しとか、他のその家の修繕を見つけだすのである。
    そこで、修理関係のパンフレットとか、金物の売込みをすればよい。
    体のよい販促の手段として、その家の情報収集とし営業活動である。
    この中には悪質なものがあるが、普通は営業活動の一手段として
    割り切っているケースが多いという。
    --
    
 なるほど、そう言われてみるとあの「さおだけ屋」のかけ声の裏に
多くの意味があるということ。
ただ、会計屋がこれから面白おかしく本として売るのだから、
そのベースの商売の基本に適応していなければならない。
原価ゼロの商品を、副業としての営業活動だから経費もゼロというのがミソである。
売り上げ原価も、経費もゼロの世界であるが、所詮は個人商店の生業レベルでしかない。

 会計系は、ただ『ケチ』であることが最も合理的として錯覚してしまう欠点があるが。
この本の中で、同じような事例として、上流住宅街中のフランス料理店をあげている。
住宅内にある高価なフランス料理店はミスマッチのようにみえる。
しかし自分の住宅兼用にすれば経費が掛からないし、14時から17時まで
「フランス料理教室」を開いて昼間の空き時間を利用している。
まあサオダケ屋の商売に酷似している・・・

     シンプルに会計の本質をついていることも事実である。
    だから、何度も耳にしている最後の「ことわざ会計学」の言葉を、
    改めて噛みなおして見る必要がある。

会計学のいう次の諺の解釈が味があるー

・「ない袖は振れない」
 ーどんな素晴らしいビジネスモデルがあっても、立ち上げ費用がなければ
 何も出来ない!かい(解説するとーお金は最大の手段である、その手段もない
 理屈はこと事業では屁理屈でしかない)
・「とらぬ狸の皮算用
 ー実際に売り出してみなければ、実際のところどうなるかわからない。
 売り上げ個数は実際に事前にはわからないが、売り上げ単価は事前には設定できる。
 つまり「とらぬ狸の皮算用」というが、会計上はまったくの空想とは言い切れない。
・「時は金なり」「一刻千金」
 ー時間が経つにつれて金利が掛かってくる。
・「貧すれば鈍する」
 ー業績が悪くなると思い切った投資ができなくなるので、
 どうしても、世間のスピードから取り残されてしまう。
・「貧乏暇なし」
・「金持ち喧嘩せず」
 ー金持ちは経済合理性より、つまらない喧嘩をしない。
・「安物買の銭失い」
 ー安くて駄目な商品を仕入れると、売れ残ってしまい在庫処分になってしまう。
  それにかかわるエネルギーを使ってしまう。
・「勘定たって銭足らず」
 ー「利益が出ても、現金がない」は、どの世界でも同じ現象である。
  銭は何時も充分に余裕を持つこと。
  
   ホンジャ  ヾ(*´▽`)ノ=з=з=з  バイバイ!
ーーーーーーー
2006年02月14日(火)
1778, ライブドア問題の深層
    b(’0’)d おっ  w(゚Д゚)w ハァよー

ライブドアの株価が、昨日91円から60円に暴落、絶望的な株価になってしまった。
毎日新聞の数日前の「記者の目 」ー「プロの金融犯罪」の印象ー
 の、ライブドアに対する記事が鋭い。

    ・何故いきなり東京地検特捜が、金融庁や証券取引委員会の告発の手順を
      踏まずにストレートに踏み込んだのか、という経済関係者の疑問と
    ・資金洗浄をしなければならない理由は?
    ・そして役員が何故、自殺をしなければならなかったのか?
    等々。
 今朝、毎日新聞に載っていた自殺した野口取締役の自宅から
 発見された構造的犯罪システムとしてのチャート図からみても     
  ITという名の隠れ蓑の下に
 「もともと悪質のプロの金融犯罪集団(ライブドア)が
  金融機関と組んでおこなった可能性」である。
 
 たまたま、やり過ぎたのではなく
 もとともプロの犯罪集団だった?のではないか
 という疑問である。
 そういう眼でみれば、この一連の不可解な 強圧的な日本放送の乗っ取り劇や、
 資金洗浄、役員の自殺、そして特捜の直接的な動きが見えてくる。
      背後にあるのはユダヤ資本か、
     あの穢れた関西系の??か、
     それとも・・・
             アーへ(´д`へ)(ノ´д`)ノ
 ーその毎日新聞の記事
      「記者の目 」とはー
 
 ライブドア堀江貴文容疑者について、
法律違反を犯したことは責められるべきだが、
彼が果たした功績については評価すべきものもあるのではないか、
という議論がある。
確かに、フジテレビとのニッポン放送買収合戦を通じて多くの企業は
敵対的買収のリスクを認識するようになった。

また、配当の引き上げなど株主の利益についても真剣に考えるようになった。
若者が感じていた、大人たちが支配する社会への閉塞(へいそく)感を打ち破った
そう快感もあるかもしれない。
 しかし、「風説の流布」や粉飾決算は明らかな犯罪だ。
また、事件の展開を見ていると、そうした犯罪さえ超える何かを感じる。
 
ライブドア事件に関して、海外の投資会社や金融機関の利用、
タックスヘイブン租税回避地)を所在地とする口座の存在などが
明らかになってきた。
そうなると、この事件はそう単純なものではないのではないか、
という疑問がわいてくるのだ。
 
というのは、こうした手口は、脱税した金を洗浄した上で国内に還流させたり、
違法行為で手に入れた金を合法的に手に入れたように見せかける、
いわゆるマネーロンダリング資金洗浄)の際に多用される手口だからだ。
 もし、資金洗浄が行われていたとすると、さまざまな疑問が生まれてくる。
まず、洗浄しなければならないお金の素性は何なのか。
そんなお金を、ライブドアはなぜ、どれだけ持っていたのか。
 
また、資金洗浄には高度の金融知識が必要である。
とても、やんちゃな若者のなし得る行為ではない。
金融のプロとしての知識と、それに協力する金融機関の存在が欠かせない。
 堀江容疑者らは一体どこで、それだけの金融知識と金融実務を習得したのか。
資金洗浄に協力した金融機関とはどこなのか。
その金融機関は、資金洗浄であることを承知の上で協力したのか、
それとも利用されただけなのか。
 
また、複雑な資金洗浄の工程を設計したのは誰なのか。
洗浄した上で国内に還流された資金は、誰の手に入ったのか。
また、どのように使われたのか。
 資金洗浄する前のお金と洗浄された後のお金は、
ライブドアの財務諸表の中で、どのように扱われていたのか。
脱税の可能性はないのか。
 
思いつくだけでも、そうした疑問がわいてくる。
そしてそこから浮かび上がるイメージは、
内外のプロが協力しあった金融犯罪である。 
         ~~旦_(^O^ )まあ、コーヒーでも
毎日新聞
2006年02月10日付
  βyё βyё...φ(´д`

・・・・・・・
2005年02月14日(月)
1413, スペインについてー2
ー闘牛の話

闘牛について何回か断片的に感想を書いてきたが、
もう少し詳しく闘牛について書いてみる。
三回行ったスペイン旅行のうち、二回見ている。

マドリッドで初めて見た闘牛には、大きな衝撃を受けた。
帰りは下を向いて黙って帰ってきた。 とにかく残酷なのだ。
その日、一人の闘牛士が牛に突き殺されてしまった。
牛の角に刺されて空中に放り出され、会場が異常にどよめいた。
こういう場合殆ど、闘牛士は亡くなるという。
死ぬと、闘牛の世界では大ニュースになる。
現地のガイドが興奮をして、
「こういう場面に出くわしたことは、不謹慎だが、非常に幸運です」と言っていた。

二回目に見た、パンプローナ牛追い祭りの最終日の闘牛が面白かった。
牛追いは、その夜の闘牛の牛を早朝街を追い上げる時に、
男達がその前を走って勇気を競うことから始った。
またヘミングウエーの小説の舞台にもなって、世界的に知られるようになった。
延々と続いたパンプローナの最終日、興奮は最高潮に達して、
スペイン中がこの闘牛に注目する。
二回目となると、初めと違って冷静に見ることができる。

闘牛は、闘牛士と人間の殺し合いである。
生と死のギリギリのドラマが演じられる。
興奮した牛の登場から、熱狂的な闘いの後、死体になって数頭の牛に
引きずられながら葬送のラッパと供に消えていくまでの全てを見るからこそ良い。

アンフェアなのは、牛に何回か槍を刺して弱らせてから、闘牛士と闘うことだ。
そのままで闘うと闘牛士が殺されるケースが多いからだ。
初めてみた時には、アンフェアと腹が立った。
が、二回目から「こんなものだろう」と楽しむことにした。
一晩、2時間以上かけて、前座から横綱クラスまで、
三人の闘牛士と六頭の闘牛の闘いがある。
闘牛士にもランクがあって、その実力は見ていても解る。

牛にも実力があり、闘牛用の牧場で人間に触れないようにして、野性味を残してある。
とにかく逆三角形で大きく格好がよいのだ。また闘っている姿は、勇者そのものである。
気の強い奴、弱いくて逃げ回る奴、性格のクセのある奴、それぞれ違っている。
闘牛士も同じだ。 気の弱い牛は途中でも退場させることがある。

相撲は僅か数秒の勝負に気を入れた仕切りを長々し、だんだん気合を入れていく。
そして立ちあいの駆け引きの後に勝敗が決する。
最後に負けた力士が、肩を落として帰る場面までのフルコースで成り立っている。
ダイジェストで勝負の一瞬を見ても何も面白くはない。  闘牛も同じである。

地元の観客を見ていると、この殺戮をサンドイッチを食べながら家族連れで見ている。
最後に死んだ牛を、ラッパによる葬送と供にヒモを付けた虚勢した牛が引きづって
退場するのだ。そして、帰りに解体された牛肉が売店で売られている。

西欧文化東洋文化は基本から全く違う。
長岡近郊の山古志村の「闘牛」は、牛同士の押し合いでしかない。
中世にスペインが南米を占領したのも当然である。
今の、イラクとか、アフガンも同じ構図である。

アルカイダの立場も解らないではない。
今の日本は、この闘牛の牛でしかないのだろう?  少し飛躍をしたが。

とにかくスペインは、情熱と死と愛が、入り混じった文化が露出している。
芸術、建物、踊り、そして、闘牛。
以前書いた、  「スペインについて」をコピーをしておきます。
 
・・・・・・・
2004年02月14日(土)
1046, ノンアルコールに切り替えて

ノンアルコールビールに切り替えて10日ほど経つ。
アルコール度は0.5?ほどで、普通のビールの10分の一程度だ。
500mmのビールを、350mmのノンアルコールしたのだから体調はよい。
紹興酒一合位を今でも飲んでいるので、一晩のアルコール量はオオヨソ
半分になったことになる。

今のノンアルコールは一度ビールを造った後に、アルコールを抜く製法を
とっているためか以前のような不味さはない。
面白いもので慣れてくると、こんなものかと気にならないし普通のビールを
飲みたいとも思わなくなった。
その代わり週に一度外で飲むビールが、ことさら美味しい。

別に体調を壊したとか、糖尿病とかの対策でない。
知人が自宅での晩酌をノンアルコールに切り替えたと聞いて、
試してみただけだ。年齢からみて丁度よいタイミングということもある。
何時でも飲めるという気楽さと、駄目だったら元に戻せばよいという
余裕があったためか、スンナリとチェンジできた。

ノンアルコールに切り替えてから、2回外で飲んだ。
ビールは殊更美味しかったが、普段の外での酒量の半分?しか飲まなかった。
これが思わない収穫であった。
家での酒量を半分にすると、外の酒量が反比例でなく正比例することが解った。
身体が受けつけなくなってくるのだろう。

40歳の記念に断酒をして、1年近くで挫折をした経験がある。
今から考えてみると、断酒でなく酒量を半分にする工夫をすべきであった。
それでも10年前から、自宅ではビールと紹興酒だけしか飲まないとか、
外での一人酒はしないとか、自分からは誘わないとかの工夫はしていたが。

日本ではアルコール依存症は7人に一人だという。
本屋の立ち読みだが、チェックリストをみて私はアルコール依存症ではない。
しかし酒癖が悪いことは間違いはない。
「私から酒をとったらクソ真面目な面白くない男が残るだけだ」
と勝手な理屈をつけているが、酒飲みの動機は大体こんなものだろう。

いずれにしても適量以上の酒は最大の害悪である。

適量以上の酒の味も、「たま」にはいいものだ。
            注[たまー魂、霊、珠、田間]

・・・・・・・
2003年02月14日(金)
681,「まれに見るバカ」ー 読書日記 ー1

「ぶざまな人生」が面白かったので、同じ著者のこの本をインターネット
で取り寄せた。とにかくスッキリする!
「わが内なる馬鹿」というところか。
わたしも辛辣だが、ここまでひどくはない!
読んでいて私など可愛いものだと思ってしまう本である。
こんな本を書いてみたいものだが、無理だ。
下手な書評などより「まえがき」と「あとがき」を抜粋した。

ー表紙裏ー
人の世に一定程度のバカがいるのは常識である。
「浜の真砂はつきぬとも、世にバカの種はつきまじ」と。しかし、そうは知りつつも、
平成の世にわが日本につぎつぎとバカが異常発生している驚くべき事態をいったいどう
考えればいいのか。性別も年齢も、収入も地位も関係がない。
さらには有名人・無名人も問わない。
なぜ、こうした事態がこの国に出現したのか?「バカ」の生態と由来とその現状を
あますところなく伝え、読む人に不思議なことに、生きる勇気が湧いてくる「当世バカ」
生態図巻。

・・・・・・・
2002年02月14日(木)
331,、お見舞いの手紙-堀井正子さんへ

お見舞い申し上げます。
どう見舞ったらよいか?私の仕方で最善と考えてこの本
フランクルの<生きる意味について>)を贈ります。
非常に深い内容のある本です。
今度の貴女の病、あなた自身にコペルニクス的大転換
(人生に何を要求するかより、人生そのものが貴方になにを求めるか?)
の問いの大転換のチャンスです。
この本を読んでいるうちに、何かが見えてくるのではないでしょうか。
<過去の総てを肯定し、容認すべし>

父が死を目前にした時「もう一度、同じ人生を・・」と言っていました。
これは非常に深い言葉だったと思います。
それも知識より触発された言葉でなく「苦しみの底より掴んだ言葉」
だからこそ父のこの言葉を素晴らしいと思います。

貴女の場合
「池津屋とともに生き、そしてそこを去り倒産、そして音楽の先生
という人生」はそのまま安穏とした人生より、はるかによかったという見方です。
自分の人生の総てを肯定する見方です。

この数年父の心境が判りかけています。
「社会的自分を一度すてて、真なる自分」を今一度じっくり見つめ直す時期です。
「過去の総てを肯定する視点をもつべし」これは私が言った言葉でなく
フランクルがいっている言葉です。
神が一日だけ、この世の中にある人を呼び戻したそうです。
総てが光輝いて見えたそうです。

娑婆の人間に「何故それが見えないのか?」
「どうでもよいこと、娑婆の表象」に流されているからだと思います。
そのゴミの中で生きているからです。
それを餌の種にしているからです。
  これを機会に真実に生きてください!
    ご自愛のほど!   ー魂の言葉ー
 2000年11月30日 ー 八郎
・・・・・・・・・

2月14日 金曜日  1969年

10時起床。
17時に、池袋の松山寿司で行われるゼミの「我々の追い出しコンパ」に
出席をする。和やかな時間を過ごすが、石川と雲行きが怪しくなった。
同期の田島も出席をしていた。
卒論を出せなかったのでやめたといっていたが、やはり寂しそうな顔をして
いた。武澤先生と話をしながら泣いていたようだ。

私も気が緩んだのか、好き放題のことを先生に言ってしまった。
そんなことを言えた柄でもないのに。
先生の最後の贈る歌が感動的であった。
三年生からの贈り物で電気スタンドをもらう。

武澤ゼミに入って本当によかった。 自己疎外に陥り、反発も感じ、苦しんだ。
しかし、それもゼミに対する私自身の能力不足が原因である。
これだけの思い出を、このゼミに入ったおかげで得ることができたのは
青春の財産になる。 本当によかった!

その後、2次会で私が幹事をする。
そこで先生の前に座り込んでクダをまく。
先生に見得を切ったのだ。 バカもいいところだ。

最後の最後、石川と殴り合いをしてしまった。
どういうことか、過去に一度も乱れたことのない自分が
今日は本当におかしい!