つれづれに

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昨日は、シネマで、『ミケランジェロ』をみてきた。
内容は、ナチに奪われ隠された美術品を取り返す筋書き。
 いまいち、迫力に欠け、中途半端だが、見たことがある、
絵画が次々と出てきて、リアルでもあった。 
 評価は、80点というところか。



3138, 閑話小題  ーつれづれにー
2009年11月07日(土)

  * 新潟飛行場タクシー運転手殺人事件
 物騒になってきた。新潟市は殺人事件が多いが、港町ということもある。
数万の金のため簡単に殺人事件を起こすから恐ろしい。運転手も戦々恐々だろう。
「不景気で稼ぎが悪い上に、これだもの!」という、ボヤキが聞こえてきそう。
さっそく、刑事が当日の宿泊客の名簿を調べにきていたが。 
  ~~
  * 来春の高卒の就職内定者が4割を割って過去最低
 来年の高卒就職内定率が9月末で37パーセントで、去年より13パーセントも
ダウンした、という。経済活動全般が三分の二になったのだから、この数字も
肯けるが、地方ではよりマイナスが大きい。新潟県は33パーセントというから、
学校によっては、2割も決定してないところもあるはず。
企業側からいえば、5年もしないうちに大部分が辞めていくなら、中途採用
準社員にした方が数段、戦力になる。この流れは、もう止まることもないから
若者は絶望的になるのも分かる。 新卒の若いうちに、正社員としての基礎
訓練を入れてないと、何処の企業の再就職も難しいことは周知の事実。
日本がますます弱っていく姿は痛痛しい。その人にとって時代背景に恵まれて
いたかどうかは、大きな要素。その意味で現在、卒業を迎えている若者は気の毒。
しかし「今時の若者は」ではないが、ますます若者の質の劣化が進んでいる。
まともな会話さえ出来ないのが大部分。どうする日本である。それにしても、
ゆとり教育」の弊害は深刻である。 日教組か~歴史に残るだろう、これは!
          (偶然だが、去年、似たようなことを書いていた)
・・・・・・・・
2773,  どこか変?
2008年11月07日(金)

 今更だが、子供も含めて「どこか変」である。
「今の若者は!」と、ピラミッドの何処かに書いてあったというが、
現在の若者のそれは、そのレベルではない。 見てみない振りをするしかないのか。 
アメリカが画策した占領下無能化教育の完成品か? 立場的に書けないことは
幾らでもあるが、酷いを遥かに超えている。 情報化による弊害もある。
 以下、その純朴な疑問がそのまま書いてある随想の一部である。  
まずは、その部分から、
   ーーーー
   *どこか変です!
 女子高校三人が乗ってきて、通路をはさんだ私の前の三人がけの座席に座った。
その直後である。駆け込み乗車さながらに、白い蝶が一匹、勢いよく飛び込んできた。
まるで意志あるがごとくにである。その潔さに驚いているとドアが閉まった。
蝶はまぎれもなく電車の一員になったわけだ。 この珍景に心を奪われていると、
蝶はやがて失敗に気づいたらしく右往左往しだした。だが程なく居場所が決まった。
三人の前である。彼女たちの匂いや彩りを花と見立てたのだろう。
その前を拠点に、ひらひらを始めたのである。 私はほっとした。 三人はきっと
優しい視線を注ぎ、あわよくば誰かが、その柔らかな掌に包み込んでいとおしむに
違いないと思ったのだ。ところがである。彼女たちは、「きゃあー」と悲鳴をあげて、
通路を前方へと突っ走って行ったのだ。あたかも熊ん蜂に襲われでもしているか
のように、両手で頭を押さえ、背を丸め、まるで必死なのだ。
信じられない。 なぜなの? 蝶は拒絶されてもなお、その花たちを追った。
三人は、前の車両に飛び込んで大慌てで境のドアを閉めた。そうして、ことも
あろうにガラスに額を押しつけて、蝶のようすを伺っているのだ。
これっていったい何なの。ふざけ?それとも本心?高校生だけにその挙動は不可解。 
 乗客の大半は蝶のことを知らない。突然の騒ぎにも我関せずである。
ひたすら本のぺージを追い、携帯電話を見つめ、あるいは目を閉じている。
私は行きがかり上、無関心ではいられない。それとなく、孤独な蝶の行方に心を
寄せていた。なぜ、こうまで嫌うのだろう。 相手が複数なら別だけれど、
たったの一匹だ。しかも三対一。ふざけにしては大袈裟過ぎる。 
それとも鱗粉が問題なの? それなら眺めるだけでよい。そういえば先日、蝉が
怖いのだと母親にしがみついて泣き喚く幼児がいた。男の子である。
蝉は歩道の傍らで、ただ、うずくまっていただけなのに。 私にはその泣き声が、
自然との関わりが稀薄になることへの警鐘に聞こえた。そうして、今また
その思いが重なった。人々は急テンポで変化していく世相に翻弄され、それは
子どもたちが、野に出て遊びほうとする掛替えのない時期を逸することと
つながった。 馴染みのない昆虫に拒否反応を示したとしても不思議ではない。
しかし、これもまた痩せていく日本の一コマではないのかと胸が騒いだ。
菜の花と蝶、炎天下の蝉しぐれ…… これらは皆、列島の宝である。 
万人の心に響くものでありたい。 次の駅で私は下車した。 蝶は、まっ先に
飛び出したことであろう。そうして一路、あの葉桜の下の草むらへと、独り旅を
楽しんでいるに違いない。私の偏見かもしれない。 時代おくれも承知である。 
これでいいのかしら、と気になるのである。

 以上だが、何か変なことは誰も知っている。だが、諦めたのか、馬鹿馬鹿
しいのか、誰も素朴な疑問を持たない。新幹線や、電車の中の似たような
出来事を知人に話すと、今更という顔をしながら、更に酷い事例を話してくれる。
 先日、自動車で3キロ引きずりをして死なせた若者がいた。 その男の、
それまでの行蔵をレポートをしていたが、その何か変!というのに当てはまる。 
親が団塊の世代で、離婚をしていて、親の不仲が子に報い!という奴だ。
 それに過剰な情報である。 オカシクなって当然といえば当然である。
「どこか変?」でなく、「かなり変!」である。

・・・・・・・
2007年11月07日(水)
  2409, まわり道
            ヾ(@⌒ー⌒@)ノおはよ~♪
 神谷八重子の「こころの旅」ー第六章の中に青年期の「まわり道」について
書いてあった。同じようなことが、立花隆の文章にもあった。「青年期の10年は
潜伏期間で何を蓄積するかで人生が決まってくる」と。私のカラオケの18番が
「遠くへ行きたい」である。「まわり道」の先で歌ってたせいか、心の歌に
なってしまった。 一番の究極の時こそ一番のプラスとマイナスの経験をする。
人生には、色いろな道を通らねばならない。「のぼり坂、くだり坂、そしてまさか」
という道。迷い道、けもの道、なみだ道、散歩道、行き止まり道、分かれ道?など、 
多くの道を歩いた先にあるものは?  火葬場? 天国?
   ーーー
ーp.121
・・・しかし人生はまだ長い。これですべてが決定されてしまったわけではない。
「運命」と当面のしごとが要求することを忠実にはたしているうちに、意外にも
そこから本来の道へ行く糸口があらわれてくることもある。 あるいはまったく
思いがけない人がみていて、本道へとつれ出してくれることもある。
けなげに目前の仕事に励んでいる者は長い間見捨てられているわけではない。
いずれにせよ、青年期にまわり道をすることは一生のこころの旅の内容にとって
必ずしも損失ではなく、たとえもし青年期を病の中ですごしたとしても、それが
後半生で充分生かされることが少なくない。人間は「ただではころばない」
という芸当もできるのである。落伍者のようにみえた青年の中から、のちに
どれだけ個性豊かな人生を送る人がうまれたことであろう。
それは彼のこころの道中で、順調に行った人よりも多くの風景に接し、多くの
思いに心が肥沃にされ、深くたがやされたためであろう。
そのためにやっと「わが道」にたどりついた時、すらすらと一直線でそこに来た人
よりも独特なふくらみを持った、人のこころにせまる仕事をすることができるだろう。
 ーー
人生60年余生きてきて、本当に無駄なことは無かったと実感する。それも順境の時
より逆境の時の方が有益だったように思える。「順境は枝を張れ、逆境は枝葉を切り
取って根を張れ」という。私が現在、文章を思ったままスラスラ書けるのは、
三回の浪人期に、自分を支えるため本を読み、文章を書いたため。その残存が、
これである。外務省の佐藤優の文章が心を打つのは、決して奇麗事を書いている
からではない、留置所の中で考え、そして言葉を練りまわしていたからである。
また、そこを「勉強の場」として、本を徹底的に読んだからである。
留置場こそ使い方によっては学びの部屋のようだが、留置場への道もあるか・・・

・・・・・・・・・
2006年11月07日(火)
2044, 読書週間に読書習慣を考える
               (+>∀<+)ノ おぁはは~ようさん!
先週は、「読書週間」で読書について幾つかの新聞で特集を組んでいた。
驚いたのは、「この一ヶ月間で何冊本を読んだか?」の質問で、一冊も読んで
ない人が半数近くもいたことだ。
・男女はほぼ同じ、女性が50パー、男性が48パーであった。
 読まなかった人は、この10年間はほぼ変わらなかった。
・20年前に比べると20代では、20年前(22?)に比べると、二倍以上も
 増えていることだ。娯楽が本以外のメディアなどに多様化したことが原因である。
  (字数制限のためカット09年11月07日)      
・・・・・・・
2005年11月07日(月)
1679, 「自薦エッセイ集 魂の光景」-3
ー「メタモルフォーゼ」ー ?
   <意識の変容>
 
「意識の変容」といえば、夢であろう。 夢は裸の自分に出会うところである。
夢について今まで多く書いてきた。そして、その本質について深く考えてきたと
思っていたが、この文章を読んで疑問を持ってしまった。ユングフロイトを読み、
実際に不思議な多く体験をして意識の変容としての夢を冷静にみていたつもりで
あったが。まずは、「自薦エッセイ集 魂の光景」 ー『メタモルフォーゼ』
の章のポイントを書き写してみる。この著者は深く難しいことを何気なく
表現するのがよい。 ジャーナリスト出身だからだろう。
 ーーー    
"夢の形で何が現れるのか。少年時代からぼんやりと感じ、30歳代になって
かなり意識したのは、自分の内部に人気のない山奥の古い沼のようなものがあり、
そのエメラルド・グリーンの静まり返った水面下に、自分の体験だけでなく、
両親とその先祖たちの何十代、何百年前にわたる同じ一族としての、同じ民族
としての、同じ人類としての経験だけでなく、哺乳類から爬虫類、両生類、魚類、
海中微生物時代の経験までが、深々と薄暗く沈みこんでいるらしい、ということ。
そしてたぶん私の場合、他のまともな多くの人たちに比べて、その沼の水面の
表面張力、つまり意識と無意識との境の膜が、極度に薄くって弱いらしい、
ということも。 ”ロックフェラー大学のジョナサン・ウィンソン教授の説に
よると、夢を見るということは、「昼間の体験の無数の知覚情報を脳内に蓄え
られた長期記憶と照合して、生存に必要な情報か否かを『海馬』にて選別する作業」
であるらしい。」 だから「夢が常に視覚光景の、しばしばきわめて非論理的な
展開の形なのも、日々の知覚情報と照合される古い脳幹や大脳辺縁系の記憶が、
言語機能発生以前の、言葉を知らない記憶だから、と考えれば納得がゆく」。
”  ”霊長類の大脳新皮質の異例な進化を促してきたのは、古い皮質の
本能的情動の闇から抜け出ようとする光への憧憬だったのではないか、
とも思えてならない。世界の形と筋道を意味をより広く眺め渡すこと、
とりわけ自分自身を内部から突き動かしている暗い力を意識化することである”
”家庭が貧しすぎて小学校にも行けなかった一女性が、老年になって自ら読み
書きを習って本を読み、自分でも文章を書くようになってから、こう語ったという。
「夕日がこんなにきれいだとは知りませんでした」” ”解剖学者の養老孟司は、
本来全く別々の経路だった聴覚系の神経機能と視覚系の神経機能が重なり合った
結果として、人間の言語活動が可能になったのだろう、と推測している。
(「唯脳論」)
 ・・・
情報処理の波がちょうどうまくぶつかり合ったところに、視覚性言語中枢
と聴覚性言語中枢が生じた。この二つの言語中枢は互いに連結しながら、
さらに前頭前野運動性言語中枢と結びついて、言語の構造化、発語と書字
という言語行動が出現した。” 
  ー評ー
 ーノルウェーの同じ街とおもわれるところで、私も全く同じ体験をした。
 貿易港の街を歩いている時、自分ではない誰かが以前からそこにいて、
自分を包み込んでしまうような何かを!
 柏崎の極楽寺に行ったときも、同じ感覚になったことがある。

・・・・・・・
2004年11月07日(日)
1314, まさか、地元で大地震!ー11

ウォーキングで、彼方此方みるうちに地震の大きさに驚いている。 
近くに避難所があることと、自宅の裏の空家に被災者一家が入居してきたことと、
一昨日の殿町の飲食街で、具体的な被害を見てきたこともある。お客は閑散、
店と客のボトルは殆ど棚から落ちて割れたとか。次々に廃業をしているという。
30分ほど歩いた所にSCがあるが、ゲームセンターは閉鎖のまま、隣接している
玩具のチェーン店「トイラザス」もやはり閉鎖のまま。ジョウシンという
家電の全国チェーンも、痛々しいほど店の商品はスカスカ。駐車場の一角に大きな
テントを張って、壊れた商品を一時保管していたのをみても多くの商品が破損
したのだろう。近くのパチンコ店も閉鎖のままである。遊技場など行く雰囲気
でもないが。道路は、陥没のまま手がつけられてない状態。アルファルトで
応急処理をしてある道路も余震で再び陥没していたところが多い。
この地震で家の崩壊や死傷者が少なかったのは、建物が雪国用に頑丈に
作られていたことと、過疎地で人口の密度が低かったことなどで、第二次災害
が最小であったためだ。これだけの災害でよくぞ三十数人の死者ですんだのは、
不幸中の幸いである。新幹線も、雪国用の特別仕様のため大事故をまぬがれた。
この地震の特徴は余震が異常に多く、現在も続いていて、余震の地域が更に広域
に広がっていることだ。昨日のメルクマールでも書いたが、散歩途中で聞こえて
きた農家の人の立ち話が印象的だった。「丁度良い時期に、地震が起きてくれた。
早ければ、稲刈りや農作物の取り入れに影響をしたし、遅ければ寒さや雪で
大変であった。 水害の跡片付けも丁度終わった頃だし」なるほど、その通り。
大きなマイナスの出来事の中にも、必ずプラスがあるものだ。
これからの被災者の大きな問題は、普段の生活に戻れないことだろう。
一番変化に対応しにくい人達?だからだ。

・・・・・・・
2003年11月07日(金)
947, 女の視線

田中真紀子は選挙になると、一番汚い服を着る」という噂が専らである。
なるほど、その同年代の女の視線を、彼女には解らないのだろう。所詮は
票乞食にならなくてはならないのが代議士。もっとも選挙運動に綺麗な外行きの服も
着ることができないが、パフォーマンスで着ているかは女の目には誤魔化せない。
目白御殿に住み、何不自由なく生きてきて、今更庶民派もないだろう。
 真紀子パフォーマンスも前回で終わったのか。あまりマスコミも取り上げないのも、
新鮮味が無いことと、彼女への風が吹いてないということだろう。橋本が破れたのは、
彼女の力もあったが橋本が悪すぎたのだ。外務大臣のときの、大臣芸者としての
役者ぷっりがひど過ぎた。 もっと風が吹くと思ったが、パフォーマンスは前回の
一度で終わりか。結局は「親の看板と地盤とカバン」しかないのが彼女の本質である。
 この人から誠意のひとかけらも感じられないのが、彼女の本質を突いている。
国をどうするとかの理念が全くないのは言うまでもない。でも、この選挙には
勝つだろうが。選挙は最後の最後まで何がおきるか解らないが、大勢に影響は
ないだろう。 困ったものだ。

・・・・・・・
573, 健康機器
- 2002年11月07日(木)

 以前ある人に「ニギニギ」を紹介されてから、散歩の時は必ず持ち歩き、
握ぎ握ぎをしながら歩いている。肩こりや目などに非常に良い。数種類を持って
いてその時々に使い分けている。海外旅行の時など飛行機や移動のバスの中では、
必ず手で握り締めている。 ボチボチや突起物が付いており、それが手のツボを
刺激をする。 足と目と手にツボが集中しており、手が気楽に一番やりやすい。
100円ショップに多くの種類が売っており、7~8種類を持っている。
 2週間ほど前に会社の近くの家電の量販店をブラブラしていると、磁気付きの
ニギニギがあったので早速買ってみた。使ってみるとなかなか良い。また自宅の
近くのダイエーをブラブラしていると、店頭で磁気付きブレスレッドの定価8千円
のものが1千円で売っていた。 迷わず買って腕にした。その夜何か寝ていても
気分がよく良い夢を見た、そして翌夜も。気のせいもあるだろうが。更に再び
同じ家電の売り場に再び行くと、アイマスクの磁気入りの物を売っていた。
これを早速買って夜付けて寝ると頭がすっきりした。 今度はヨドバシカメラ
に行くと、頭に掛けるイヤホーンの形のコメカミに磁気を当てる物があった。
これも良い。付けて本やTVを見ると疲れないのだ。従ってこの二週間で頭や
目や肩が非常に楽になった。腕にブレスレッド、頭にイヤホーン、手にニギニギ、
寝室ではアイマスクをしている。まあ馬鹿みたいだが? 
肩こり、目の疲れに間違いなく良い!

・・・・・・
[219] 無駄な事なし
- 2001年11月07日(水)

 人生ふりかえってみて感じる事は[無駄な事は全くない]という事である。
ある程度燃焼してきたから、言えるのかもしれないが!全く無駄にみえる事
ほどふりかえってみた時、一番重要なポインだったようだ。皮肉と言えば皮肉だ。
重要な事はボロを羽織ってくるのだろう。老年にさしかっかた時、死と同じ
くらいの恐怖「自分の人生これでよかったのだろうか?」という問いかけだそうだ。
ある本に‘自分の母が死ぬ時「私の人生失敗だった!」という言葉を残していたと
姉より死後に聞いて、立ち上がれないほどショックを受けた’という内容が
書いてあった。なにか非常に悲しい響きが残っている。
母に「人生の元をとった?」と聞いたことがある。「とったとった十分とった!」
と嬉しそうに言っていた!人によって「無駄な事だらけ」という人生もある
のかもしれない。人生にやはり意味を求めていないと、そうして精一杯生きて
ないと、失敗だった?という気持ちになってしまうのだろう。
無駄とはどういう事だろう? ある事業に失敗したとする、それをどういう
ように解釈するか? 自分の解釈で意味ずけをするかだ。 無駄にみえても、
意味があると解釈するかどうかだ。