つれづれに

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

他のブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr5/54909/
http://horii888888.toypark.in/cgi-bin/s_diarys.cgi
http://d.hatena.ne.jp/horii888888/archive

   今日のYoutube

 3月3日より、何故か「はてな」のビュアーが、300から
1500以上に増えたが、いまだに減る兆しがない。
閑話小題で、『空を飛びまわるニワトリ』と、過去の
子供の頃に舞い戻った夢のシリーズが面白かった? 
のは確かだが、それでも一挙に5倍とは、驚き。
それにしては、この「バードウォッチ」は大して変わらない。
 入れているエネルギーは、アチラの10分の一だから、
その正比例といえば、それが自然だろうが。

 けっこう、最近、ここで、思いのままの文章を書くようになった。
一時間もしないうちに、翌日分の随想日記の「閑話小題」に転用
するため、カットすることが多くなった。ここで、書くと、直ぐに
アップするため、構えず自然体で話すように書くので、次から次へ
と、スラスラ書ける。

 昨日、観た映画のストーリーが、面白いというか3D的な筋書き。 
一人の男が酒場で、マスターと話すうち、自分の物語を話はじめる。
 その内容が思わない展開になっていく。
≪ 実は、自分は元女で、男に生まれ変わった。 調べたら、
女性の性器の他に、男の性器が隠れるようにあって、色々あって、
男に生まれ変わったという。 そのマスターも、実は秘密結社の一員で・・・
 で、小型のタイムマシーンで、その元女性と、過去の時間に行き来する。 
とこが、手術前の女性のところに、手術後の男性が現れ結合する。
 過去の女性の自分との間に、生まれた子供を、そのマスターが
誘拐して、数十年前に、修道院に預ける。その子供が大きくなったのが、
その両性の主役というストーリー、の落ちになる。 
他にも、色々の絡みがあって、最後まで息をつかせない内容。 
 輪廻が落ちとは、よく考えるものだ!
 
 ―――
http://www.predestination.jp/
《 SF映画の最もポピュラーなテーマのタイムトラベルには、過去を変えると未来に
変化や矛盾が生じるタイムパラドックスが付きものだ。『バック・トゥ・ザ・フューチャー
から『バタフライ・エフェクト』まで数多くの傑作&異色作がひしめくこのジャンルに、
新たな金字塔というべき衝撃作が誕生した。
 奇想に満ちたヴァンパイア映画『デイブレイカー』(09)の気鋭の双子監督、
ピーター&マイケル・スピエリッグ兄弟が、イーサン・ホークと再びタッグを組み、
ロバート・A・ハインラインによる究極のタイムパラドックス小説「輪廻の蛇」の
映画化を実現。携帯型タイムマシンによって時間と場所を自在に瞬間移動できる
政府のエージェントが、凶悪な連続爆弾魔を追って命懸けのラスト・ミッションに
身を投じる姿を映し出す。1970年のごく平凡な酒場の風景から始まる物語は、
中盤にトリッキーな急展開を見せ、約半世紀の時空を小刻みにスリップする壮大な
ドラマに発展。先読みを一切許さないノワールな映像世界は、登場人物のあまりにも
数奇な宿命のミステリーをエモーショナルに解き明かしていく。そして映画史上空前
タイムパラドックスの終着点には、あらゆるスリルや感動を超越した"想像を絶する
"真実が待ち受けている! リチャード・リンクレイター監督との『ビフォア』シリーズや
『6才のボクが、大人になるまで。』などでおなじみのイーサン・ホークにとって、
本作は『デイブレイカー』に続くスピエリッグ兄弟との2度目のコンビ作。
またジョン&ジェーンという時空のみならず性別さえも超えるひとり2役を
やってのけた驚異の新進女優サラ・スヌーク、『オール・ユー・ニード・イズ・キル
『記憶探偵と鍵のかかった少女』の個性派バイプレーヤー、ノア・テイラー
抜群の存在感を放っている。》


・・・・・・
2164, 宮城まり子
2007年03月07日(水)

    (~Q~;)  おはよう~~ サム!

3月の日経新聞の「私の履歴書」は、
「ねむの木学園」園長の宮城まり子である。 まだ6回目だが、なかなか面白い。

 宮城まり子といえば私の小学校の頃から映画などに出ていたが、
甘ったるい声が印象的であった。
その後、芸能界をやめて「ねむの木学園」を開いた。
もう二十年前のことになるが、TVでその「ねむの木学園」を放映した。
その時の子供の絵を見たときの衝撃は今でもハッキリと憶えている。
ピカソのような絵だが、絵から純粋な子供の心が直に伝わってきたからである。
役者をやめた後からも、人生の舞台の「役割り」を正直に生きている人である。
「人生を思いのまま生きている人がいる!」というのが当時の感想であった。
私の履歴書」の一日目に書いてあった、 学園を開設するにあたっての、
愛人?の作家・吉行淳之介との3つの約束がよい。
    1.愚痴はこぼさないこと。
    2.お金がないと言わないこと。
    3.君を信じてくる子のため、やめてはいけません。
     その時、宮城まり子は「ハイ」と答えたという。

三回目の、彼女の母の教えの「感じたまま」の言葉が印象的である。
ーそこを抜粋してみるー
私は母と並んで絵を描くのが好きでした。
小学校に入って間もない頃でした。
並んで描きながら私は母に聞きました。
「お母さまはどうしてそんなに絵がうまいの?」すると母は
「まりちゃん、人の絵をうまいなどと思っていけません。
人は人、自分は自分。自分の絵をお描きなさい。」と少し厳しい口調で言いました。
「お母さんは大人になってしまったから、あなたのような素直な絵は描けなく
なってしまったの。あなたにはあなたの絵があります。好きなように描きなさい」

大きくなったら絵描きさんになりたい。私の初めての夢でした。
しかし母の言いつけを守ると学校で叱られました。
絵の時間にラジオ体操をする人を描いたときのことでした。
その人がとても気持ちよさそうに見えたので、感じたままに描いたら
腕が背よりも長くなりました。先生は「真面目に描きなさい」といいました。

「ねむの木学園」では私は絵も担当していますが、一度も「上手ね」と言ったことは
ありません。「うれしいわ」と言っています。
だって「上手ね」と言ったら子供はそれで安心をして満足してしまいます。

    ーー
    書き写しているうちに20年前のTVの内容を再び思い出してきた。
    「ねむの木学園」の知恵足らすの子供がピアノ演奏をしたが、
    鍵盤に魂を込めたピアノの音に気持が引き込まれてしまった。
    感動のあまり、その番組のビデオを何人かに見せた思い出がある。
    
    今月は、毎朝彼女の魂と出会うことができる!

 ・・・・・・・・・
2006年03月07日(火)
1799, 風太郎の死ぬ話   (○´・д・)ノ〔● ォ'`ョゥ
              -読書日記
山田風太郎の「死」に関する本を読むと、
色いろの人の死に様が面白可笑しく書いてある。
そして読み終わって「死」が軽く思えてくるから不思議である。
また「死」を考えることは、「生」を考えることになるのに気がつく。
死に様が、そのまま生の完成といえるということだろう。

   これまでも山田風太郎の『死』について取り上げてきた。
   暗いと言われるが、お経を読んでいるようで逆に安らぎを感じる。
   
   私が風太郎の死に対し一番好きな言葉がある。
  「・・・いろいろあったが、死んでみれりゃ~、なんてことった。
   はじめから居なかったのと同じじゃないか皆の衆」である。

この本の中にも強烈な言葉が次々と出てくる。

・信長は本能寺で死んだからこそ信長であり、
 西郷隆盛は城山で死んだからこそ隆盛なのである。
 あるゆる欲望を満喫し、大往生した死に方は、その人の人生が誰の同情も
 関心も共鳴を買わないという点で、芸術的に失敗作である。

     ・フィリップ・アリエス
     「昔の死は、人が死にいく人物を演技する喜劇的な悲劇であった。
      今日の死は、人が自分の死ぬのを知らない人物を演技する
      悲劇的な喜劇である」を取り上げ、
      これによって、著者の風太郎が
     「人は管につながれて生まれてきて、管につながれて死ぬ」という
      アフォリズムを作ったという。
 
・「 臨終の人間『ああ神も仏も無いものか?』
   神仏『無い』」
 「また臨終の人間『いま神仏が無いといったのは誰だ?』
  答え無し。
  ー暗い虚空に、ただぼうぼうと風の音」

    ---    
    ここからはこの本(風太郎の死ぬ話)から少し離れる!
    死といえば宗教学者であり東京大学教授だった
    岸本英夫の「わが生死観 」の言葉が深く響いてくる。
    十年間の死と闘いの中で冷静に死の恐怖の心理を克明に書いている。
     
     父の死に際をみていたので、その恐怖感が理解できた。
     
ーその一部を紹介してみるー

もう一度くりかえしていえば、死後の生命の存続を信じない私が、
癌というような思いもかけない病気のために、生命飢餓状態におかれ、
死の暗闇の前にたたされたのである。
天国や浄土などの理想世界を信ずるものにとっては、
死後の世界は、暗闇ではない。 一つの実体である。
    しかも、輝かしい世界である。
    しかし、私にとっては、それは、真黒の暗闇であった。
    私は、その絶望的な暗闇を、必死な気持で凝視しつずけた。
    そうしているうちに、私は、一つのことに気がつきはじめた。
    それは死というものは、実体ではないということである。
    死を実体と考えるのは人間の錯覚である。

死というものは、そのものが実体ではなくて、
実体である生命がない場所であるというだけのことである。
そういうことが、理解されてきた。
    生と死とは、ちょうど、光と闇との関係にある。
    物理的な自然現象としての暗闇というのは、それ自体が存在するのではない。
    光がないというだけのことである。 光のない場所を暗闇という。
人間にとって光にもひとしいものは、生命である。
その生命のないところを、人間は暗闇として感じるのである。
死の暗闇が実体でないということは、理解は、何でもないようであるが、
実は私には大発見であった。
    これを裏返していえば、人間に実際与えられているものは、
    現実の生命だけだということである。
    人間は、日々の生活をくり返して生きている。
    これは、疑いのないことである。
人間にとって生命は実体である。
しかし、人間にとってあることは、今生きているということだけである。
人間には、生命がある。
    五十年か六十年か生きているが、その寿命の中の一日一日は、どの一日も、
    すべて人間にとっては同じように実体としての生命である。
    どの一日も同じように尊い
    寿命がつきて、死が近ずいたとしても、その死に近い一日も、
    健康の時の一日と同じように尊い
    そのいのちのなくなる日まで、人間は生命を大切によく生きなければならない。
死というのは別の実体であって、これが生命におきかわるのではない。
ただ単に、実体である生命がなくなるというだけのことである。
このような考え方がひらけてきた後の私は、人間にとって何よりも大切なことは、
この与えられた人生を、どうよく生きるかということにあると考えるようになった。
    いかに病に冒されて、その生命の終りが近ずいても、人間にとっては、
    その生命の一日一日の重要性はかわるものではない。
    つらくても、苦しくても、与えられた生命を最後までよく生きてゆくよりほか、
    人間にとって生きるべき生き方はない。
このようにして、死の暗闇の前に素手でたっていた私は、
このギリギリの限界状況まできて、逆に、大きな転回をして、
生命の絶対的な肯定論者になった。
死を前にして大いに生きるということが、私の新しい出発になった。
    それ以来、私は、一個の人間として、
    もっぱらどうすればよく生きることができるかということを考えている。
    しかし、そう生きていても、そこに、やはり生命飢餓状態は残る。
人間は、一日一日をよく生きながら、しかも同時に、
つねに死に処する心構えの用意をつずけなければならない。
 ーー
岸本は死の告知を受け、   ガ━━Σ(゚Д゚|||)━━ン!!
「身の毛がよだつほどおそろしい」と実感を述べている。
その恐怖を乗り越えて、「いま」を生きることの尊さに目覚め、
「今が最後」とつねに思いつつ生きるところに、
   自分の安住をおいた。

  ☆~~ヾ・ェ・)o尸~死んじまえばそれまでよ!
                 マタネ~♪
ーーーーー

2005年03月07日(月)
1434, 滝の話

1月前になるが、「白川義員の世界百名瀑布に挑む」
をNHK・ハイビジョンを見た。
再放送で見るのが二回目だが、一回目見たときと同じ位の感動をおぼえた。
よいものは何ごとも、見れば見るほど、知れば知るほど、その奥行きの深さが
見えてくる。

滝、氷河、山脈、草原、断崖、海岸などの大自然に対する感動は何にも変えがたい。
水には、生物が発生した「海水」の原点がある。
「生き物」のように、色いろな表情をみせるため、本能的な何かが騒ぐ。

世界3大瀑布といえば、
・ブラジルの「イグアスの滝
南アフリカジンバブエの「ビクトリアの滝」
・カナダの「ナイアガラの滝」である。
・そして、4番目が南米のベネゼイラにある
「エンゼルフォールの滝」である。

その中でイグアスの滝は、ずば抜けている。
とにかく規模が他の滝に比べて桁違いである。
昔、アメリカの大統領夫人が、この滝を見て
「ああ、可哀想なナイアガラ!」と思わず言ったという。

しかし、何で三番目がナイアガラなのか解からない。
ただ、美しさは抜群である。
遊覧船で滝の近くまで行って、180度の滝に囲まれてみる豪快な光景は
さすがに凄い!

この番組みでは、アメリカ大陸のランク20の滝を紹介していたが、
やはり、ナイアガラの評価を最下位にしていた。
そんなものでしかないのは、誰でも解っていることである。

旅行をしていて、思いもよらない素晴らしい滝に出会うことが度々ある。
そして、ただ呆然と立ちつくす。

人は滝に対して、何故これほどまでに引きつけらるのだろう。
横の流れが一瞬の落差によって、縦の流れに変わって生ずるエネルギーのためか、
それとも、水そのものの踊っている美しさであろうか。

アイスランドに、欧州で一番大きいといわれる
「ゴーザフォスの滝」がある。
アークレイリから車で1時間ほどのところにある。
溶岩の平原に流れている川が、突然落ちて滝になっている。
落差は小さく幅が広い。

平地によくある形の滝であるが、遠くの氷河から流れ出た豊富な水量のため、
音と水煙を上げている。

ゴーザフォスの意味は「神々の滝」。
ヴァイキングキリスト教に改宗した時、それまで崇拝していた神々の偶像を
この滝に投げ込んだ」という話からきているという。
雨の中で見たが、豪快に神々しい滝であった。

滝ではないが、裸の山並みに千本もあるように見えた細い糸のような滝?
も忘れることができない。
ニュージーランドのミルフォード・サウンド の途中で見た山の光景である。

滝の話になると話題は尽きない。

・・・・・・・
2004年03月07日(日)
1068, フランチャイズ・ショー -2

主観を込めて「面白い順」に書いてみる。

・まずは「1980円のフグチリ」を売りにしているフグ専門店。
フグ専門店の3分の1値段で、ふぐ料理の価格破壊を目指している。
味は高級専門店にまけないという。

以前TVで見たことがあったが、実際担当者から生で聞く話は格別面白い。
「フグ料理や開店指導やフグの供給」をするという。
客単価は6700円とか。開店資金まで希望なら融通するとか。

現在は東京から30キロ圏がチェーンテリトリーという。
別にフグ屋をする気はないが、何事も好奇心で聞いてみたが、
本当に面白い!

・次は介護ビジネスで、デーサービスだけに特化した業態のFCが面白い。
一日あたり、顧客?一人単価一万円、人件費一人当たり一万、ハード(施設)の
ランニングコストが一日1万。ビジネスとして割り切ると面白そうだ。
30人収容で、職員9人のチームでまわす。
開店指導から軌道に乗せるまでのノウハウの販売である。

・保育園の開店指導主体のFCもあった。
開店が一番大変で、一度オープンをしてしまえば、その後のノウハウは
ほぼないとか。開店ノウハウ販売型FCと堂々と言ってのけるのもよい。

・目立ったのが、インターネット・カフェである。
漫画本とゲームとインターネットの併設のもので、時間制の料金システムのものが
印象的であった。(例:15分ー100円)

・自分史のCD作成の商売もあった。
50万円で写真から履歴や文章などをCDに収め、10年間大手銀行の
貸金庫に預けて置くシステム。死んだ後に配る饅頭本の現代版といえる。
面白いことを考えるものである。
                     ー 続く
・・・・・・・・
2003年03月07日(金)
702, 心と魂

以前に社内報の事業百訓で、
「心」と「こころ」と「魂」の違いを書いたことがあった。
ーホームページH09/05-見聞皆師
http://csc.jp/~888888/fr/kenbun/bun_h09.htm

先日、ある本を読んでいたら、
パソコンのハードデスクを「魂」、ソフトを「心」に喩えていた。
ーその概要は以下に書き写す
 魂と心は厳密に言うと違います
・魂はパソコンでいうとハードディスクやCPUを中心としたハードウエアにあたり、
・心は基本OSを含むソフトと例えることが出来る。

 心の基本形成は、親の心のエネルギーを吸収しながら6才頃に、そのアウトラインが
ほぼ完成するという。
パソコンでいえばウインドウズのインストールを終えた状態。
・「こころ」の核となっているのが魂で、これは生まれながらのもの。
・魂は天命・宿命に関わり
・心は運命を左右します。
・そして双方の共同作業の結果が、あなたの「個性・能力」となって現れる。

魂の進化は心とともに ある。  
パソコンは平成8年春の製品でクロックは120しかありません
150以上を指定してあるウインドウズMeはインストールできない.

モリーとハードディスクは最大限増設してあるが、
クロック増設の手間と費用に見合うだけの魅力がMeに有りや否や?
深層心理学者のユングは「魂はしだいに進化し、聖なる方向に向かっていく」
といっている。
この進化の方向に関わってくるのが心なのです。
Me(心の向上)を諦めたので、ハードウエアのクロック(魂)は
120のままで進化していません。

こころの葛藤とは魂と心の綱引きをしている。  
魂は多くの業(ごう、因縁ともいいます)を持っていて、
その業は縁あらば表へ出ようとしています。
それが自己本位の好ましくない事だったら、心がセーブをかける仕組みに
なっているが、本質的には「魂の方が強力」です。
魂が要求している事柄を実行して良いかどうか…を
・「判断するのが心なのです」が、
・「決断するのは魂」です。
心が「ノー」という結論を出すと、そこで魂と心の綱引きが始まるのですが、
魂が心の判断を無視して行動を起こすと、人間社会の中では往々にして問題行動となる。
40にして惑わず、という言葉があるように、どうやら人間は、
その年代以上にならない
ことには、「魂を制御できるだけの心は完成しない」ようだ。

ー以上であるが、喩えが解りやすい。
 また他の本で「自己」と「魂」は似ているとか。
自己の背後にある大本が「魂」といってよい。
自己実現」を「魂をつくること」と言い換えたほうが
むしろ解りやすいことからも納得できる。

魂の喩えとして
・心の親。
・心の故郷
・心の実家
・宗教心
・他己
・御祖先様
・心の積み重ね
・神ーラージX

「心を込める」と「魂をいれる」と言葉の重みが違う。
「魂を入れる」は全身全霊を入れるという意味合いにがある。
そうすると全身全霊ということか。

対象の物事に対して「魂がこもる」ともいう。
一生は「魂をつくること」ということか。
自己実現を図る事だ。

・・・・・・・・
2002年3月7日

ーこの日から2週間、
西アフリカ旅行中で書き込みなし
・・・・・・・・
「母子家庭 」

先生『お父さんは何してるの?」
生徒「死んでいないの」

先生「じゃーどうして生活しているの?」
生徒「うん大丈夫、毎晩ちがう父さんがお金を置いていってくれるの」

先生「?・・・・・・・!!」

「何てこたないじゃないか。そうときはにっこり笑えばいいじゃないか」
「冗談じゃない、僕は素っ裸になっていたんだ!」