つれづれに

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 今日のYoutube


 あと数日で、11月である。 淡々とした、しかし充実した日々が続いている。

 5年前に買ったTVの新機能を最近になって見つけた。 
何とことはないが、カメラのSDカードを入れると、写真が55インチの大画面に映しだされる。 
最近のカメラは画素数が多いので、きれいに映し出されるのがよい。だったら、ビデオを
モット撮っておけば良かったが・・  それにしても5年間も気づかないとは!
 人間の能力と同じということ? 





・・・・・
2398, 20歳代 海外旅行離れのワケ
2007年10月27日(土)
     オッ☆ o(≧▽≦)o ハァァァァァァ♪        
   先日の日経流通新聞のトップ記事の見出しが
   「20歳代海外旅行離れのワケ」であった。
   時代の流れが、その時々の若者の気持ちを決めてしまう一つの事例である。
   逆にいえば、この不景気の中、国家存亡の時期に20歳代に6割も海外に
   行っていること事態がおかしい!のである。
   それと、やはり情報化が、この10年間に進んだこともある。
   TVで世界中の映像を、こと細かく放送をしていれば、未知への憧れも薄れてしまう。
   さらにインターネットや携帯やゲームなど、旅行より面白そうなものが
   手軽に手に入るようになったのも大きい要因だろう。

ーまずは、その要旨をまとめてみるー

・二十代の海外旅行は過去最大であった10年前の6割に落ち込んだ。
・20代の75?が過去一年間に海外旅行に出かけていない。
 また、一度も出かけてない人が40?であった。
 その理由として、言葉が心配が14?、何となく心配が10?。
・一回の旅行代が25万で、「高い料金を支払った上に想定外の嫌な思いをしたくない」
 のが心の奥にあるという。 また3割が学生時代に旅行に行った経験がある。
 仕事が忙しいが3割になっている。 「リラックスをするのが目的なのに、
 海外旅行は長期の休みを取りにくく、せわしなく行きたくない」という。
・それより「リムジンを借りて遊んだり、ホテルで仲間内でパーティー
 開いたりして楽しんだ方がよい」という。また沖縄や軽井沢などを何度も訪ねているうち、
 「見知らぬ海外より、身近な土地をより深く知りたい」という。
 最近の若い人は知的好奇心が減少しているのが特徴。
 特に男に海外より温泉と預金という人がふえていて、海外旅行は一度行けば充分!
 という風潮もあるという。
 --

以上が概要だが、時代がプアーになってきているのを若者は察知して、
「高額+不快」な海外より、身近な「温泉・預金」に目がいっている風潮。
 私のように、趣味の大きな柱にしているものにとって、
「若いうちに可能な限り世界を知っておくべき」と思うが。
 生活の重視が当面の問題という社会情勢からみたら、それも解る気がする。
 この島国で年間1750万人、15%も海外旅行にいくこと自体が多すぎる。
 それだけ良いから行くのだろうが、若者の内向けの姿勢にも時代の変化を感じる。
 それより、日本が高すぎ! まだまだ、デフレで絞りこまないと!
    特にサービス産業は! それとゼネコン!
                  ☆ァディオス☆(`・ω・´)ノ
・・・・・・・・・・
2006年10月27日(金)
 2033, 躁鬱病について -1
(。^0^。)ノオッ(*^○^*)ノハ~ ヨウ! ウジウジしてる?

鬱病について、マスコミで取り上げられることが多くなった。
そもそも人間は軽い躁鬱症であり、迷ったり(分裂)、
気分の浮き沈み(軽い躁鬱)は誰でもあることだ。
それがコントロール出来なくなって日常生活に影響を示すから問題である。

    数年前に亡くなったが、ある取引先の営業をしていた人が躁鬱病で、
    十数年にわたり私のところに頼ってきていて助言を与えていた。
    私の経験から、逆療法で辛らつに状況を本人に説明。
    いつの間にか病院の先生よりも私のいうことを聞くようになり、
    病気が出始めると私のところに先に来るようになっていた。

しかし逆に躁の時はなかなか来ない。
他の知人から様子がおかしいと連絡が入り、しばらくすると奥さんから
電話がかかってきて、「本人を私のところに行くように説得しましたから、
お願いします。とにかく医者よりも貴方の助言を信頼しています」・・・

    彼の場合、躁鬱が定期的に2~3年に一度は起き、
    5年に一度は入院するほど重くなる。
    初めは躁になり、その後必ず鬱になるパターンである。
    しかし、よくぞ会社を首にならなかったものだ。
    経験を重ねているうちに、まずは私のところに来て相談。
    そして重い場合は、自分から即入院のパターンになっていた。
    その人も二年前に癌で亡くなってしまった。 亡くなるまで、
   「もし貴方の助言がいなかったら、とっくの昔に会社を首になっていて、
    間違いなく病院の中だった」と・・・ 本来は書くべきことではないが。

という訳で、躁鬱に関しては身近に見続けてきたこともあり、熟知するようになった。
何度かの浪人生活を経験してたが、その時は鬱状態である。
その都度、色いろの挫折経験によるストレスが原因で安眠ができない
鬱々とした状態が半年はつづく。 心はバラバラ、真っ暗闇である。
その中で独りもがき苦しみ、心や精神療法の本や宗教書を手がかりに、
暗闇の穴倉から這いずり上がってきた経験を何度かしてきた。
腰痛もそうだが、「鬱」に関しても「独りで直してきた」強みがある。

   「孤独」を受け入れ、世間とかいう奴を却下に見えるまで苦しんで、
    昇華しないと、独力で「鬱状況」から脱却はできない。
   「正中止一点無」ー何が問題で、その中心は何であろうか?を、
    とことん突詰めるのが、私の療法である。
    放っておくと、間違いなく菌が入り膿み、腐っていく。
    身体と何ら変わらないのが心である。

ところで老人の心は「うつ病」に酷似しているという。
いや、それが当たり前だからこそ、病気とはいわない。
60歳直後におこる初老性鬱病は最後に病気として扱われるが、
70歳過ぎれば当たり前の老人の精神状況としてしか扱ってもらえない。

    まあ、去年の同日の日記に丁度つながるが・・
   「その人たちのために、初老性欝病があるんだから、恐れ群れてないで
    しっかりなるべきじゃないか、その病気に!」病気は神からの贈り物である。
    効果は、その人の質によるが・・ 無理か!あれじゃ!

         まあ、まあ モーニングコーヒーでも!
   ーつづく      ( ^-^)_且~~~       
・・・・・・・・
2005年10月27日(木)
1668, おい、どうすんだ、定年後!-2

 定年になったら「囲碁とか、絵画教室、パソコン教室などに行けば!」と考えてしまう。
が、もちろん彼らは何回か行くが続かない。彼らは元仕事人間が多く、
仕事の合間の自由の過ごし方は知っていても、自由そのものの扱い方を知らないのだ。
会社という縦社会の住人だったため、心の鎧が自分を閉じ込めて裸の自分を曝け出せないのだ。
趣味の会などの横社会には全く馴染めない。

しかし人間であるかぎり、共同体に入ってないと自分を保てない悲しいのが人間。
共鳴してくれる相手を必要とするが、もはや誰とも波長を合わせることが出来ない。
そういう人達が、大都会のベッドタウンに溢れている。
2007年から団塊の世代が大量に定年をむかえる。高度成長期時代の騎士たちである。
右ならえ!という生き方しかしてこなかった、彼らこそ定年後のすごし方を知らない世代だ。

家では粗大ゴミ扱いされて、外の世界の生き方のノウハウが全くない。
電車の乗ると、働いていない自分が許せないのだ。
サラリーマン時代の価値観から全く抜けきれないのだ。
群れているだけで、真の孤独を経験していなかったからである。
 ーー
ー以上が月刊誌の概略である。

定年直後は首輪をはめた飼い犬が、家から放り出されて
行くあてがなくウロウロしているようなものである。
そこで元の会社の肩書きなど、何の役にも立たないことを初めて思い知る。

だからライフワークを長年かけて構築しておかなくてはならないのだ。
その暇がなかった大部分の都会サラリーマンにとって深刻である。
一から何か趣味を見つけチャレンジ出来る人は、ほぼ限られている。
理想的にいえば、一から始める方が良いのかもしれないが。

私の場合、この問題について51歳時が大きな節目の年になった。
(この随想日記で、何回か取り上げたが)
母親を前年に見送り、下の子供が大學に入り仕事も一段落ついた。
さあ、これからの人生を如何生きたらよいかと考えていた。

その頃、海外秘境旅行に年2~3回出ていた。
秘境旅行に参加する人は、人生の究極を求めてきている人が多い。
一期一会の出会いの中から、彼らから「人生のあり方」の多くを学んだ。
その一つに「人生先まわしで生きろ!」である。
そして、考えた結果として
・「60歳までの9年間で、80歳までの30年間分を詰め込んでしまう!」
 という生き方である。ー余白も行間も埋めてしまう。
・その為に社会的に如何でもよいことは可能なかぎり切りすててしまう。
 
そう決めると、旅行の行き先がアフリカや南米などになってくる。
とにかく、先回しをして選定するのだから。
結果として、これを実行してきて本当によかった。
この随想日記も早くいえば自分史の一環でもある。
55歳の時から始めて、思いはほぼ書き尽くした?感はある。
60歳になったら、どうするのか?
余白は書きつくしたのだから、赤ペンで上書きをしていけばよい、
ポストイットに書き足して貼り付ければよい、ノートを買いたせばよい。
とにかく、何ごとも準備と先まわしである。

まずは自分を曝け出す訓練をしないと、誰も相手にしてくれない。
それも、どうでもよいことだが。       
                    つづく
・・・・・・・・
2004年10月27日(水)
1303, まさか、地元で大地震!-4

地震から、既に四日目をむかえている。
あらためて周囲を見渡すと、思っていたより被害は大きい。
昨夜、一昨夜と、近所の家の電気が全くついてなかったのをみると、
ほとんどの住人が避難していたのだろう。
近所では、あまり大きな被害は無いようだが、二軒先の家の玄関先が壊れていた。

やはり一番のショックは、新幹線の脱線事故である。
200キロでよく大事故にならなかったものだ。本当に奇跡である。
これで、新幹線の安全神話が壊れてしまった。
反面、40年間も死亡ゼロというのが、奇跡に近いといってよい。
これだけ全国に新幹線が張り巡らされていて、走行中に大地震にあわなかったものだ。
そうそう、震度6地震も無いだろうが。

あれだけ大きい石灯篭が倒れるなら、墓石も倒れているのではと寺に行ったが、
見た範囲で、倒れている墓は一つも無かった。
どうして墓石は倒れないのだろうか不思議である。数百年の知恵が入っているのだろう。
昨日、何時ものコースを散歩をした範囲では
・土手の大小の橋の全てに亀裂が入っていた。橋の交通止めは一箇所
(段差が30cmのズレ)、注意書きがあったのが数箇所、
 アスファルトで臨時に修正してあるところが三箇所もあった。
・道路は所々に亀裂が入っており、地震の大きさを物語っていた。
・家は、少し壊れているのが目立つ位で大きな崩壊の家は無かった。
・近所のソフト・ハウスでは、ガレージに事務所内の壊れた棚や机などを
 出して、修理をしていた。
今回の地震は全ての家庭、事務所の内部が破壊されたのが特徴である。
家内の数人の友人の家は、全てひどい状態。
新潟のマンションに住む知人の家は殆ど被害は無かった。

近くにある坂之上小学校の避難所はどうなっているのか、散歩のついでに行ってみた。
受付で名前を書いて、横に積んである毛布をもらって、体育館の空きスペースに座る。
何か花見の場所取りをしているようである。 夜になると人で満杯になっるという。
受付の人に「まだ余裕はあるのか?]、と聞いたら、「ある}と言っていた。
昨夜から今朝にかけて2度、震度2~3の地震があったようだ。
今日は、新潟に行く予定だが、どうなる事やら。高速バスは2~3時間かかるという。

ー随想では、こういう内容を「生もの」という。
もっと具体的に、気持ちを正直に書いておくべきなのだろう。
めったにない体験なのだから。

・・・・・・・・
2003年10月27日(月)
936, 角栄の怨念 ーこの選挙の面白さ!
 -字数の関係でカットー2007年10月28日
  
・・・・・・・
562, ある時間の断片ー7
- 2002年10月27日(日)
1968年 9月21日

9時起床。11時に図書館に行く。
13時にコモンルームでゼミのフルメンバー16名が集合する。
そして八王子のセミナーハウスへ。
近年できたセミナー専用のコテージ付のセミナーハウスだ。
思っていたより敷地が広く建物が近代的なのに驚く。
メインの建物が逆三角形で、異様な感じだ。宿泊は二人で一部屋のツウィンだ。
それぞれのコテージが違うデザインで何か異界に入ったようだ。
空には飛行機が飛び交いまるで欧州にいるようだ。

夜から早速議論をはじめる。 課題は「遊び」だ。
「見返りのない、何の目的のない遊びこそが遊びだ」
「創造の為に、その背景としてそれは必要でないか」
私の言ったのは「4つの1つとしての位置付けの遊び
ー「愛、創造、知性、そして遊び」であった。
何かポイントが外れているようだった。

終了後、レストランで石川とゼミの一年後輩の大島君と飲んでいると、
武澤先生がこられる。その後夜半の12時半に寝る。

ー感想ー
日記を書き写していて、当時の日々がありありと思い出されてきた。
背景にベトナム戦争、大学紛争、そして高度成長期の真っ最中
でもあった。歌も二度とこういう時期は来ないというほど名曲が生まれていた。
その背景を持って誰もが緊張と希望に揺れていた。
夏休みは卒論の流通革命論を書く為に一ヶ月、大阪のメリヤス問屋
に行ってきた。その後新潟県の六日町の「雲頓庵」という
禅寺に一ヶ月にも行っていた。そして自宅に帰った後の日記である。

学生時代の十数年間の総括の時期であり、また新しい世界への旅たちの直前であった。
この卒業の直前一年は人生で一番良かったときかも知れない。
いろいろの人との邂逅と喧嘩と別れの時期でもあった。

寝ずに人生について話し合ったのが記録として日記に残っていた。
そういう意味で大学時代に恵まれていた、当時はその事に気が付いて
なかった。寮に、ゼミに、教授に、クラブに、友人に恵まれていた。
赤面する場面は当然カットして写している。

大学で学んだ事は、本を読む事、他人の話を聞きとること、議論を
する事、自分の壁を取り去る事、何事も勇敢にチャレンジする事、
戦略的思考をする事など数えればきりがない。
人生で一番良かった時期といえば、やはり大学生活であった。
馬小屋のような汚い寮であったが、いや長屋であった。
ー友人の間でもこの寮が凄いと話題になっていたー

父が5月に来て、翌月から仕送りを2倍にしてくれた、
あまりの凄さに同情したのだ。でも楽しい生活であった。
友人が吹き付けるようによって来た。一人になれないのが悩みでもあった。
あの孤独の都会生活で最後には友人が吹き付けるように集まったのは、
本当に良い青春の思い出の財産だ。

・・・・・・・・
[200] 月刊ー文芸春秋  2001/10/27

 今月の‘文芸春秋’の内容があった。
イスラエル旅行から帰ってきら、毎月読んでいた‘文芸春秋と週間誌’を
買わなくなった。嘘みたいだが本当の話である。‘図書館で読めばいい’に変わった。

あまりにも旧約聖書の世界が生々しいのだ。
今更そんなえげつない現象など如何でもいい、軽い話でしかないに
変わってしまった。2~3月に一回買うか買わないかである。

しかし今回は違った!テロの特集で、内容はかなり悲観的に書いてあったが、
買う価値は充分ある。
新聞で、インターネットで、TV でその意味はとらえていたつもりであった、
かなりシビアにその意味が書かれていた。
第一次世界大戦に似ている、始まりは(皇太子の暗殺)誰もそこまでいかないと
思っていたが、それは大戦の始まりでしかなかった。
アメリカの中心の世界貿易センターが壊滅した大事件だ。
イラクやアフガン北朝鮮?は攻撃対象になる!
当然考えらないテロも更に行われるだろう,日本も当然巻き込まれる。
それも仕方がない、当然と受け止めていいだろう。
少し本題とそれたが、今回は700円の価値が充分ある。

これからが本題。新聞と週刊誌と月刊誌の関係が時代によって、どんどん変わっている。
これに進化したデジタルTVとインターネットと携帯電話の情報手段が加わってきた。
まず新聞は週刊誌の分野を侵す、週刊誌は月刊誌の分野を。

月刊誌は小説等の分野か、専門雑誌の分野により進化、深化していくパターンに
なっていく。一例をとると、新聞は週刊誌のやっている、
「特集もの、解説、カラー写真、連続小説」
などの付加価値につけないと、部数が減っていく。

週刊誌は月刊誌のある専門分野のスペシャリストの手記や、
各種の専門分野を深く入り込んだ記事に入っていく。
月刊誌はそれぞれの特化した専門雑誌に変身していく。

それぞれ勝ち組と負け組みが、はっきりしている。
週刊誌では「週刊文春」、月刊誌では「文芸春秋」が勝ち組。
あとは年代層に特化した「週刊ポスト」、「週刊現代」あたり。
月刊誌では「新潮45」あたりがまあまあといったところ。
あとは専門雑誌の細分化が進む。