つれづれに

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  今日のYoutube

 今週も、葬式が一つあったが、すでに週末。本当に早いもの。
パリで ISによる大規模なテロがあった。これでシリア難民も欧州でも
歓迎されない難民のレッテルがはられ、冬に向かって厳しいだろう。 
 それにしても、『アッラーの神』とは何だろう。 ラージXたる大自然の共同
権化だろう。共同幻想を、そのま信じるのも幸せといえば幸せのだろうか。


・・・・・・
2786, 人生ゲームを楽しまむため、生まれけん!
2008年11月20日(木)
 ー次は、ある雑誌(文藝春秋)の中にあった、角川春樹の文章であるー

【 私は平成五年八月二十八日、麻薬取締法違反で逮捕され、ニ年五ヶ月、
干葉拘置所に拘束されていた。その間、私を悩ませた課題は、「自分は何故生まれ、
何処へ還るのか」という古代ギリシャ以来の疑問であった。
ある時、一冊の本が差し入れられた。立花隆の『宇宙からの帰還』である。
その中で私を惑動させたのは、宇宙飛行士のエド・ミッチェルの、次の発言。
〈 すべての存在がそれぞれにその役割を担っているある神的なプランがある。
そのプランは生命の進化である。個別的生命は全体の部分である。
個別的生命が部分をなしている全体がある。すべては一体である。
この全体の中で、人間は神と一体だ。宇宙は創造的進化の過程にある(略)。〉
彼の言葉が、完壁に理解できたのは、平成十年の大晦日である。朝から二度倒れ、
四度嘔吐した。その時、突然、次の唱句が天から降りてきた。 
年ゆくや天につながるいのちの緒   春樹
この瞬間、あらゆる生命が宇宙意識と繋がっていること、宇宙は一つである
ことを直感したのだ。エド・ミッチェルが宇宙で体験したことを、私は地上で
体験したのである。そして平成十六年九月一日、私は静岡刑務所の独房の中で、
自分の意識が宇宙の果てまで辿り着いた時、逮捕されて以来の長い間の疑問が
あっけなく感受できた。 答えは、人間は人生ゲームを楽しむために地球に
生まれて来た、ということだった。】
--
 人生のゲーム化については、ここで何回か書いているが、彼が他の人と違う
ところは、そのコンセプトのもとに雑誌を刊行したことと、刑務所の中で、
絶望の底で、実感として掴み取ったことである。‘ゲームとは、到達地点を
決めて、その間に障害を置いて、如何に効率よく到達するかを競う遊び’である。
人生ゲームの醍醐味は、死の完成までの障害を乗越えるプロセスを如何に楽しみ、
味わうかにある。それも命がけに取り組むほど、ゲームが面白くなるのである。
 【 父母に 呼ばれてこの世の 客となり用が済んだら はいさようなら 】
という一休の詩がある。せっかく、客として呼ばれたからには、この世の
人生ゲームを充分楽しまなければ、生まれてきた甲斐がないじゃないか! 
ということだ。 そうこう考えると幸せの4階建ての4Fが、克服できない
苦難や悲しみ、というのが少しは分かるが。
 4階:克服できない苦難や悲しみの中に、幸福がある。
 3階:苦難や悲しみを経験し、それを克服する。
 2階:獲得した「快」を永続させる。
 1階:人間の本能的な「快」(恋、富、名誉など)を得て、増やす。
人生ゲームは、このビルの中で遊ぶようなものである。
何か際どい話になってきたが。

・・・・・・・・
2007年11月20日(火) 2421, 閑話小題
                  ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…
 *携帯電話・パソコンが変えたこと
最近、携帯電話などの情報機器が身近の景色を変えてしまった。
まずは駅の見送りである。 数年ほど前から、ほぼ見かけなくなった。
見送った直後の車内でも携帯電話で連絡とれるから、別れの情緒が
なくなってしまった。 解りやすい例をとして、会いたいが会えないという
寂しさと性欲を起因とするイメージのダンスの恋愛は、H系のサイトを
見ればそんなイメージも情緒も起きにくくなる。いや、更に肥大するか?! 
情報化は情報の希少が与えるイメージの誤解のプラス面を減少してしまった。 
エジプト女王のクレオパトラは男を狂わすイメージの演出が絶大で、実際
は大した美人ではなかったという。「誤解で結婚して、理解して離婚する」
のが世間一般の成り立ちである。それも、結婚して初めて気づくこと。
そして一生をお互いに忍耐をして過ごすか離婚。
「愛することは耐えること」とはよくいったものだ!
 --
 *写真集が良くなっている
前のテーマと関連した話になるが、最近の「写真集」が良くなっている。
書店の写真コーナーでは、時間を忘れてしまうほどである。
旅行に行った先の写真が、あまりにも綺麗に撮れていてドッキとする。
それが次から次へと出てくるから驚きである。それも最近は、どうぞ
座って見てください!と椅子まで置いてある。現場に行っているから感激が
倍増するのだろうが、天候や見る角度などで違って見えてくる。
カメラが人間の視覚より機能が上ということもある。
これも情報化の一つである。
 ーー
 *閑散の会場の大相撲本場所
大相撲の九州場所をTVで見ると、初日三~四割、平日には二割しか入っていない。
相撲関係者の宿泊や、夜の世界人たちや、タニマチだけでも年一回の本墓所
もっと入ってよいはずだが。相撲などは会場などの熱気を差し引いても、家で
大型TVで観るのも同じレベル?か、それ以上になってしまったことも
ある。 それと格闘技のアナザー・ワンになったこともある。
こんどのリンチ殺人事件と、朝青龍の問題も大きな要因だろう。
それよりも来年の初場所、皇室が観戦に来るかどうかの方が興味がある。
                  ホナナァ☆ |∀・`@)ノ|Ю
・・・・・・・・
2006年11月20日(月)
2057, あたりまえなことばかり -11
  オッ(*^○^*)ハ~ヨウサン! -読書日記

「死と生」は、考えるほど不思議で尽きない。この無限の宇宙の中で、何で
此処に自分が存在しているのだろう。60年生きてきたが、「自分にとって死はない」
というし、永遠は「いま、ここ」にしかないというし、人間しか持ち得ない「観念」
によって、動物のように十全に生きられないというし、人間しか持ち得ない精神の
思考によって、生物体としての死の恐怖を看破し得るという。
先入観ー馬鹿の壁ーがビッシリと脳にこびり付いていた自分の人生に、ここで
気づいている愚かさ! そして、周囲を見て、まあいいか、と思っている愚かさ!
自分にとっての時間は生まれ死ぬまでの時間ではない。
永遠は、「いま、ここ」に、垂直に、立ち上がる! なるほど、その通りである。
我を忘れるほどの感動の、あの瞬間!縦に立ち上がっていた!永遠に今も続いている。

 薬物でもできそうだが・・・
それは、末期の時の一服の楽しみとして、とっておこう!
        **** Ψ( `▽´ )Ψ ケケケケ♪
ーー
 *死ぬことは不幸なことか  -?

人間のみが自殺する生物であるのは、人間においてのみ、死が観念として
対象化されているという事実を端的に示している。 観念でない現実の死。
とは、どういうことなのか。多くの人が、人間は死に向かう存在なのだと長く
教えられてきた我われが、そのまま長く思い込んできた、未だ気づかない
間違いが、ここにある。考えてみれば、観念でない現実の死を考えるとする
正にそのことによって、死は常に観念となるという事実。観念でない現実
の死など、観念としてしか存在しない。
しかし人は死ぬではないか、と人はいう。確かに現実に人は死ぬ。
死ぬのは常に他人であるという事実について考えてみる。
他人の死は自分の死ではない、そこにも自分の死は、存在してない。
人は、他人が死ぬのを見て、死を観念として対象化し、それを自分に類推して、
自分の死が現実に存在すると、思い込んでいるに過ぎない。ここでもあくまで
観念でしかない。 笑うべきことだが、自分の死を考えようとして与えられて
いる思考の真空、自分がいないとということを、考えている当の自分に、
どうして考えることができるのだろうか!かくして、哲学が誕生することになる。

 精神は思考することによって、生物体としての死の恐怖、その錯覚を看破し
得る、だから、考えることこそが、善く生きるということなのだ。おそらく、
生物に存在するのは生存本能であって、死の恐怖ではない。生きようとする
ために死を避けるのであって、死を避けるために生きているわけではない。
人間という生物においてのみそこが転倒しているのは、自ら課した観念による
錯覚のためで、人間は動物のように、十全には生きてはいない。それ自体で
転倒している死への恐怖を逆手に取り、再び大きく転倒させるものが宗教である。
あるいは、宗教は考えられないものとしての自分の死、思考の真空地帯のそこに、
「死後」の絵を画く。あたかもそれが、生の続きのように。

しかし、「生の続き」としての「死後」とは、どのようなことでありえようか。
自分の死が観念としかあり得ないのだから、その「死後」というのも、文字通り
観念としかあり得ないのは自明なことだ。死が観念なら死後も観念である。
ふと気づけば当たり前のことである。 人が死と対になった「死後」という
観念から離れられないのは、真空への恐怖だけでなく、時間の一直線に前方に
流れるものという時間認識の錯誤にもよるのではなかろうか。
時間は一直線に前方に流れるという人々の表象の原型となっているのは、
人は誕生から死へと向かう存在であるという人生の表象である。
人は、物理的肉体として生まれ、育ち、次第に老いて、次に死ぬ。時間は、
そのような物理的現在、物理的瞬間の重なりとして表象されているのである。

 しかし、この時間表象によっては、決して表象されないときがある。
それが、それらを表象している正にこの現在、時間は一直線に前方に流れる
ものだと表象しているこの瞬間である。「瞬間」など、どこにもない。
捉えられるものではない。なぜなら物質ではないからだ。すると時間を物質
によって表象し、肉体の生死に等しく一直線に前方へ流れるものとのみ思う
のは、誤りであることになる。これは、自分の死はあり得ないという例の事実
を裏から支持する。物理的時間のうちに存在しない自分とは、物理的肉体ではない。
   すなわち、自分は生きて死ぬこの肉体ではないということに他ならないから。

死なない存在に死後はない。宗教が「死後」に言及することによって多く誤るのは、
あたかもそれが時間的前後であるように聞こえてしまうことによる。
「死後、永遠の生命を得る」。しかし、「永遠」とは「死なない」ということ
以外のいかなる意味であり得ようか。 永遠が死後にあるとは、既に破綻している。
我われの言語の構造が、物理的時間とは異なる時間のありように言及することを
拒んでいる。宗教が誤るのは、一直線に前方に流れ、死へ崩落していくと思われて
いるこの人生に、「意味」を語ろうとしているところにあるだろう。
--
 自分は生きて死ぬこの肉体ではない、というが・・・まあ、わからないで
よいが、しかし考え続ける必要はある。 それしかないのだろう。   
                     (*^ワ^*)i バイバイ
・・・・・・・・
2005年11月20日(日)
1692, 二つのトッテ

「ものごとにはすべて、二つのトッテがある」という諺がよい。
                        (人`∀´)ィヒッ♪
 何ごとも両面がある(今さらだが、例えとして判りやすい)+面の取っ手を掴む
癖をつけるかどうかで人生変わってくる。私のみるところ、意識をしてプラスを
掴むようにしている人は1割も満たない。平気でマイナスの取っ手を掴んでいる人
をみると、その異様さに唖然とする。 家内にいわせると、おばさん系の地味な
服装の人に多いという。話題に暗い話をするのが恒例になっていて、マイナスの
話に快感を覚えているという。  
           ン・・ ヘロヘロ α~(´`d)ぱぁぁんちぃ   
「この人!マイナスのトッテを意識的に掴んでいるのではないか?」と確信して
しまう人が多い。 他人事ではないか? 弱者ほど、その傾向が強い。必ず対象の
マイナスに気持ちがいっている反面「このプラスに隠れているマイナス面は何だろうか」
 を何度か自問しないと、とんでもない落とし穴にはまる危険があることも確かだが。
 (゜o゜(○==⊂(゜(工)゜ )⊃o  クマストレートォ
「良い言葉は、良い人生に導く」結局、上手くいってない人生の人は、内語に
知らないうちにマイナストッテー言葉をつかっている。
  baka!( ^ω^)ノビュゥゥゥゥ  ξξ ((((o+ω+)o ヒィ
運命は我われに条件を与えているが、それをどう使うかで幸・不幸が分かれてくる。
             トルネード!( ^ω^)ノ シタネ~   
 
 ・・・・・・・ 
 2004年11月20日(土)
 1327, まさか、地元で大地震が!ー14

今回の損害は、おおよそ3兆円と発表された。
・インフラー高速道路、山間部の斜面などで、一兆二千億
・民間家屋、7000億
・商工関係、3000億
・他    8000億 という。
阪神大震災兵庫県だけで9兆9000億というから、その三分の一の損害規模。
阪神大震災が都市型であるのに対して、中越地震は山間型地震の典型だ。
損壊した家屋が4万8千戸。そのうち全壊とほぼ全壊で2300戸という。 現時点で、
解雇が50社で420人。この地震での事業への影響は、目先プラスであるが、当面の
復興の為の応援が収まったときのことを考えると背筋が寒くなる。長期的にみたら、
この大震災は新潟県にとって大きなマイナスである。目先の資金の確保は非常に
楽になるが、消費マインドが冷え込む。ことの深刻さは、日が経つにつれて深く
なってくる。本当の問題が出てくるのは、これからである。
ただ年内に新幹線が全面開通の見通しが経ったのが救いである。

・・・・・・・
2003年11月20日(木)
960, バードウオッチングの面々-3
字数の関係でカット(2007年11月19日)

・・・・・・・・
586, 不気味
- 2002年11月20日(水)

株が連日底割れをしている。 日経平均8千円割れも目前になってきた。
さらに悪いのは銀行株の連日の下げである。UFJみずほ銀行が50円額面
で100円を割ってしまった。UFJが年内、みずほが来年そうそう国家管理
になるという噂も、現実味をおびてきた。昨日一日早く週刊朝日が手に入り、
木村毅の銀行トップ批判の記事を読んだ。日本経済の実情は一般のマスコミが
言っている以上に悲惨だ。団塊年代の世代交代期と情報化による時代の変化が
重なっている。これが今の日本の悲劇的のところだ。先日もその世代の宿泊客
の自殺未遂が自社ホテルであった。しかし不良会社の清算はしなくてはならない。
イラク戦争のドサクサでやってしまうのが政府の狙いだろう。次の朝鮮戦争
が控えているから、やはり先倒しで?整理はしておいた方が良い。
イヤやるべきだ!装置産業の当事者として他人事ではない。 悲壮な話しだが
暴風は覚悟はしなくてはならない。今までが良い時代だったと割切った方が良い。
実際のところ来年は想像するのも恐ろしい。事業も社会情勢も。

ーーーーーーー
「233]」イチロウ
- 2001年11月20日(火)

「今の天才と言われる新人類は,皆コンピューター付きマシーンを使っている」
とメケメケの美輪?が言っていた。バッテングマシーンに,何か工夫をしている
のではないかとは思っていた。それが昨日のBSNHKのイチロウ特集で、
その秘密の一部を知る事が出来た。それは何か!「テニスボールを投げ込む
マシーン」であった。それで230?のテニスボールを投げ込み、スピードに
対し目を作ることと、反射の訓練をしていたのだ。これが彼の秘密のかなり
本質の部分と直感した。スピードに目を慣らすのだ。実際に球がきた時に、
緩く見えるまで訓練するのである。そこに赤と黒で数字が書いてあった。 
それが見えるまで訓練するのだろう。バッテングと守備の捕球に対して、
球の見極めができるよう訓練をしていた。子供の時から、そのマシーンを使って
いたのではなかろうか。脳と身体のサイボーグ化をしていたのだ。
脳作業もしっかりしていた。もちろんそれだけでは、あれだけのプレーは
できない!その上に努力を人一倍重ねたのだろう。
努力は誰もできる、ようはその方法を如何見つけるかだ。
イチロウは自分の練習を人に見られるのを極端に嫌っていた。他にも
彼なりの科学的方法を積み重ねていたのだろう。3年前に森監督の講演を
聞いた時「イチロウは王・長島とは格違いのレベル」と言っていた。
そのとうりになってきた。

・・・・・・・・ 
ある時間の断片
ー1968年11月20日(水曜日)

11時過ぎ起床。 14時に市川さんがくる、休みのようだ。 
彼は早稲田を卒業をして、この春より医薬品メーカーに勤めている。
MEという職種で、医者病院まわりが仕事だという。この8ヶ月でまるで人が
変わってしまった。お医者さんのオモリだそうだ。勤めると彼のようになる
と思うと複雑な気持である。すごく自分と性格が合うが、理工系で生真面目
な人である。その後、風呂に行き、Tvを見て食事をしたりしてすごす。
22時から夜半の2時まで卒論のまとめをする。もう市川さんのように社会に
出なくてはならないのだ。最後の学生生活をもっと有意義に過ごさなくては
ならない。いい加減な生活だ。あと4ヶ月でジャスコオカダヤに就職だ。
三重の四日市に行く事になるだろう。